第30話:夜の決意


 王立図書館の奥にある研究室は、ろうそくの明かりで照らされていた。夜も更けた時間だが、レインとハーマン館長は『創造の書』と古文書の解読作業に没頭していた。机の上には何冊もの本が積み重ねられ、壁には地図が複数貼られていた。


「この記述は…」


 ハーマンが年老いた指で古い羊皮紙のある行を指した。


「『淵の影の周期は星の巡りと一致する』とある。天文記録と照らし合わせると…」


「一致しています」


 レインは別の書物を確認した。それは王国の天文学者が何世紀にもわたって記録した星図だった。


「五百年ごとに特殊な星の配列が見られる。そして、その直後に災害や異変の記録がある」


 二人は淵の影の到来時期を特定しようとしていた。満月の儀式まで残り十二日。準備はまだ完全ではなかった。


「ここに重要な記述が」


 レインは『創造の書』のある章を注意深く解読していた。


「『淵の影は最初に選ばれし者の心に語りかける。次に現実の壁を弱め、最後に実体化して世界を飲み込む』」


「段階的に進むのか」ハーマンは眉をひそめた。「今はどの段階だろう?」


「エドガー王子の夢から判断すると、第一段階にあると思われます」レインは答えた。「しかし、王子が『親しみ』を感じるようになったというのは、第二段階に移行しつつある兆候かもしれません」


 二人はさらに解読を続けた。「創造者」たちの残した文書は複雑で、多くの象徴や暗号が用いられていた。しかし、次第に全体像が見えてきた。


「創造者たちは、自分たちの世界が淵の影によって破壊されたために、この世界に逃れてきたのかもしれない」


 ハーマンはそう推測した。記録によれば、彼らは「光の民」と自らを呼び、「闇の追跡」から逃れてきたという記述があった。


「そして、彼らはこの世界でも追いつかれた」


 レインは続けた。「しかし、最後の力を振り絞って封印を施した。その力を持つ血を王家に残したのだろう」


 夜が更けていく中、二人の脳裏には重大な真実が浮かび上がってきた。彼らが直面しているのは単なる危機ではなく、世界の根幹に関わる脅威だった。


 ***


 同じ時間、王城の別の一角では、アイリスとリーザが特別な薬と儀式の道具を準備していた。


「この混合比でいいのかしら?」


 アイリスは慎重に二種類の粉末を計量していた。彼女はエルフの伝統的な知識と『創造の書』の情報を組み合わせ、王子の精神を守るための特別な薬を作っていた。


「完璧よ」


 リーザは魔力探知の水晶で確認した。「魔力の均衡が取れている。これなら王子様の心を守れるはず」


 彼女たちの作業部屋にも、複数のろうそくが灯されていた。城内では夜間の活動を最小限に抑え、不必要な注目を避けるよう国王から指示が出ていた。


「リーザ、元素の結晶は見つかった?」


「ええ、ようやく四つ揃ったわ」


 リーザは小さな箱を開けた。中には赤、青、緑、茶色の四つの結晶が収められていた。それぞれが火、水、風、土の元素の力を宿していた。


「これらは儀式に不可欠ね」


 アイリスは感嘆の眼差しで結晶を見つめた。「純度の高い元素結晶は稀少なもの。魔法学院の協力がなければ集められなかったでしょう」


「それでも、まだ懸念はあるわ」


 リーザは眉をひそめた。「儀式の場所が敵に知られてしまった。『星の門』での儀式は妨害される可能性が高い」


 アイリスは深く息を吸った。


「そのためにも、私たちの準備が重要なのね」


 彼女はテーブルに広げられた古い地図を見つめた。そこには三角山の詳細な地形と、頂上にある「星の門」の位置が記されていた。


「別ルートも確保しておかなければ」


 二人は黙々と作業を続けた。外では雲が月を覆い、王都は深い闇に包まれていた。


 ***


 王子の居室では、エドガーが独り目を閉じ、精神の安定を保つ訓練を行っていた。レインとアイリスから教わった「創造者」の瞑想法だ。彼の周りには、特別な結界が張られていた。


「集中…」


 彼は自分の意識を内側に向け、自分の存在の核心を感じ取ろうとしていた。瞑想の中で、彼は再び古代都市の風景を見た。しかし今回は、夢のような混沌としたものではなく、より鮮明で秩序立った光景だった。


「ここが創造者の都…」


 彼はその光景に没入していった。高い塔、光り輝く道路、空を舞う乗り物—驚くほど進んだ文明の姿がそこにあった。さらに、彼は都市に住む人々の姿も見ることができた。彼らは人間に似ていたが、どこか違っていた。より背が高く、目には特別な輝きがあった。


「選ばれし者よ」


 突然、声が彼の意識に響いた。エドガーはその声を認識した。それは彼の夢に何度も現れた声だった。


「あなたは誰?」


 エドガーは心の中で問いかけた。声には澄んだ響きがあり、敵意は感じられなかった。


「私は最後の監視者。『創造者』の意志を継ぐ者」


「淵の影ではない?」


「違う。私は光の側に立つ者」


 声は続けた。


「時が迫っている。淵の影は着実に近づいている。儀式の準備は整ったか?」


「まだ完全ではない」エドガーは正直に答えた。「しかし、私たちは全力で取り組んでいる」


「良い。だが警戒せよ。闇の使者たちも動いている」


「闇の使者?」


「淵の影に心を売った者たち。彼らは封印を破壊しようとしている」


 この言葉に、エドガーは緊張した。ダーシー家のことを指しているのだろうか。それとも別の存在なのか。


「どうすれば彼らを見分けられる?」


「彼らは光を恐れる。真実の光に照らされると、正体を現す」


 声は次第に弱まっていった。


「準備を急げ。満月の夜、『星の門』にて会おう」


 エドガーが目を開けると、部屋は静寂に包まれていた。窓から差し込む月明かりが、彼の顔を青白く照らしていた。彼は立ち上がり、書き物机に向かった。そして、瞑想中に見聞きしたことを詳細に記録した。


「明日、レインたちに報告しよう」


 彼は呟いた。王子の決意は日に日に強まっていた。


 ***


 翌朝、王城の小さな会議室に、レイン、アイリス、リーザ、ハーマン、そしてエドガー王子が集まった。王子は昨夜の体験を詳しく説明した。


「この『監視者』とやらは信頼できるのか?」


 リーザが疑問を呈した。「淵の影の罠かもしれない」


「私はそうは思わない」


 エドガーは自信を持って言った。「声には純粋さがあった。それに、『創造の書』に記された『光の民』の描写と一致している」


 レインも頷いた。


「昨夜の古文書解読で、私たちも同様の存在について発見しました。『最後の監視者』は創造者たちが残した防衛機構の一種かもしれません」


「闇の使者についても調査すべきでしょうか?」


 アイリスが尋ねた。


「既に着手しています」


 ハーマンが答えた。「古い記録によれば、淵の影が接近する時期には、必ずその手先となる人間が現れるとあります。彼らは『淵に選ばれし者』とも呼ばれています」


「選ばれし者に対抗する存在か」


 リーザが理解した様子で言った。「そして、ダーシー家がその役割を担っている可能性がある」


「では、闇の使者は他にもいるということ?」


 アイリスの問いに、一同は沈黙した。


「可能性はあります」


 レインは慎重に言った。「ダーシー家だけが全てとは限らない。私たちはもっと警戒しなければなりません」


 会議では、儀式の準備状況も確認された。四大元素の結晶は揃い、儀式に必要な呪文の解読も進んでいた。また、「星の門」への隠密ルートも複数確保された。


「残る問題は、ダーシー家の動きです」


 レインが言った。「彼らも満月の儀式を知っているはずです。必ず妨害してくるでしょう」


「対策は考えてある」


 エドガーが言った。「父上にも相談しました。表向きは、満月の前夜に王城で特別な祭儀を行うと発表します。私も参列する予定だと」


「囮作戦ですか」


「そう。実際には、その前日に密かに出発する」


 計画は練られつつあった。しかし、まだ不確定要素も多かった。


 会議の後、レインはエドガー王子と二人きりで話をした。


「王子様、率直に申し上げて、儀式には危険が伴います」


 彼は真剣な表情で言った。「『創造の書』によれば、選ばれし者は自らの生命力を使って封印を行います」


「わかっています」


 エドガーは落ち着いた様子で答えた。「それでも、私はこの任務から逃げるつもりはありません」


「しかし…」


「レイン」


 王子は微笑んだ。


「私は王子である前に、この国の民です。民を守るために、どんな犠牲も厭いません」


 その言葉にレインは答えることができなかった。エドガーの覚悟は本物だった。


「ただ、一つだけ約束してほしい」


 エドガーは続けた。「もし私に何かあっても、あなたたちは父上と姉上を支え続けてください。そして、この国を」


「約束します」


 レインは深く頭を下げた。その胸には複雑な感情が渦巻いていた。


 ***


 その日の午後、レインは王城の高い塔に登り、遠くを見つめていた。彼の思考は古代遺跡での発見から現在の危機、そして未来への不安まで、様々なことが巡っていた。


「ここにいると思った」


 声がして振り返ると、アイリスが立っていた。


「少し考え事をしていたんだ」


「伝えたいことがあるの」


 彼女は真剣な表情で近づいてきた。


「バレンフォードからの連絡よ。ガルムが通信結晶で知らせてきたわ」


「何かあったのか?」


「ギルバート先生の古文書から重要な情報が見つかったの」


 アイリスは小さな紙片を取り出した。そこにはガルムが書き留めたメモがあった。


「『淵の影』は完全に破壊することはできない。しかし、その力を『分散』させることはできるという」


「分散?」


「複数の封印ポイントを設けることで、一か所への負担を減らすという考えよ」


 レインは目を見開いた。


「それなら、王子への負担も軽減できる」


「ええ。でも、そのためには複数の『選ばれし者』が必要なの」


 レインは考え込んだ。王家の血を引く者は限られている。国王とソフィア王女、そしてエドガー王子。


「だが、王家の血筋だけでなく」


 彼は何かを思い出したように言った。「『創造の書』には、王家以外にも一部の『創造者の血』を引く家系があると書かれていた」


「そう。そして、その一つが…」


「ケイン族長の村だ」


 レインは興奮した。「彼は代々、王家と創造者の間の橋渡し役を担ってきたと言っていた」


 二人は急いで図書館に戻り、ハーマン館長とリーザを呼び出した。新たな情報を基に、儀式の計画を練り直す必要があった。


「複数の封印ポイントという考えは理にかなっている」


 ハーマンは『創造の書』の関連部分を確認した。「実際、古文書にも似たような記述がある」


「でも、準備が間に合うのでしょうか?」


 リーザが心配そうに言った。「満月まであと十日もない」


「急がなければならない」


 レインは決意を固めた。「まず、ケインに会って詳細を確認しよう」


 彼らはケインの宿泊している宿へ急いだ。彼の協力が得られれば、儀式の成功率は大きく上がるはずだった。


 ***


 宿に着くと、彼らはケインが部屋でじっくりと書物を読んでいるのを見つけた。それは彼が村から持ってきた古い家伝の本だった。


「ケインさん、重要な話があります」


 レインたちはバレンフォードからの情報と、複数封印の可能性について説明した。ケインはそれを静かに聞き入った。


「実は、私もそのことについて調べていたところだ」


 彼は読んでいた本を見せた。


「我が家に伝わる記録によれば、我々の祖先は『創造者』の一派だという。王家とは別の血筋だが、同じ『光の民』の末裔だ」


「それは本当ですか?」


「ああ。だからこそ代々、王家と特別な関係を持ってきた。『星の門』の儀式にも関わってきたのだ」


 ケインは真剣な表情で続けた。


「私は覚悟している。儀式に参加する準備はできている」


「危険は理解していますか?」


「もちろんだ」


 彼は静かに微笑んだ。


「我が家には古くから言い伝えがある。『光の守護者として生き、必要なら光のために死ぬ』と」


 彼の覚悟にレインたちは感銘を受けた。


「ではこれから詳細を詰めていきましょう」


 彼らは深夜まで、複数封印の具体的な方法について話し合った。『創造の書』と古い家伝の知識を組み合わせることで、より効果的な儀式が可能になるはずだった。


「明日、国王陛下とエドガー王子に報告します」


 レインは言った。「この計画なら、王子様の負担も減るでしょう」


 星々が輝く夜空の下、彼らの心には新たな希望が灯った。しかし同時に、ダーシー家の動きも警戒しなければならなかった。時は刻一刻と過ぎていく。


 ***


 翌日、国王とエドガー王子にケインの血筋と複数封印の計画が伝えられた。国王は深い思考に沈んだ後、計画を承認した。


「これで成功の可能性が高まる」


 国王は安堵の表情を見せた。「ケイン殿の勇気に感謝する」


 エドガー王子も新たな希望を見いだしていた。


「これで、より確実に淵の影を封じることができますね」


 しかし、彼の表情には依然として覚悟が見えた。彼は自分の役割の重要性を理解していた。


「さて、準備を急ごう」


 国王は命じた。「満月まであと九日。その間に全てを整えなければならない」


 会議の後、レインは真理の結晶を手に、一人で思索にふけった。


「先生、私たちは正しい選択をしたでしょうか」


 彼は静かに問いかけた。


「ケインさんを危険に巻き込むことになりました。しかし、これが世界を救う最善の方法だと信じています」


 結晶は静かに輝き、彼の心に安らぎを与えた。


「この世界での私の役割は、『創造者の工房』を見つけ、『選ばれし者』を助けることだったのでしょうか」


 レインは窓から見える月を見上げた。まだ半月だが、日ごとに満ちていく。その光が、彼らの行く末を照らしているようだった。


「淵の影との決戦まであと九日。私たちは準備を整え、この世界を守りぬく」


 彼の決意は固かった。賢者の商会から始まった彼の旅は、今や世界の命運を左右する大きな物語の一部となっていた。そして、その物語の結末は、満月の夜に明らかになるだろう。


(第三十話 終)

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