Lost longing
暁明夕
あこがれ
『憧れは止められない』だなんて言うけれど、別にそんなことはないと、高校に上がるまで思っていた。
だって、中学までの自分は知らなさ過ぎていたから。
だからこそ、高校生となって知ることになった彼女の姿は、途轍もない程に私に感動を与えた。
人間という社会的で争いを生むことを避けられない存在に対して、初めて『美しい』という感情を得たのだ。彼女――自分よりも二つ年上の真田先輩。私の理想を体現したような人間性。ただ一つのゲームをノーダメージでクリアするかのように、一寸の過ちも許すことなく、ただ『完璧』を限りなく突き詰める人生を過ごしていた。
私のような、怠惰な完璧主義者は世に沢山いる。間違いを嫌う癖に、一度間違いをして仕舞えば全ての間違いを正せなくなる。そんな私とは違って、先輩は自分自身に厳し過ぎていたのだ。
私に初めて『理想』ができた。
理想を超えるだなんて、現実的なものではない。それを超えることができないからこそ、それは理想足り得るのだから。私は、その理想に限りなく同じに、近づこうと努力した――。
そして。
秋、十月二十二日、午前九時二十七分二十二秒。間もなく次の授業が始まろうとする中休み、教科書とノート、筆記具を机の上に取り出した瞬間のことだった。
「ねぇ」
廊下に面した窓側、前から三番目の席に位置する私に、窓を挟んだ廊下から声を掛けられた。
女性の声、何処か聞き馴染みのあるその声質に私はその方を向いた。
目と鼻の先、本当にその言葉通りに私の目の前に彼女は居た。
「え…………わっ……!」
余りの近さに、思わず後ずさりしてしまった。
「あら、完璧な私のことを目指して、ストーキングして……でもなかなかに腑抜けた声を出すのね」
長い黒髪を耳にかける。
「真田先輩…………」
文武両道才色兼備、整った顔立ち、礼儀も良く、学校内では、『高嶺の花』と呼ばれる二つ上の先輩――真田夏目。
如何やら、私は意識していなかったストーキング行為で先輩から認知されてしまっていたらしい。
「貴方、私の事が好きなの?」
「え…………?」
突然、妙なことを言われた――いや、私の行動が彼女にそんなことを言わせてしまったのだろう。
私の先輩への感情は好意なのか……だなんて、分からない。
「私はただ、先輩を尊敬して…………」
「尊敬……ねぇ? 私は普段の貴方からの視線が、他の生徒とは違うもののように思えるけれど」
先輩は変わらぬ表情で私の方を真っ直ぐ見つめた。
「そう……ですか…………?」
「えぇ、それでなんだけど…………」
先輩はそこで少し口籠った後に口を開いた。
「私と、お友達にならないかしら」
「お、お友達…………?」
本当に思っていなかった提案だった。でも、別に私に害がある訳でもない。寧ろいいこと尽くしくらいだった。
「それは…………ま、まぁ……いいですけど…………」
「本当? 良かった。断れたら私、何するか分からなかったからね」
サラッと怖いことを口にして、彼女はメッセージアプリのQRコードを差し出した。
「はいこれ。もう授業が始まるし、これからはメッセージでやり取りするから、こまめにチェックしといてね」
「あ、はい…………」
そう言い残し、完璧主義な先輩は小走りで去って行ってしまった。
時系列がかなり飛んでしまうけれど、私はその日から先輩との時間が増えることになった。
私が元より知っていた先輩の一面、モーニングルーティーンから夜の就寝時間まで、私が知らなかった先輩の一面、完璧主義でもニンジンが食べられないという愛嬌のようにも思える唯一の欠点まで、私は見ることが出来た。
十一月三日、真田先輩の誕生日。先輩に似合うツバキのブローチをプレゼントした。先輩はそれを喜んでくれて、私と会う時にはずっとそれを付けていてくれた。
十二月二十五日、クリスマス。今度は先輩からもプレゼントを戴いた。木製の名前入りボールペン。今でも使っているものだ。先輩には、シルクのハンカチを渡した。
元旦には一緒に初詣にも行って、一緒に登校する時間も増えた。
そうして、結局別れのときは来た。
彼女は国公立大学にストレートで合格し、卒業式を迎えた。凛とした姿勢を保ちながらも、初めて目元に溜まった涙をハンカチで拭う姿を、私はその時初めて見た。
そうして、桜の樹の下。
最後の別れの言葉を何とか頭の中で綴ろうとしている私に、卒業証書を手にした先輩はただ一言。
「とても楽しかった。私に、『友達』を教えてくれてありがとう。また、会いましょう」
そう口にして、歩いていってしまった。
その姿は、私の中で印象に残っていた。
例えニンジンが食べられなかったとしても、真田先輩の姿は完璧、理想そのものに変わりはなくて。
先輩の目指した学校を私も目指した。
卒業後も少しはメッセージのやり取りは続いていたけれど、いつの日からかパッタリ止まってしまってそこそこ優秀な学校だったのと、やっぱりもう一度先輩に会いたかったので、進路はすぐに決まった。
勉強した。今までの趣味の時間のほぼ全てを費やした。
結果的に合格した。心の底から安堵した。
先輩と同じようにこの学校を卒業して、またあの日を同じ桜の木の下で写真を撮った。
そして。
七月、入学してから高校のときには轟いていた真田先輩への尊敬の念は、大学の中では何故か無くなってしまっていて、不思議に思いつつもずっと探し続けていたある日のことだった。
嫌気がさすほどに身を焼く陽射し、それを避けようと、木陰を歩いていた時のこと。
私は見つけた。
見つけてしまった。
黒く長い髪を揺らし、歩いている女性。
高校ではかけていなかった眼鏡を付けていたけれど、その顔立ちには見覚えがあった。
私は慌てて先輩に声をかけた。
「先輩…………!」
「へっ…………!?」
息を切らして走ってきた私を見て、変な声を出す先輩。
「覚えてませんか…………? 私、美奈です。一年生の時に先輩と友達になった……」
先輩は困惑した表情であたふたしていた。
何か違和感を覚えていた時、遠くから男性が小走りでやって来た。
「お待たせ、夏目…………この子は知り合い?」
「え、えーっと…………」
高校のときの先輩とは違って、目の前の女性は内気そうな態度を示す。
「本当に覚えてないんですか…………?」
「……もしかして、高校のときに知り合いだったりした?」
横から男性が口を挟む。それに私は頷いた。
「だったら、少し困ったな。実は、彼女は大学に入ってすぐに、事故で記憶を失ってしまってね…………?」
「…………え………………」
私の中で、何かが崩れ去る音がした。
「脳にちょっと……ね……? もし、彼女の知り合いなら、情報が欲しいんだ。自分の名前以外忘れてしまってるっぽくて。あ、一応僕は彼女の友達として親しくさせてもらってる」
「……そう……ですか…………。いえ、何でもないです。人違いだったかもしれません」
そう、会話を無理に途絶えさせて、私はその場を離れた。
これが、私という存在の終わりだったのかもしれない。
ただ、この紙に遺していることは本当であって――いや、少しは私の妄想が入っているのかもしれないけれど。
なんにせよ、私があの場を離れた理由は一つ。
彼女は、ブローチを付けていなかった。
もう夏目先輩は、夏目先輩という存在ではなかったのだ。
そう……そうだな…………。
ただ一つ、私の疑問をここに記すとしたのなら。
私のあこがれは、失われてしまったのだろうか。
***
靴を揃え、封筒を一つ添える。
星が満ちた夜空の下、髪の毛が揺れる。
その後、私は自由落下した。
Lost longing 暁明夕 @akatsuki_minseki2585
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