第28話:創造者の記録


 山を下る道のりは、上るときよりも容易だった。しかし、レインの心は重かった。彼の両手には『創造の書』が抱えられ、その重みは物理的なものだけではなかった。


「雨が近いな」


 ケインが空を見上げた。灰色の雲が山々を覆い始めていた。一行は急ぎ足で下山を続けた。


「あの守護者の言葉が気になる」


 リーザが横に並んで歩きながら言った。「『淵の影』が再び接近しているというのは、具体的にいつのことなのかしら」


「『創造の書』に答えがあるはずだ」


 レインは抱えている本を見た。しかし、開いて読むのは王都に戻ってからにしようと決めていた。この貴重な記録は、エドガー王子の前で初めて開かれるべきだった。


 午後になると予想通り雨が降り始め、一行は先日宿泊した洞窟に再び避難した。外は土砂降りとなり、山道は川のように水が流れていた。


「危険な下山になるところだった」


 マルコスが安堵の表情で言った。洞窟内で焚き火を起こし、濡れた衣服を乾かし始めた。


「工房では何があったのですか?」


 トムが好奇心に満ちた表情で尋ねた。彼は入口で見張りを担当していたため、内部で起きた出来事を知らなかった。


 レインは簡潔に出来事を説明した。守護者の出現、創造者たちの歴史、そして「淵の影」の脅威について。また、エドガー王子が「選ばれし者」であること、そして彼が重要な役割を担うことになる点も伝えた。


「信じ難い話だ」


 ケインは呆然としていた。「村の伝説は真実だったのか」


「その通りです」ハーマンが頷いた。「創造者たちは実在し、彼らの遺産は今も我々の世界に影響を与えている」


 アイリスは小さな火の前で手を温めながら、考え込んでいた。


「エルフの古い伝承にも似た話があるわ。『星の民』と呼ばれる存在が、遠い昔に我々の世界を訪れたという」


「創造者たちとエルフには関係があるのでしょうか?」リーザが興味深そうに尋ねた。


「わからないけど、可能性はあるわ」アイリスは答えた。「エルフの寿命は人間より長く、記録も古くまで残っている。調べる価値はあるでしょうね」


 夜が深まるにつれ、雨は止み、雲の切れ間から星が見え始めた。レインは洞窟の入口に立ち、星空を見上げていた。


「先生、重大な発見をしました」


 彼は真理の結晶に語りかけた。


「この世界の歴史は、私が思っていたよりも複雑です。そして、私の役割も」


 真理の結晶は微かに光を放った。レインはその小さな光に慰められる思いがした。


「王子に『創造の書』を届け、彼の使命を果たせるよう助けることが、私の次の目標です」


 ***


 翌朝、天候は回復し、一行は下山を続けた。道中、彼らは村人たちに再会した。ダーシー派の姿はなく、彼らが無事に村に戻ったという報告もなかった。


「守護者が言った通り、彼らの記憶が操作されたのかもしれない」


 リーザが推測した。「工房の場所さえ忘れさせられていれば、彼らからの危険は減るでしょう」


 山麓の村に戻ると、エラが熱心に彼らを出迎えた。


「無事で良かった!」


 彼女は父と兄を抱きしめた。レインたちにも温かい食事と休息の場が提供された。


「今夜は村で休み、明日王都へ戻りましょう」


 マルコスの提案に全員が同意した。長い山旅の後、一晩の安眠は必要だった。


 夕食の席で、ケインが申し出を行った。


「レイン殿、よろしければ私もあなた方と王都へ同行したい」


 彼の申し出に、レインは驚いた。


「何故ですか?」


「守護者の言葉を聞き、古い使命を思い出したのだ」ケインは真剣な表情で言った。「我が家は代々、王家と創造者の間の橋渡し役を担ってきた。今、その使命が再び呼びかけている」


 その言葉に、ハーマンが興味を示した。


「それは古い記録にもあります。山の民と王家の特別な関係が」


 レインは考えた末、ケインの同行を受け入れた。彼の知識は、これからの旅で貴重になるだろう。


「トムは村に残り、村を守ってください」


 ケインは息子に言った。トムは渋々ながらも頷いた。


 ***


 翌朝、一行は村を出発した。ケインはエラに別れを告げ、レインたちと共に王都への道を進んだ。


 移動中、リーザはレインに近づいた。


「『創造の書』を少し調べてみるべきじゃないかしら」彼女は提案した。「完全に理解するには時間がかかるかもしれない」


 レインもその考えに同意した。夜営の際、彼は慎重に『創造の書』を開いた。本は不思議な素材でできており、その表面は金属のようでありながら、紙のように柔らかかった。


 本を開くと、文字が光り始めた。古代語で書かれてはいたが、不思議なことに読むにつれて理解できるようになった。まるで本自体が読者に合わせて変化しているかのようだった。


「驚くべき技術だ」


 ハーマンが感嘆した。「本が読者の理解力に適応している」


 レインは最初の数ページを読み進めた。そこには創造者たちの歴史が記されていた。彼らは「星間の旅人」と自らを呼び、様々な世界を訪れてきたという。


「彼らは複数の世界を知っていたのか」


 リーザが驚きの声を上げた。「次元間の旅が可能だったということね」


 記録によれば、創造者たちはこの世界に定住し、高度な魔法と科学の融合技術を発展させた。彼らは地元の人々と交流し、知識を共有した。


「ここから先は、『淵の影』についての記述だ」


 レインはページをめくった。「淵の影」とは、次元の狭間に存在する混沌の存在だという。それは世界の魔力に引き寄せられ、周期的に接近してくる。


「五百年周期……」


 リーザが計算した。「前回の接近から、ほぼ五百年が経っているわね」


「つまり、今まさに危機が迫っているということか」


 マルコスの表情が険しくなった。


 記録はさらに続いた。「淵の影」が世界に侵入すると、魔力の混乱、自然災害、そして最悪の場合は現実の歪みが起こるという。


「これは単なる敵ではない」


 レインは呟いた。「次元レベルの脅威だ」


 本の後半には、「選ばれし者」の役割が詳細に記されていた。創造者たちは自分たちの血を王家に残し、その中から特別な魔力感受性を持つ者が「選ばれし者」として現れる。彼らは「淵の影」との交信能力を持ち、それを封印する儀式を行う資格を持つ。


「エドガー王子の悪夢は、『淵の影』からのメッセージだったのか」


 アイリスが理解した様子で言った。


 本の最後のページには、封印の儀式について書かれていた。それは「星の門」と呼ばれる場所で行われ、「選ばれし者」は自らの血を使って次元の裂け目を封じるという。


「危険な儀式だな」


 レインは心配そうに言った。「王子の命が危険にさらされる可能性もある」


「しかし、それが避けられない運命なら」ケインが静かに言った。「我々にできることは、最善の準備をさせることだけだ」


 レインは本を閉じた。情報は膨大で、完全に理解するにはさらなる時間が必要だった。


「王都に戻り、国王とエドガー王子に報告しましょう。そして、儀式の準備を始めなければ」


 ***


 三日後、一行は王都の城壁を遠くに望むことができた。旅の疲れが見えながらも、全員の表情には使命感が宿っていた。


「ついに戻ってきた」


 レインは安堵の溜息をついた。しかし、その安堵は長くは続かなかった。城門に近づくと、異常な混雑に気づいた。多くの兵士が配置され、入城者に厳しい検査を行っていた。


「何かあったのだろうか」


 マルコスが眉をひそめた。彼は前に出て、騎士団の仲間と言葉を交わした。戻ってきた彼の表情は暗かった。


「大変なことになっています」彼は低い声で言った。「我々が不在の間に、エドガー王子の容態が急変したそうです」


「何だって?」レインが驚いた。


「悪夢が激しくなり、時には意識不明になることもあるとか。そして……」


 マルコスは言葉を選んでいた。


「ダーシー伯爵が王子の治療を買って出て、自分の医師団を宮廷に入れたそうです」


「くそっ」


 リーザが唇を噛んだ。「彼らは山での失敗を取り戻そうとしている」


「急いで王城へ向かいましょう」


 レインの声には切迫感があった。何か悪いことが起きようとしていることを、彼は直感的に感じていた。


 城門での検査は、マルコスの地位のおかげでスムーズに通過できた。一行は速やかに王城へと向かった。


 城内は異様な緊張感に包まれていた。通常なら活気ある中庭も、今は静まり返っていた。


「まるで嵐の前の静けさだ」


 ハーマンが呟いた。


 王城に入ると、彼らはすぐにソフィア王女に呼ばれた。彼女の居室で対面すると、王女の顔には疲労と心配の色が濃かった。


「レインさん、皆さん、無事で良かった」


 彼女は安堵の表情を見せた。「重大な発見があったと聞いています」


「はい」レインは頷いた。「『創造者の工房』を見つけ、重要な情報を得ました」


 彼は『創造の書』を取り出し、簡潔に発見内容を説明した。ソフィアは驚きと畏怖の念で聞き入った。


「それで王子様の状態は?」


 アイリスが心配そうに尋ねた。


 ソフィアの表情が曇った。


「弟は三日前から意識不明の状態です。悪夢があまりにも激しくなり……」


 彼女は言葉を詰まらせた。


「ダーシー家の医師たちが治療を行っていますが、効果はありません。むしろ、症状は悪化しているように見えます」


「私たちに診せてください」


 レインは言った。「『創造の書』には、王子様の状態についての情報もあります」


 ソフィアは頷いた。


「父上にも報告しなければなりません。しかし、状況は複雑になっています」


「どういうことですか?」


「ダーシー伯爵が宮廷内での影響力を強めているのです」彼女は低い声で言った。「弟の病を政治的に利用しようとしています」


 状況は思ったより深刻だった。レインたちは外部からの帰還者として、慎重に行動する必要があった。


「まずは王子様を診せてください」


 アイリスが提案した。「私たちの薬で症状が緩和すれば、宮廷内の信頼も回復するでしょう」


 全員が同意し、ソフィアの案内で王子の居室へと向かった。


 部屋の前には、これまでよりも多くの衛兵が立っていた。ソフィアが命じると、彼らは道を開けた。


 部屋に入ると、重苦しい空気が漂っていた。カーテンが閉じられ、薄暗い中、エドガー王子はベッドで横たわっていた。彼の顔は蒼白で、額には冷や汗が浮かんでいた。時折、うなされるように体を震わせている。


 ベッドの傍らには、見知らぬ医師が二人控えていた。彼らはレインたちを見ると、不快そうな表情を浮かべた。


「何者だ?」


 一人の医師が尋ねた。


「宮廷薬師のレインとアイリスです」ソフィアが答えた。「王子の治療のために戻ってきました」


「陛下の許可は?」


「私の許可があれば十分でしょう」ソフィアは毅然と言った。


 医師たちは渋々ながらも下がった。


 レインとアイリスはすぐに王子の状態を診察した。アイリスはエルフの感覚で王子の生命力を探り、レインは鑑定能力を使って異常を調べた。


「これは……」


 レインは驚愕の表情を浮かべた。「王子様の魔力が乱れている。外部からの強い干渉がある」


「『淵の影』の影響?」リーザが尋ねた。


「いいえ、これは人為的なものよ」


 アイリスが怒りを込めて言った。「誰かが意図的に王子様の状態を悪化させている」


 ソフィアは顔色を変えた。


「ダーシー家の医師たちが……?」


 レインはアイリスと目を合わせ、頷いた。彼らの診察結果は一致していた。


「急いで対処しなければ」


 アイリスは薬箱から特別な調合薬を取り出した。


「これは『創造者の工房』で見つけた薬草から作った特別な浄化薬です。外部の魔力干渉を断ち切ります」


 彼女は慎重に王子の唇に薬を垂らした。しばらくすると、王子の表情が和らぎ、呼吸が規則的になっていった。


「効いています」


 ソフィアは安堵の表情を浮かべた。しかし、その喜びも束の間、扉が開き、ダーシー伯爵が数人の側近と共に入ってきた。


「何をしている?」


 彼の声は冷たかった。「許可なく王子に近づくとは」


「私の許可です、伯爵」ソフィアが立ち向かった。


「王女様、お気持ちは理解できますが」伯爵は偽りの同情を浮かべた。「専門家の判断なしに薬を与えるのは危険です」


「彼らこそが専門家です」ソフィアは反論した。「そして、彼らの治療が効果を示しています」


 確かに、王子の状態は目に見えて改善していた。伯爵はそれを見て、一瞬表情を曇らせた。


「それでも、正式な手続きが……」


「伯爵」


 新たな声が響いた。振り返ると、国王アレクサンダー四世が立っていた。彼の表情は疲れているようだったが、目には鋭さがあった。


「陛下」


 全員が頭を下げた。


「レイン殿、無事に戻ったようだな」国王はレインに目を向けた。「成果はあったか?」


「はい、陛下」


 レインは『創造の書』を取り出した。「『創造者の工房』で重要な発見がありました」


 国王は深く頷いた。


「詳しく聞きたい。しかし、まずは息子の容態が心配だ」


「改善しています、陛下」アイリスが答えた。「外部からの魔力干渉を断ち切りました」


 国王はダーシー伯爵を鋭く見た。


「魔力干渉とな」


 伯爵は動揺を隠そうとした。


「陛下、それは誤解です。私たちの治療法は伝統的なもので……」


「ダーシー」国王の声は厳しかった。「お前の甥がアラン・ダーシーの消息は知っているか?」


 伯爵は言葉に詰まった。


「甥は……探索に出ていると」


「奇妙だな」国王は続けた。「彼は三日前、混乱した状態で王都に戻ったという報告があった。何かを恐れているようだったと」


 伯爵の顔から血の気が引いた。


「それと、息子の病の悪化は同じ時期に始まった」国王は冷静に言った。「偶然だろうか?」


 緊張が部屋に満ちる中、エドガー王子が小さく呻いた。彼はゆっくりと目を開き、周囲を見回した。


「父上……姉上……」


 彼の声は弱々しかったが、意識ははっきりしていた。


「エドガー!」


 ソフィアが駆け寄った。王子は彼女の手を握り、安心したように微笑んだ。


「悪夢が……消えた」


 彼は目をレインたちに向けた。


「賢者の商会の皆さん、戻ってきてくれたのですね」


 レインは深く頭を下げた。


「はい、王子様。そして、重要な発見をしました」


 エドガーの目が輝いた。


「『創造者の工房』を?」


「はい。そして、あなたの役割についても」


 伯爵は事態の進展に焦りを見せた。


「陛下、王子様はまだ回復していません。長話は避けるべきです」


 しかし、国王は彼を無視した。


「レイン殿、アイリス殿、昨夜から続く息子の危機を救ってくれた恩は忘れない」


 彼はダーシー伯爵に厳しい視線を向けた。


「伯爵、お前と医師たちは一時退出するように。後ほど、詳しく話を聞きたい」


 その口調に反論の余地はなかった。伯爵は不満そうな表情を隠せなかったが、従うしかなかった。彼と側近たちは静かに部屋を出て行った。


「さて」


 国王は扉が閉まると、表情を和らげた。


「これから話すことは、この部屋の中だけにとどめよ」


 彼はレインに向き直った。


「『創造者の工房』で何を発見したのか、すべて話してほしい」


 レインは頷き、『創造の書』を開いた。そして、守護者との出会い、創造者たちの歴史、「淵の影」の脅威、そしてエドガー王子が「選ばれし者」であることについて、詳細に語り始めた。


 窓の外では、夕暮れの光が王都を赤く染めていた。世界の運命を左右する大きな物語が、今まさに始まろうとしていた。


(第二十八話 終)

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