第34話
早朝の森は、いつになく静かであった。爽やかな風にざわつく木々のいつもの声も、セシリアにはどこか違って聞こえた。遠くの野鳥の鳴き声を背景に、セシリアたちは奥へ進んだ。
進化したスティフベア、ブルーはまず間違いなくあの2匹のうちのどちらかだとセシリアは考えていた。となれば、話は早い。あのときから縄張りが変わっていなければ、すぐに見つけられるはず。素人目には同じように見える森の木々も、セシリアから見れば一目瞭然、迷うことなくすいすいと進んでいく。
とはいえ、楽観はできなかった。ギルドもブルーの存在を確認した際に、どのあたりにいるかは確認しているはず。いつ討伐隊が追い付いてくるか、時間的な猶予は幾ばくもない。これ以上の犠牲を出さないためにも、早期の決着が必要だった。
森に慣れたセシリアからすれば、いくら常日頃から街を歩き回っている健康的なレナの足とはいえ遅く感じる。だが、それが逆に逸るセシリアの気を静めてくれていた。一人では決して得られない、誰かを守ろうとする意志。それが、セシリアを現世に留める原動力に繋がっていた。
——む、何かがおかしい。
森に入ってしばらく、セシリアが以前スティフベアと交戦した場よりかなり手前の位置、セシリアは言いようのない違和感を覚え、すぐにその場で立ち止まり警戒を強めた。レナも異常を感じ取ったのか、息を潜めて、セシリアに追随する。
目の前の空間が揺らいでいるような錯覚。今まで聞こえていた森の住人の声も鳴りを潜め、異質な静寂がこの場所の異常さを際立たせていた。
セシリアが奥を覗こうと顔を上げた瞬間、爆発にも似た雄叫びが、森中を駆け巡った。地獄の底から響くような重低音は、覚悟のないものに恐怖を呼び起こすには十分すぎるほどであった。
体の芯を震わせるような爆音の中、セシリアは冷静にその魔物を視界に捉えていた。遠近感を狂わせるほどの巨躯、森の蒼より一層青いその毛並み、周囲に頻りに発生しているスパーク、伝えられたブルーの特徴そのままであった。
来たる熾烈な戦いを前に、セシリアの心が昂っていく。その勢いのままブルーに突撃しようとするも、横から差し出された小さな腕に阻まれる。見れば、体を震わせながら、片手で耳を抑えたレナがふるふると首を振っていた。
「い、行くんですか?」
「もちろん」
震えの取れない声で訊いてくるレナに、セシリアは即答する。と同時に、少しばかりの後悔を滲ませる。それは冒険者でもないレナをここまで連れて来てしまったことに対するものだった。
——無理もない、むしろ僕がもう少し考えるべきだった。
命のやり取りを幾度となく繰り返し、既に覚悟を決めていた自分と、今まで生きた魔物にすら会っていなかったようなか弱い少女を比べるのは余りに酷な話だ。あのとき感じた確固たる意志も、根源的な恐怖の前では揺らいでしまったのだろう。
恐怖に体を縮こませるレナに、今朝の判断が誤っていたことを思うセシリア。ただ、今はそれを反省していても仕方がないと割り切り、レナに声を掛ける。
「レナ、やはり——」
「じゃあ、作戦通りここで待っていればいいんですよね?」
レナを帰らせようとしたセシリアの言葉を遮り、レナが落ち着きを取り戻した声で言った。予期せぬ事態に固まるセシリアを他所に、レナは深呼吸を挟み、緊張をほぐしていた。
「あ、ああ。だが、レナはやっぱり帰った方が」
「それはセシリアさんも一緒ですか?」
「いや、それは……」
「なら、私も残ります。元々そのために来たんですから」
急な変化に戸惑うセシリアであったが、よくよく見れば、レナの足が小刻みに揺れているのが分かった。未だ恐怖は取り除けていないのだろう、だがそんな中でもレナに譲る気はないようで、その瞳には覚悟が宿っていた。
じっと見つめられたセシリアに拒否権はなく、良くないと分かっていたものの認めざるを得ない。ただ、その諦めの中には、ほんの少し歓びが隠れていた。
「……分かった。じゃあ、頼んだよ」
「はい」
話はまとまった。後は、戦って勝利するだけだ。そうして茂みから出て行こうとするセシリアに、レナが何か思いついたかのように、待ったをかけた。
「あっ、最後に一ついいですか?」
「なんだい?」
「必ず、生きて勝ってくださいね」
「ああ」
近づけば近づくほどに、ブルーの存在感は増していった。少し見上げなければならないほどの体躯、凶悪な鋭い爪、バチバチと大きな音を立てて弾ける閃光。そのどれもが、セシリアを瞬殺できる脅威であった。
常時、漏れ出ている低い唸り声に竦みそうになる体を奮い立たせるセシリア。前戦ったスティフベアとは明らかに別格だった。経験を積んだ今なら、スティフベアと真っ向から勝負できるとセシリアは自負していたが、このブルーを前にして同じことは言えなかった。
——やはり、真っ向から勝つのは無理だろうな
それでも、セシリアに逃走の選択肢はない。苦しい展開が待っているのが分かり切っていたとしても、戦うしかない。それがセシリアの望んだ生き方なのだから。覚悟を決めて、セシリアはブルーの目の前に躍り出る。
ブルーは不遜な挑戦者を目の端に見つけ、まるで苛立っているかのように一際大きな唸り声を上げた。それが短くも熾烈な死闘の、開戦の合図となった。
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