第33話:敵から味方へ
夜明け前の薄暗い時間、王城の地下通路では静かな動きがあった。遠征隊のメンバーたちが最後の準備を整え、出発の時を待っていた。レインは装備を再確認し、『創造の書』を大切に鞄に収めた。
「全て揃っているか?」
マルコスが静かな声で尋ねた。彼は軽装の鎧を身につけ、腰に剣を下げていた。彼の部下である四人の精鋭騎士も同様の装備だった。
「問題ありません」
レインは頷いた。エドガー王子とソフィア王女も揃い、ケイン、アイリス、リーザも準備完了の合図を送った。彼らは派手な宮廷服ではなく、実用的な旅装束を身につけていた。
「それでは」
国王アレクサンダー四世が一行を見送るために現れた。彼は厳かな表情で息子と娘を抱擁した。
「エドガー、ソフィア、無事に戻ってくるのだぞ」
「はい、父上」
二人は深く頭を下げた。エドガーの表情には強い決意が見えた。
「レイン殿」
国王はレインの方を向いた。
「我が子たちと王国を頼む」
「必ずや使命を果たします」
レインは膝をついて誓った。その瞬間、彼の心に前世からの記憶が蘇った。転生前の世界での最後の日、そして異世界に目覚めた時の混乱。全ては今この瞬間のために導かれてきたように思えた。
「行きましょう」
マルコスの合図で、一行は地下通路を進み始めた。通路は王城の外へと続き、かつての有事の際に王族が脱出するために作られた秘密の道だった。
暗い通路を松明の明かりだけを頼りに進み、やがて彼らは王都の西外れに出た。空はまだ薄暗く、街は静かだった。
「馬は用意してある」
マルコスが薄暗い木立の中を指さした。そこには八頭の馬が控えており、二人の騎士が番をしていた。
「ここから山麓まで二日の行程です」
ケインが地図を確認した。「その後、山を登るのに一日、そして『星の門』での準備に一日。満月の前日に現地に着く計画です」
全員が馬に乗り、西の道を行く。東の空がわずかに明るくなり始めた頃には、既に王都は遠く離れていた。
***
午前中、彼らは順調に進んだ。旅の前半はなだらかな平原が続き、馬を駆けさせるには好都合だった。彼らは人目を避けるため、主要街道からは離れた脇道を選んでいた。
「今のところ問題なし」
先頭を行くマルコスが報告した。正午近く、小さな丘の上で休息を取ることになった。
「王都の様子は気になりますね」
アイリスが遠くを見つめながら言った。もはや王都の姿は見えなかったが、彼女の心配は尽きなかった。
「ヴァルターが約束を守ってくれるでしょう」
レインは彼女を安心させようとした。「彼は本当に改心したように見えた」
「人は変われるものだな」
ケインが感慨深げに言った。「敵だった者が味方になる。危機の時には、そういうこともあるものだ」
「彼は本来、悪人ではなかったのです」
リーザが述べた。「野心家ではあっても、『淵の影』のような存在ではない。彼自身も騙されていたのでしょう」
エドガー王子は黙って聞いていたが、ここで口を開いた。
「大切なのは、人がいつでも選択できるということだ。過去の過ちを認め、新たな道を選ぶ勇気を持てるかどうか」
その言葉に、全員が深く頷いた。
休息の後、彼らは再び馬に乗り、西へと進んだ。午後になると、風景は変わり始め、開けた平原から低い丘陵地帯へと移行していった。
「少し北に進路を変えましょう」
ケインが提案した。「このまま西に進むと、ダーシー家の領地に近づきすぎます」
マルコスも同意し、一行は北西へと針路を変えた。
夕方近く、彼らは小さな森の中で野営の準備を始めた。マルコスと騎士たちが周囲の安全を確認し、リーザとアイリスが魔法の結界を張った。
「これで夜間も安全です」
リーザは結界の最後の調整を終えた。「『淵の影』の探知も困難になるはず」
夕食はアイリスが用意した。彼女はエルフの知識を活かし、持参した保存食と森で見つけた食材を組み合わせて簡素ながらも栄養価の高い料理を作った。
「おいしい」
ソフィア王女が感嘆の声を上げた。「宮廷の料理とは違う風味ですね」
「エルフの調理法です」
アイリスは照れくさそうに笑った。「旅の疲れを癒し、魔力を回復させる効果があります」
食事の間、彼らは次の日の行程を確認し合った。このままのペースで進めば、明日の夕方には山麓の村に到着する予定だった。
「村では休息をとり、装備を整えましょう」
ケインが言った。「そして翌朝、山登りを始めます」
「山道は険しいのでしょうか?」
ソフィアが尋ねた。彼女は宮廷で育ち、このような旅に慣れていなかった。
「標準的な登山道はありますが、途中から獣道のような細い道になります」ケインは答えた。「しかし、ご心配なく。私が案内します」
夜の帳が下りると、彼らは交代で見張りを立てることにした。最初の当番はマルコスと騎士二名だった。レインは次の当番のため、早めに休むことにした。
***
「レイン、起きて!」
アイリスの声で目が覚めた。まだ夜中だったが、彼の当番の時間が来たのだろう。
「何か問題が?」
「見て」
アイリスは空を指さした。そこには奇妙な光の流れが見えた。まるで北極光のように、緑と青の光が空を漂っていた。しかし、それは通常の天体現象ではないように思えた。
「『淵の影』の影響です」
リーザも起きて、光の流れを観察していた。「魔力の流れが乱れています」
「どんな意味があるんだ?」
マルコスが尋ねた。彼は緊張した面持ちで見張りを続けていた。
「『創造の書』には、『淵の影』が次元の壁を薄くするとき、こうした現象が起こると書かれています」レインが説明した。「私たちの時間が少なくなっているということです」
「満月まであと四日」
エドガーも起き上がり、不思議な光景を見上げていた。「間に合うだろうか」
「間に合わせます」
レインは毅然と言った。「予定通り進めば、明後日には『星の門』に到着します。そこで準備を整え、満月の夜に儀式を執り行う」
全員が光景に見入っていたとき、遠くから馬のひづめの音が聞こえた。
「誰かが来る!」
マルコスが剣に手をかけた。リーザはすぐに結界を強化し、アイリスも薬草の入った袋に手を伸ばした。
「敵か味方か」
エドガーが静かに言った。
「三騎です」マルコスは暗闇を見通した。「速い」
全員が緊張して待つ中、三人の騎馬の姿が見えてきた。しかし、彼らが近づくにつれ、一同は驚きの声を上げた。
「あれは…」
「ヴァルターだ!」
確かに、先頭を走る馬上の人物はヴァルター・グランツだった。彼の後ろには二人の従者が続いていた。
結界の手前で彼らは馬を止め、ヴァルターが声を上げた。
「レイン殿! 重要な知らせがあります!」
リーザは慎重に結界を部分的に開き、ヴァルターたちを中に入れた。彼は馬から降り、疲れた様子でレインたちに近づいた。
「こんな時間に、どうされたのですか?」
レインが尋ねた。
「警告のためです」
ヴァルターは息を整えながら言った。「ダーシー伯爵が動きました。彼は昨夜、多くの手下を引き連れて屋敷を出ました。方角は東です」
「東?」エドガーが眉をひそめた。「三角山の方角だな」
「おそらく『星の門』を目指しているのでしょう」ヴァルターは続けた。「さらに、アラン・ダーシーも連絡を取り合っているようです。彼は既に山にいるという噂です」
この知らせは深刻だった。敵は彼らより先に目的地に向かっているようだった。
「ヴァルター殿、なぜこの情報を私たちにもたらしたのですか?」
ソフィア王女が疑問を呈した。彼女の目には警戒の色があった。
「王女様」
ヴァルターは深く頭を下げた。
「私は昨日の出来事で、真実を知りました。『淵の影』の脅威、そしてダーシー伯爵の正体。私はもはや彼らの味方ではありません」
彼は真剣な表情で続けた。
「私がこれまでレイン殿と『賢者の商会』に行ってきた仕打ちは許されるものではありません。しかし、せめてこの危機において、少しでも役に立ちたいのです」
レインはヴァルターの目を見つめた。そこには偽りがないように思えた。
「感謝します、ヴァルター殿」
レインは静かに言った。「この情報は非常に価値があります」
「私が来たのは警告だけではありません」
ヴァルターは言った。「私と従者たちは、あなた方と共に行動したいのです」
「何だって?」マルコスが驚いた声を上げた。
「私はダーシー家の動きを知っています」ヴァルターは説明した。「彼らの作戦、人員配置、そして…アラン・ダーシーの能力についても」
エドガーが前に出た。
「あなたの協力は歓迎します。しかし、この旅は危険を伴います。命の保証はできません」
「承知しています」
ヴァルターは毅然と答えた。「私は覚悟を決めています」
一同は短い協議の後、ヴァルターと彼の従者たちの同行を認めることにした。彼らの情報と力は、今後の旅で役立つはずだった。
「だが、常に監視下に置く」
マルコスはレインに小声で言った。「完全に信頼するには時期尚早だ」
レインも同意し、彼らの野営地の端にヴァルターたちの寝場所が用意された。
***
翌朝、一行は早めに出発した。ヴァルターからの情報により、彼らはさらに警戒を強め、進路も微調整した。
「ダーシー伯爵は東から登るでしょう」
ヴァルターが地図を指さした。「彼らは『影の谷』と呼ばれる場所に陣を張るはずです」
「『影の谷』?」ケインが眉をひそめた。「あの場所は不吉な噂のある谷だ。魔物が出るとも言われている」
「『淵の影』が活動しやすい場所なのかもしれない」リーザが推測した。
「我々は西からアプローチする」
マルコスは確認した。「それが最も安全なルートだろう」
朝の光の中、彼らは丘陵地帯を進んだ。天候は良好で、前日見られた奇妙な光の流れはなくなっていた。しかし、全員が緊張感を抱えていたことは明らかだった。
「ヴァルター殿」
レインが彼に近づいた。「正直に教えてください。なぜここまで協力的なのですか?」
ヴァルターはしばらく黙っていたが、やがて静かに話し始めた。
「私には妻と二人の子供がいます。彼らは今、バレンフォードにいる」
彼は遠くを見つめながら続けた。
「昨日、あの黒い影を見たとき、私は恐怖を感じました。自分の家族が同じ恐怖に怯えることを想像したとき…」
彼は言葉を詰まらせた。
「私は商人です。利益を追求し、時に卑怯な手段も使ってきました。しかし、世界の滅びは望んでいません」
レインはその言葉に心を動かされた。彼の前に立つのは、もはや高慢な商人ではなく、家族を守りたいと願う一人の人間だった。
「あなたの家族は無事でしょう」
レインは静かに言った。「バレンフォードでも『賢者の商会』のメンバーたちが防護薬を配布していますし、あなたの商会も協力しているはずです」
「ありがとう」
ヴァルターの目には感謝の色があった。
「私がこれまであなたの商会に行ってきたことを…」
「過去は過去です」レインは彼の言葉を遮った。「今、私たちは同じ目標に向かって進んでいる。それが重要なのです」
二人は互いに理解し合った様子で頷いた。
昼過ぎ、彼らは山脈が近づいているのを確認できた。遠くに三角形の峰が見え始めていた。
「あれが三角山です」
ケインが指さした。「『星の門』はあの三つの峰の間にある」
「美しい…」
ソフィアが感嘆の声を上げた。確かに、三角山は荘厳な美しさを持っていた。三つの峰は完璧な三角形を形成し、その均整の取れた姿は自然の造形とは思えなかった。
「『創造者』たちの技術の成せる業だ」
ハーマン館長が言った。「彼らは山さえも動かす力を持っていたという」
午後も順調に進み、夕方には山麓に広がる森に入った。ここからは馬での移動が難しくなり、彼らはより慎重に進む必要があった。
「村まであと二時間ほどです」
ケインが言った。「日没前に着けるでしょう」
そのとき、リーザが突然立ち止まった。彼女の表情に緊張が走った。
「何か感じる…」
彼女は周囲を見回した。「魔力の乱れが…」
アイリスもそれを感じたようで、耳を澄ませた。彼女のエルフとしての感覚が、何かの異変を捉えていた。
「森が…警告している」
マルコスは即座に防衛態勢を取らせた。騎士たちが剣を抜き、一行を守る円陣を形成した。
「何がいる?」エドガーが静かに尋ねた。
答えを待つ間もなく、森の中から黒い影のような存在が現れ始めた。それらは人型に近いが、はっきりとした輪郭はなく、煙のように揺らめいていた。
「『淵の使い』だ!」
リーザが叫んだ。「『淵の影』の分身のようなもの!」
影たちは彼らを取り囲むように森の中から現れ、じりじりと近づいてきた。
「防護の準備を!」
レインは即座に行動した。アイリスが特製の防護薬を取り出し、リーザは魔法の結界を張り始めた。
「剣は効かないかもしれない」
マルコスは剣を構えながらも懸念を口にした。「どうやって戦えばいい?」
「光です」レインが言った。「『創造者の書』によれば、『淵の使い』は光を恐れます」
彼は準備していた特殊な結晶を取り出した。それはかつて「創造者の工房」で見つけたもので、強い光を放つ力を持っていた。
「全員、目を閉じて!」
レインが警告し、結晶に魔力を注いだ。すると、耐え難いほどの強い光が放たれ、森全体を白く照らした。
黒い影たちは悲鳴のような音を上げ、光から逃げるように後退した。しかし、完全に消え去ることはなく、森の暗がりに潜んでいた。
「これで一時的に退けた」
レインは言った。「しかし、彼らはまだそこにいる」
「村まで急ぎましょう」
ケインが提案した。「村には古来からの結界があります。そこなら安全です」
一行は急いで森の中を進んだ。影たちは彼らを追うことはなく、ただ遠くから観察しているようだった。
「彼らは探査をしているだけかもしれない」
リーザが推測した。「私たちの位置を確認するために」
「ダーシー伯爵に報告するためだろう」
ヴァルターが言った。「彼は『淵の使い』を操ることができるようになったのかもしれない」
日が沈み始めた頃、彼らはようやく山麓の村に到着した。村の入口には古い石柱が立っており、そこに不思議な文様が刻まれていた。
「村の結界です」
ケインが説明した。「何世紀も前から、この村を守ってきた」
彼らが村に入ると、結界が一瞬光り、彼らの後ろで閉じた。これで「淵の使い」から身を守ることができるはずだった。
村は小さいながらも整然としていた。石造りの家々が山の斜面に沿って建ち並び、中央には泉があった。村人たちは彼らの到着に気づき、好奇心と警戒心の入り混じった表情で見つめていた。
「族長が戻ってきた!」
一人の古老が叫び、村人たちがケインを囲んだ。彼はレインたちを村人に紹介した。
「彼らは王都からの来客だ。『星の門』への旅をしている」
村人たちの間に驚きのざわめきが広がった。
「『選ばれし者』が来たのか?」
老いた女性が尋ねた。彼女はケインを含む村の長老の一人のようだった。
「そうだ」ケインは頷いた。「王子がその一人だ」
エドガーが一歩前に出た。彼の姿に、村人たちは敬意を示して頭を下げた。
「私たちはこの村で一晩休息させていただきたい」
エドガーは丁寧に言った。「そして明日、『星の門』を目指します」
「もちろんです」
古老が答えた。「我々の村は代々、『星の門』と『選ばれし者』を守る役目を担ってきました。全てのもてなしを提供します」
村人たちの協力により、彼らは快適な宿と食事を得ることができた。夕食後、村の長老たちがレインたちを会議に招いた。
「私たちにもわかっています」
長老の一人が言った。「『淵の影』が近づいていることを。空に現れる光、動物たちの奇妙な行動、そして…村人たちの夢」
他の長老も頷いた。
「『選ばれし者』の来訪はまさに時宜を得たものです」
彼らはレインたちに「星の門」について、村に伝わる知識を共有した。それは『創造の書』の情報を補完するものだった。
「『星の門』に近づくには、三つの試練があります」
最年長の長老が言った。「心の試練、体の試練、そして魂の試練です」
「具体的には?」
レインが尋ねた。
「それは『選ばれし者』ごとに異なります」
長老は答えた。「『創造者』の血が受ける試験なのです」
エドガーは真剣に聞き入っていた。
「準備はできています」彼は言った。「どんな試練でも乗り越えます」
会議の後、一同は明日の山登りに備えて早めに休むことにした。しかし、レインは眠れず、村の泉のそばに座っていた。
「眠れないのか?」
ヴァルターが近づいてきた。彼も同じように眠れなかったようだ。
「ええ、少し考え事を」
「明日から本格的な挑戦が始まるな」
ヴァルターは空を見上げた。満月まであと三日、そして「星の門」までは一日の道のりだった。
「レイン殿」
彼は真剣な表情でレインを見た。
「以前から疑問に思っていたことがある。あなたは他の商人とは違う。その知識と技術は、ただの商人のものではない」
レインは微笑んだ。
「私には特別な師がいました」
彼は真理の結晶を取り出した。
「この結晶の中に、師の教えが込められています」
ヴァルターはそれ以上詮索しなかった。彼はただ静かに頷いた。
「明日、私も全力を尽くします」
彼は誓った。「かつての敵として、今は味方として」
二人は静かな理解の中で夜を過ごした。明日からの山登りと、その先にある「星の門」での儀式。全ての準備は整った。
(第三十三話 終)
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