第38話:最後の封印
王室専用の治療室は、朝の柔らかな光に包まれていた。窓の外では小鳥のさえずりが聞こえ、木々の葉が風に揺れていた。レインはゆっくりと目を開けた。意識が戻り始めてから一週間が経っていた。
「目が覚めたのね」
アイリスが窓際から近づいてきた。彼女の顔には疲れの色が見えたが、明るい笑顔を浮かべていた。
「ああ」
レインは上体を起こそうとした。以前より体が軽く感じられた。回復の兆候だった。
「どれくらい眠っていた?」
「今日で十日目よ」
アイリスがそっと彼の肩に手を置いた。「でも、最後の三日間は安定した眠りだった。回復のためには良いことよ」
レインは窓の外の風景を眺めた。王都は平穏そのものだった。先日の闘いの痕跡はもう見えない。
「エドガー王子とケインは?」
「二人とも順調に回復しているわ」
アイリスが答えた。「あなたほど深刻ではなかったから、もう通常の活動に戻りつつあるわ」
彼は安堵の息をついた。西区での闘いは危険なものだった。三人とも命を落としかねなかった。
「それで、王都の状況は?」
「落ち着いているわ」
アイリスがレインの枕元に座った。「西区の倉庫街は既に再建が始まっているし、黒い霧や淵の使いの目撃報告はまったくないの」
彼女はテーブルに置かれた報告書を手に取った。
「それどころか、世界中から良い知らせが届いているのよ」
「世界中から?」
「そうよ」
アイリスの表情が明るくなった。「あなたたちが淵の影の本質を変えたことで、世界全体に変化が起きているの。各地の古い呪いが解け、長年続いた不毛の地に草木が生え始めたという報告も」
驚くべき知らせだった。淵の影との闘いは、レインたちが想像していた以上に広範な影響をもたらしていたようだ。
「そして、これが一番の驚きよ」
アイリスが特に分厚い書類を取り出した。「魔法学院から報告が届いたの。世界中の魔力の流れが変化し、より調和した形に再編成されているんですって」
レインはその報告に目を通した。魔法使いたちの観測によれば、世界を流れる魔力の流れがより自然で効率的なパターンに変化していた。まるで世界そのものが癒されているかのようだった。
「私たちの行動が、ここまで影響するとは」
彼は感慨深げに言った。「淵の影は文字通り、世界の根幹に関わる存在だったのだな」
「そうみたいね」
アイリスは窓の方を見た。「リーザも言っていたわ。淵の影は単なる敵ではなく、世界の一部だったんだって。だから破壊するのではなく、変化させることが正しかったのよ」
彼らが会話を続けていると、軽いノックの音がした後、エドガー王子が入ってきた。彼は既に正装を身につけ、王子としての威厳を取り戻していた。
「レイン、目覚めたか」
彼は明るい笑顔を見せた。「良い知らせだ」
「王子様」
レインは敬意を込めて頭を下げようとしたが、エドガーは手で制した。
「そんな形式はいらない」
彼はレインのベッドの横に置かれた椅子に座った。「命を賭して世界を救った友人に、頭を下げられる筋合いはない」
「友人」
その言葉にレインは感慨を覚えた。かつて彼は転生した異世界で自分の居場所を見つけられるとは思っていなかった。それが今や、王子から友人と呼ばれるまでになっていた。
「来客がいるんだ」
エドガーがドアの方を見た。「会える状態かな?」
「ええ、大丈夫だと思う」
レインが答えると、エドガーは頷き、ドアの方に声をかけた。
「どうぞ、お入りください」
ドアが開き、意外な人物が入ってきた。レインは驚いて目を見開いた。
「ダーシー伯爵」
そこに立っていたのは確かにダーシー伯爵だったが、彼の姿は大きく変わっていた。髪は真っ白になり、顔には深い皺が刻まれていた。歩くのにも杖が必要なほど体が弱っていた。しかし、その目には穏やかな光があった。
「レイン殿」
伯爵は静かな声で言った。「お見舞いに参りました」
彼の後ろには若い男性が控えていた。レインはその顔を見て驚いた。
「アラン・ダーシー?」
アランもまた変わっていた。以前の高慢な表情は消え、謙虚さと恥じらいの色が見えた。
「レイン様」
彼は深く頭を下げた。「私の行いをお許しください」
エドガーが二人のために椅子を勧めると、ダーシー伯爵はゆっくりと腰を下ろした。
「私たちの記憶は完全ではありません」
伯爵は静かに語り始めた。「しかし、淵の影に操られていたこと、そして、あなた方によって救われたことは理解しています」
「ダーシー伯爵は三日前に意識を取り戻しました」
エドガーが説明した。「アランもつい昨日、目覚めたところです」
「淵の影との接触で記憶を失っていた部分も、戻りつつあるようです」
アイリスが付け加えた。
「私がどれほど恐ろしいことをしようとしていたのか」
伯爵は震える声で言った。「淵の影に心を明け渡し、世界の破滅を招きかけた。許されざる罪です」
「いいえ」
レインは静かに首を振った。「あなたも被害者です。淵の影は人の弱さにつけ込み、操ろうとする存在でした」
「それでも」
伯爵は深いため息をついた。「償いをしなければならない。私はダーシー家当主の地位を退き、隠居することに決めました」
「伯父上」
アランが心配そうに声をかけた。
「大丈夫だ」
伯爵は優しく甥を見た。「私の時代は終わった。これからはお前が家を導くのだ」
「しかし…」
「アラン」
伯爵は静かだが毅然とした声で言った。「お前も淵の影の力に惹かれた。その経験を無駄にするな。力の誘惑に打ち勝つ強さを得たのだから」
アランは黙って頷いた。彼の表情には新たな決意が見えた。
「レイン殿」
伯爵が再びレインに向き直った。「何か、私たちにできることはありませんか?」
レインは少し考え、静かに答えた。
「ダーシー家には広大な領地と、古い歴史がありますね」
「はい」
「その中に、創造者たちの遺跡や遺物があるかもしれません。それらを研究し、保護することが重要です」
エドガーが理解したように頷いた。
「古代の知識を集め、研究することは、未来の危機を防ぐためにも不可欠だ」
「そのための機関を設立しては?」
レインが提案した。「ダーシー家の領地内に、古代文明研究所のようなものを」
伯爵の目が輝いた。
「素晴らしい提案です。ダーシー家の資源と人脈を生かし、贖罪の意味も込めて、全力で取り組みましょう」
アランも興奮した様子で頷いた。
「私たちが淵の影に利用されたように、将来再び同じことが起きないよう、知識を集め、広める。それが私たちの使命ですね」
伯爵と甥の訪問は、レインに新たな希望をもたらした。淵の影との闘いは終わったが、その経験から学び、次の世代に伝えていく責任があった。
彼らが去った後、エドガーはレインの枕元に残った。
「国王陛下も、すぐにお見舞いに来られるそうだ」
彼は言った。「あなたへの感謝を直接伝えたいとのことだ」
「そんな…」
レインは恐縮した。「私一人の力ではありません。皆の協力があったからこそ」
「謙虚だな」
エドガーは微笑んだ。「しかし、あなたがいなければ、この勝利はなかった。それは誰もが認めるところだ」
彼は真剣な表情になった。
「父上は、あなたに特別な地位を与えたいと考えている。『王国古代文明顧問』として、賢者の商会を王国公認の研究機関として認めることも」
レインは驚いた。それは単なる商会主としての地位をはるかに超えた名誉だった。
「考えさせてください」
彼は静かに答えた。「私には、まだやり残したことがあります」
「それは?」
「真理の結晶」
レインはベッドサイドのテーブルに置かれた結晶を見た。「最後の封印の際、結晶が奇妙な反応を示しました。その真の目的を解明したいのです」
アイリスが結晶を手に取った。以前より透明度が増し、内部の光が強くなっていた。
「確かに変化しているわ」
「あなたの知る限り、結晶の本当の性質は?」
エドガーが尋ねた。
「ギルバート先生から受け継いだもの」
レインは答えた。「先生は、これが『創造者』の魂の欠片だと言っていました。しかし、それ以上の詳細は語りませんでした」
「『創造者の工房』で調査する価値があるかもしれないな」
エドガーが提案した。「そこには、まだ解読されていない多くの情報がある」
レインは頷いた。回復したら、再び工房を訪れる必要があるだろう。
その日の午後、国王アレクサンダー四世が治療室を訪れた。王としての威厳を保ちながらも、彼の表情には温かさがあった。
「よく回復したな、レイン殿」
彼は穏やかな声で言った。「王国全体が、あなたの回復を祈っていたぞ」
「そのようなご配慮、恐縮です」
レインは丁寧に応じた。国王は椅子に座り、直接彼と話す姿勢を示した。
「エドガーから聞いたが、あなたには更なる調査を続ける意向があるようだな」
「はい」
レインは自分の考えを説明した。真理の結晶の謎、創造者たちの遺産の調査、そして賢者の商会を通じた知識の普及について。
国王は静かに聞き入り、深く頷いた。
「賢明な考えだ。私も全面的に支援しよう」
彼は少し沈黙した後、続けた。
「王国はあなたに多大な恩義がある。何か望みがあれば言ってほしい」
レインは真剣に考えた。彼の本当の望みは何だろうか。力? 富? 名声? いずれも彼の心を動かさなかった。
「一つだけあります」
彼はゆっくりと言った。「賢者の商会を、単なる商業組織ではなく、学びと知識を広める場にしたいのです。『賢者の学院』として」
国王の目が輝いた。
「それは素晴らしい考えだ。王国は全面的に支援しよう。土地の提供、建設の援助、そして学院の認可を即座に行おう」
アイリスも喜びの表情を浮かべた。それはレインが以前から語っていた夢だった。現代知識と魔法の融合により、この世界をより良い場所にする。その第一歩となる場所を作ること。
「ありがとうございます、陛下」
レインは心からの感謝を示した。
「いや、こちらこそ感謝すべきだ」
国王は立ち上がり、窓の外の王都を見渡した。
「あなたが来なければ、この景色は失われていたかもしれない。私の子であるエドガーとソフィアも、王国も、全てが『淵の影』に飲み込まれていただろう」
彼はレインに向き直った。
「休息を取り、完全に回復したら、共に新たな時代を築いていこう」
国王の訪問後、レインはしばらく黙って窓の外を眺めていた。夕暮れが近づき、空が赤く染まり始めていた。
「何を考えているの?」
アイリスが静かに尋ねた。
「ここまでの道のり」
レインは答えた。「転生し、万物鑑定の能力を得て、賢者の商会を設立し、『創造者の工房』を発見し、そして淵の影との闘い。全てが不思議なほど繋がっている」
「偶然ではないのかもしれないわね」
アイリスは彼の側に座った。「あなたがこの世界に来たのは、この瞬間のためだったのかも」
「それが運命なら、とても複雑な計画だ」
レインは微笑んだ。「前世での私は、こんな未来を想像もしていなかった」
「後悔はしていない?」
アイリスの問いに、レインは真剣に答えた。
「一瞬たりとも。この世界に来て、あなたや皆と出会い、共に戦えたことは、私の人生で最も価値あることだった」
二人は静かに手を握り合った。言葉なしでも、心は通じ合っていた。
夜になり、治療室は静かになった。アイリスは隣の椅子で休んでおり、レインだけが起きていた。彼は真理の結晶を手に取り、その輝きを見つめていた。
「先生」
彼は小声で語りかけた。「私は正しい道を選んだでしょうか」
結晶が柔らかく脈動し、まるで応答しているかのようだった。その時、レインの意識に奇妙な感覚が流れ込んだ。それは声ではなく、むしろ感情や映像のようなものだった。
彼は目を閉じ、その感覚に身を委ねた。すると、鮮明なビジョンが現れた。
彼は星空の中にいた。無数の星々が周囲を取り囲み、彼の前には一人の老人が立っていた。その姿はギルバート先生に似ていたが、同時に異なっていた。より古く、より強大な存在のように感じられた。
「レイン」
老人は優しく微笑んだ。「よくやった」
「あなたは…創造者?」
レインは不思議な確信を持って尋ねた。
「そうだ」
老人は頷いた。「私は最後の監視者。創造者たちの意志を継ぐ者だ」
「なぜ私に?」
「君は特別だった」
老人は答えた。「前世での知識と、創造者の血を受け継ぐ可能性。そして何より、純粋な心」
彼はレインの肩に手を置いた。
「私たちは長い時間をかけて、淵の影を変える方法を探していた。それには特別な存在が必要だった。前世の知識と創造者の血、そして異なる世界の視点を持つ者」
「だから私は転生した」
レインは理解した。「それが…運命だったのですね」
「運命というより、可能性だ」
老人は微笑んだ。「君が選択したからこそ、全てが実現した。商会を作り、エドガーを助け、最後に淵の影と対峙する決断。全て君自身の選択だった」
レインは感慨深く頷いた。彼の人生は誰かに操られたものではなく、自分自身の選択の結果だったのだ。
「そして今、最後の封印の時だ」
老人は真理の結晶を指さした。「結晶の真の目的を理解したか?」
「創造者の魂の欠片」
レインが答えると、老人は深く頷いた。
「正確には、私の魂の一部だ。そして今、その役目は終わった」
「どういう意味ですか?」
「結晶は監視と導きのためのものだった」
老人は説明した。「淵の影が永続的に変化した今、もはや必要ない。結晶に込められた力は、新たな形で世界に還元される時が来たのだ」
老人は両手を広げた。
「最後の封印は、創造者の魂を解放すること。それにより、世界に新たな力が流れ込み、より安定した魔力の循環が生まれる」
レインは結晶を見つめた。それは単なる道具ではなく、生きた魂の一部だったのだ。
「何をすればいいですか?」
「心を開け」
老人は言った。「結晶と共に、最後の呪文を唱えよ」
レインは深く息を吸い、結晶を両手で包み込んだ。老人が教える古代語の言葉を、彼は静かに唱え始めた。
「光よ、汝の使命は果たされた」
「今こそ世界に還れ」
「創造者の意志として」
「新たなる調和のために」
結晶が強く輝き始め、彼の手の中で温かくなっていった。光は徐々に強くなり、最後には彼の体全体を包み込んだ。
「さようなら、レイン」
老人の声が遠ざかっていった。「そして、ありがとう」
光が消えると、レインは再び治療室にいた。手の中の結晶は、もはや存在していなかった。代わりに、細かな光の粒子が空中に漂い、次第に窓の外へと流れ出していった。
「終わったのだ」
彼は静かに呟いた。「最後の封印が完了した」
窓の外では、光の粒子が夜空に溶け込んでいった。まるで新たな星々が生まれるかのように。
レインは深い安堵と共に、静かに目を閉じた。彼の使命は果たされた。そして今、新たな始まりの時を迎えようとしていた。
(第三十八話 終)
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