第37話:影との戦い


 王都は朝の光に包まれていた。街路を歩く人々の表情には、日常の安らぎが戻りつつあった。数日前まで感じられた重苦しい雰囲気は薄れ、市場にはかつての活気が戻り始めていた。


 王城の病室でレインは窓の外を眺めていた。三角山から戻ってから三日が経っていた。体の疲労はまだ完全には抜けていなかったが、意識ははっきりとしていた。


「どうですか? 今日の調子は」


 アイリスが部屋に入ってきた。彼女の手には特製の薬草茶が入った杯があった。


「ずいぶん良くなった」


 レインは微笑んで答えた。「そろそろ起き上がれそうだ」


「無理はしないでください」


 アイリスは杯を彼に手渡した。「エドガー王子もケインさんも、まだ病室で休んでいますよ」


 レインは薬草茶を一口飲んだ。アイリスの調合した茶は、体の内側から温かさを与えてくれた。


「淵の影を変化させた時の代償は大きかった」


 彼は静かに言った。「三人とも魂の一部を使ったからな」


 アイリスは窓際に腰を下ろした。彼女の表情には安堵と心配が入り混じっていた。


「国王陛下が昼食後に見舞いに来られるそうよ」


「そうか」


 レインは杯を置いた。「報告しなければならないことがある」


 彼らが会話を続けていると、扉が開き、リーザが入ってきた。彼女の表情には緊張の色があった。


「レイン、大変なことになっています」


 彼女は息を切らして言った。「王都の西区で『淵の使い』が出現したという報告が」


「何だって?」


 レインは驚いて体を起こした。「淵の影は変化したはず。もう影響力はないはずだ」


「理論上はそうですが」リーザは続けた。「何か…残滓のようなものがあるようです」


 アイリスが顔色を変えた。


「ダーシー伯爵のように?」


「似ていますが、より小規模です」リーザが答えた。「まだ数体だけのようです」


 レインは考え込んだ。淵の影の本体は確かに変化させた。しかし、世界への影響がすべて即座に消えるわけではないのかもしれない。


「詳しい場所は?」


「西区の倉庫街です」リーザが言った。「マルコス隊長が騎士たちを率いて向かっていますが…」


「効果的な対処法を知らない」


 レインが言葉を継いだ。彼は迷わず簡素な上着を羽織り、立ち上がった。


「レイン! まだ休んでいるべきよ」


 アイリスが制止しようとした。


「時間がない」


 レインは真理の結晶を手に取った。「私だけが淵の使いを浄化できる」


 彼らが議論している間にも、新たな報告が入った。淵の使いの数が増え、市民への被害が出始めているという。


「力を貸してくれ」


 レインはリーザとアイリスに頼んだ。「現場に行かなければ」


 二人は仕方なく同意し、レインを支えながら病室を出た。王城の廊下では、衛兵たちが慌ただしく行き交っていた。


「何が起きているんだ?」


 進む途中、彼らはエドガー王子とソフィア王女に出会った。エドガーも病衣のまま廊下に立っていた。


「王子様」


 レインは事態を手短に説明した。「淵の使いが西区に出現しています。おそらく淵の影の残滓です」


「完全には消えていなかったのか」


 エドガーの表情が厳しくなった。「私も行く」


「兄上、あなたはまだ…」


 ソフィアが心配そうに止めようとしたが、エドガーは決意を固めていた。


「レイン、ケインも呼ぼう」彼は言った。「三人揃えば、より効果的だ」


 ケインもすぐに合流し、彼らは急いで馬車に乗り込んだ。王城から西区までは時間がかかる。その間に被害が拡大する恐れがあった。


「これを飲んでください」


 アイリスは三人に強化薬を手渡した。「一時的に体力を回復させます」


 馬車は王都の石畳を駆け抜け、西区へと向かった。道中、彼らは次々と避難する市民たちとすれ違った。恐怖に駆られた表情が、事態の深刻さを物語っていた。


「近づいてきた」


 リーザが窓の外を見た。前方の通りには黒い霧のようなものが立ち込めていた。


 馬車が停止し、彼らが降りると、マルコスが駆け寄ってきた。彼の鎧には戦いの跡があった。


「王子様! レイン殿!」


 彼は驚きと安堵が入り混じった表情を見せた。「まだ回復中のはずでは?」


「状況は?」


 エドガーが問うと、マルコスは前方を指差した。


「倉庫街全体が黒い霧に覆われています。中からは時折、淵の使いが現れます。近づく者を攻撃していますが、通常の武器では効果が薄い」


 レインは霧を観察した。確かに三角山で見た淵の使いに似ていたが、何か違いがあった。より形がなく、不安定に揺らめいていた。


「本体はないのか?」


「まだ見つかっていません」マルコスが答えた。「霧の中心部に何かがあるようですが…」


 レインは仲間たちを見た。エドガーとケインの表情には決意があった。三人は無言で頷き合った。


「私たちが行きます」


 レインはマルコスに言った。「騎士たちは市民の避難を優先してください」


「しかし…」


「我々三人なら大丈夫だ」


 エドガーが毅然とした態度で言った。「創造者の血を引く者として、これは我々の責任だ」


 マルコスは渋々同意し、騎士たちに新たな指示を出した。


「私たちも行くわ」


 アイリスとリーザが声を揃えた。


「いや」レインは首を振った。「危険すぎる。外から支援してくれ」


 彼らは簡単な作戦を立てた。三人が霧の中に入り、中心部の異変を探る。アイリスとリーザは外部から魔法的な支援を行う。ソフィアは騎士たちと共に市民の避難を指揮する。


「準備はいいか」


 エドガーが剣を抜いた。彼の剣は柔らかく光っていた。


「いつでも」


 ケインも武器を構えた。レインは真理の結晶を手に取り、その力を呼び覚ました。


「行くぞ」


 三人は同時に霧の中に踏み込んだ。一歩進むごとに、周囲の世界が変わっていくように感じた。音が遠くなり、視界が制限され、まるで別の次元に入り込んだかのようだった。


「気をつけろ」


 ケインが警告した。「何かが近づいている」


 霧の中から、黒い人型の影が浮かび上がった。淵の使いだ。しかし、三角山で見たものより形が曖昧で、まるで半分だけ存在しているかのようだった。


「弱っている」


 レインは観察した。「本体の変化により、力を失いつつあるのだろう」


 影は彼らに気づくと、不自然な動きで接近してきた。エドガーが剣を振るい、影に斬りかかった。剣が接触すると、影は一瞬揺らめいたが、すぐに形を取り戻した。


「普通の攻撃は効かない」


 ケインが言った。「レイン、真理の結晶を」


 レインは結晶を掲げ、その光を影に向けた。影は光から逃れようとするように後退した。


「効くようだ」


 彼らは結晶の光を盾にして前進した。次々と現れる影たちは光を恐れ、近づけなかった。


「中心部はどこだ?」


 エドガーが周囲を見回した。霧の中では方向感覚を失いやすかった。


「こちら」


 レインは本能的に感じた方向を指さした。「淵の影の残滓が最も濃い場所だ」


 三人は慎重に進み、やがて広い空間に出た。倉庫の中だった。そこでは、信じがたい光景が広がっていた。


 倉庫の中央に、黒い渦が形成されていた。それは床から天井まで伸び、ゆっくりと回転していた。渦の周りには数十体の淵の使いが円を描くように配置されていた。


「まるで…門のようだ」


 ケインが呟いた。


「正確には『次元の裂け目』だろう」


 レインは顔をしかめた。「淵の影の本体は変化したが、これは変化する前に形成され始めていた亀裂なのかもしれない」


「閉じなければ」


 エドガーは言った。「このままでは、影響が広がる一方だ」


 彼らが観察している間にも、渦からは新たな淵の使いが生まれ出ていた。それらは不完全ながらも、確かに実体を持っていた。


「どうすれば」


 ケインが尋ねた。「三角山での方法は使えるのか?」


「似たような方法で」


 レインは『創造の書』の記述を思い出していた。「三人の血を使って、裂け目を閉じることができるはずだ」


 彼は簡単な計画を説明した。三人が渦を取り囲み、三角形を形成する。真理の結晶の力と創造者の血の力を組み合わせれば、裂け目を封じることができるはずだった。


「しかし、邪魔が多すぎる」


 エドガーは周囲の淵の使いたちを見た。「近づくことさえ難しい」


 その時、突然外部から強烈な光が差し込んだ。アイリスとリーザが魔法の光源を倉庫内に送り込んだのだ。光に驚いた淵の使いたちは一時的に混乱した。


「今だ!」


 三人は機会を捉え、渦に向かって駆け出した。途中、数体の淵の使いが彼らを阻もうとしたが、真理の結晶の光で撃退した。


 彼らは渦を囲むように位置について、呪文を唱え始めた。それは古代語で、『創造者』たちが使っていた言葉だった。


「光の名において」

「創造者の血により」

「この断絶を閉じん」


 三人がそれぞれ小さな傷から血を滴らせ、渦に向かって差し出した。血滴は宙に浮かび、光り始めた。


 しかし、儀式の途中、渦が突然膨張した。それは三人を押し返すような力を放ち、倉庫全体が揺れ始めた。


「何が起きている?」


 ケインが叫んだ。彼らの足元の床にヒビが入り始めた。


「裂け目が抵抗している」


 レインは状況を理解した。「このままでは倉庫が崩壊する」


 彼らは必死に儀式を続けようとしたが、次々と淵の使いたちが彼らに向かって襲いかかってきた。


「守りが薄い!」


 エドガーが剣を振るいながら叫んだ。剣は淵の使いを完全には倒せなかったが、一時的に押し戻すことはできた。


 レインは事態が制御不能になりつつあることを感じた。このままでは、彼らも倉庫も危険だった。


「新しい計画が必要だ」


 彼は一瞬考え、決断した。「私一人が中心に入る。二人は外から守ってくれ」


「何を言っている」


 ケインが驚いて言った。「一人では危険すぎる」


「選択肢がない」


 レインは真理の結晶を強く握りしめた。「三人の力を一つにするには、一人が媒介にならねばならない」


 エドガーは一瞬迷ったが、状況を理解し、頷いた。


「わかった。だが、必ず戻ってこい」


「もちろんだ」


 レインは微笑み、二人に背を向けて渦に近づいた。真理の結晶は強く輝き、彼の体を保護するような光の鎧を形成していた。


 彼が渦に近づくにつれ、抵抗は強くなった。風のような力が彼を押し返そうとし、床は足元で砕け始めた。倉庫の梁が轟音を立てて折れ、天井から破片が落ちてきた。


「急げ!」


 エドガーが叫んだ。彼とケインは必死で淵の使いたちを押し返しながら、レインを守っていた。


 レインは渦の直前まで来ると、真理の結晶を両手で持ち上げた。


「光よ、闇を照らせ」


 彼は古代語で呪文を唱えた。「創造者の血よ、この道を閉じよ」


 結晶の光が眩しく輝き、渦の中へと向かって伸びていった。渦は抵抗するように激しく回転し、倉庫全体が揺れ続けた。


「もう少しだ」


 レインは歯を食いしばった。彼の体から力が急速に失われていくのを感じたが、それでも前進した。後ろからはエドガーとケインの励ましの声が聞こえた。


 その時、倉庫の壁が崩れ落ち、外部から強い光が差し込んだ。アイリスとリーザが魔法の力で壁を破り、中に入ってきたのだ。


「レイン!」


 アイリスが叫んだ。その声が、レインに最後の力を与えた。


 彼は一歩踏み出し、真理の結晶を渦の中心に押し込んだ。結晶と渦が接触した瞬間、眩い光が爆発した。レインは意識が遠のいていくのを感じながらも、最後の呪文を唱えた。


「閉じよ」


 光は渦全体を包み込み、次第に収縮していった。渦は抵抗するように激しく回転したが、次第に小さくなり、やがて一点に凝縮された。


 最後の光が消えると、そこには何もなかった。次元の裂け目は完全に閉じたのだ。


 レインは膝から崩れ落ちた。エドガーとケインが急いで彼のもとに駆け寄った。彼の体は冷たく、呼吸は浅かった。


「レイン!」


 アイリスが泣きながら彼に駆け寄った。彼女は彼の頭を抱きかかえ、名前を呼び続けた。


「意識が…薄れている」


 リーザが彼の状態を確認した。「急いで王城に戻らないと」


 周囲を見回すと、淵の使いたちは影も形もなく消え去っていた。倉庫は半ば崩壊し、黒い霧も晴れていた。外からは陽光が差し込み、街の音が聞こえ始めていた。


 エドガーはレインを抱え上げ、急いで倉庫の外へと運んだ。外では騎士たちが彼らを待っており、すぐに応急処置が始まった。


「息はある」


 薬師が確認した。「しかし、魔力が極度に枯渇している」


 アイリスは特製の薬を取り出し、レインの唇に滴らせた。彼の顔色は蒼白で、体は冷たいままだった。


「急いで王城へ」


 エドガーが命じた。「最高の治療を施す」


 彼らがレインを馬車に運び込む間、街全体から黒い霧が消えていった。太陽の光が再び王都を照らし、人々は恐る恐る避難所から出始めていた。


「成功したのね」


 ソフィアが空を見上げた。「淵の影の最後の痕跡も消えた」


「しかし、代償が大きすぎた」


 エドガーは沈痛な面持ちで言った。「レインは二度、自分の命を危険にさらした」


 馬車は急いで王城へと戻り、レインはすぐに治療室へと運ばれた。国王自らが立ち会い、王国最高の薬師や魔法使いたちが集められた。


 アイリスはずっとレインの側を離れず、彼の手を握り締めていた。リーザもエルフの治癒魔法の知識を総動員して治療に加わった。


「どうなるの?」


 アイリスは薬師長に尋ねた。彼女の目には涙が光っていた。


「魂が深く傷ついている」


 薬師長は重々しく言った。「通常なら回復は難しい。しかし…」


 彼は窓の外を見た。


「街全体から『光の波』が押し寄せています。人々の感謝と希望が、彼を包み込んでいるようです」


 実際、王城の窓からは不思議な光景が見えた。王都の各所から淡い光が立ち上り、治療室のある塔に向かって集まっていた。市民たちの間で、淵の影との戦いと、賢者の商会の勇敢な行動が伝わっていたのだ。


「集合意識の力」


 リーザが驚いた声で言った。「民の思いが彼を癒している」


 アイリスはレインの手をさらに強く握った。


「レイン、聞こえる? 皆があなたを待っているわ」


 彼女の涙が彼の手に落ちた。その瞬間、レインの指がかすかに動いた。


「反応があった!」


 薬師長が驚きの声を上げた。「治療を続けてください」


 街からの光はさらに強くなり、治療室全体を包み込んだ。アイリスはエルフの祈りの言葉を唱え始め、リーザも最大限の治癒魔法を放った。


 そして、長く感じられた時間の後、レインはゆっくりと目を開いた。


「アイリス…」


 彼の声は弱々しかったが、確かに聞こえた。


「レイン!」


 アイリスは喜びの声を上げ、彼を強く抱きしめた。「よかった…本当によかった…」


 治療室のドアが開き、エドガーとケイン、そしてソフィアが駆け込んできた。彼らの表情には安堵の色が広がっていた。


「成功したのか?」


 レインが弱々しく尋ねた。


「ああ」


 エドガーが頷いた。「裂け目は完全に閉じた。街からは黒い霧も淵の使いも消え去った」


「これで本当に終わりだ」


 ケインが微笑んだ。「淵の影は完全に去った」


 レインは安堵の表情を浮かべ、再び目を閉じた。しかし今度は安らかな眠りだった。


「しばらく休ませてください」


 薬師長が言った。「体力も魔力も極限まで使い果たしています。回復には時間がかかるでしょう」


 アイリスは彼の傍らに座り続けた。窓からは、市民たちの思いを表すかのような光が依然として差し込んでいた。


 王都は再び平和を取り戻した。淵の影との戦いは、多くの人々の記憶に刻まれ、後の世代へと語り継がれることになるだろう。


 そして賢者の商会の物語は、新たな章へと続いていくのだった。


(第三十七話 終)

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