第26話:山への旅


 渓谷を包む朝霧が薄れ始めた頃、探索隊は既に出発の準備を整えていた。レインは古い地図と先王の記録を見比べながら、今日の行程を確認していた。


「この渓谷を抜けると、山麓の村があるはずだ」


 青白い朝の光の中、アイリスは薬草を集めていた。この地域特有の植物には、高山病を防ぐ効果があるという。


「これを煎じて飲みましょう」


 彼女は一同に小さな袋を配った。「高地に上る前に飲むと良いわ」


「さすがエルフの知恵だな」マルコスが感心した。


 馬車に荷物を積み終えると、一行は渓谷の奥へと進んだ。道は次第に狭くなり、岩壁の間を縫うように続いていた。


「この渓谷自体が『創造者』たちの手によるものかもしれないな」


 ハーマン館長が周囲の岩壁を観察していた。「あまりにも整然とした形状だ」


 レインもそれに気づいていた。岩の表面には風化した文様が散見され、自然の侵食だけでは説明できない直線的な形状があった。


「魔力の痕跡もあるわ」


 リーザが魔力探知用の水晶を覗き込んでいた。「かなり古いけれど、確かに人工的なものね」


 行く手には霧が立ち込め、視界は数十メートル先までしか見えなかった。静寂の中、時折聞こえる小石の落ちる音に、一行は身構えた。


「警戒を」マルコスが声を潜めた。「誰かいる」


 全員が足を止め、耳を澄ました。確かに人の声らしきものが聞こえた。


「前方に三名」騎士の一人が報告した。「村人のようだが……」


 霧の中から、三人の人影が現れた。簡素な服装の中年男性と若い男女だった。彼らも探索隊に気づき、足を止めた。


「誰だ?」男性が警戒の声を上げた。


「旅人です」レインが前に出た。「山を調査しに来ました」


 三人は互いに顔を見合わせた。


「山に? この時期に?」


 若い女性が不思議そうに尋ねた。彼女の表情には警戒と好奇心が混じっていた。


「はい。研究のためです」リーザが答えた。


 中年男性が一行を観察した後、わずかに緊張を解いた。


「私はケイン。山麓の村の長だ。こちらは息子のトムと娘のエラ」


 彼は自分と二人の若者を紹介した。


「先ほど、ほかの旅人たちとすれ違ったばかりだ。同じ仲間ではないのか?」


 この言葉にレインたちは顔を見合わせた。


「何人ぐらいでしたか?」


「五、六人だったな」ケインは答えた。「豪華な装備で、急いでいるようだった」


「ダーシー派だ」


 アイリスが小声で言った。彼らは既に一歩先を行っているようだった。


「その旅人たちの行き先は?」マルコスが尋ねた。


「三角山だと言っていた」トムが答えた。「だが、変な連中だったぞ。村に立ち寄ることもなく、いきなり山道に向かって行った」


「村まで案内してもらえませんか?」レインが提案した。「情報交換をさせてください」


 ケインは少し考えてから同意した。


「ああ、構わんよ。村はすぐそこだ」


 ***


 山麓の村は小さかったが、整然としていた。二十ほどの家屋が山の斜面に寄り添うように建っている。村人たちは好奇心に満ちた目で探索隊を見つめた。


「珍しい訪問者ね」エラが微笑んだ。「特にエルフの方は」


 アイリスは村人たちの視線に少し緊張した様子だったが、敵意はなく、純粋な興味だけのようだった。


 ケインは自分の家に一行を招き入れた。質素だが清潔な家で、暖炉には火が灯されていた。


「どうぞ座ってください」


 エラが席を勧めた。彼女はすぐに熱いお茶を用意してくれた。


「三角山について知りたいのですね」ケインは話を切り出した。「古くから言い伝えのある山だ」


「どんな言い伝えでしょう?」ハーマンが興味を示した。


「昔、あの山には神々が住んでいたという」ケインは遠い目をして語った。「偉大な力を持ち、不思議な道具を作る者たちだ」


「創造者たちね」リーザが呟いた。


「ええ、村ではそう呼んでいます」エラが頷いた。「私の祖母から聞いた話では、創造者たちは星から来たとか」


「星から?」レインは興味を持った。


「空の彼方からね」トムが補足した。「もっとも、ただの伝説だろうが」


 ケインは続けた。「創造者たちは山に工房を築き、そこで様々な魔法の道具を作ったという。しかし、ある日突然姿を消した」


「何があったのでしょう?」アイリスが尋ねた。


「『影』が来たからだと」ケインは声を落とした。「我々の先祖の記録によれば、『大いなる闇が天から降り、地を飲み込んだ』とある」


 この言葉に、探索隊全員が緊張した。「淵の影」の伝承と一致していた。


「その後、創造者たちは?」


「姿を消した」ケインは肩をすくめた。「伝説では、彼らは再び星へ帰ったとも、山の中に隠れたとも言われている」


 話を聞いているうちに、レインには一つの思いが浮かんだ。


「創造者たちと王家には関係がありますか?」


 この質問にケインは意外そうな表情を見せた。


「面白いことを聞くな」彼は少し考え込んだ。「実は、代々の王家の人間が、この村を訪れることがある。百年ほど前、先々代の王も来られた」


「何のために?」


「山に登るためだ」ケインは答えた。「何を探していたのかは語らなかったが、戻ってきたときには大きく変わっていた。より……賢明になったような」


 この情報はレインたちの調査結果と合致していた。先王の記録にある「選ばれし者」の旅と同じものだ。


「三角山への道は?」


「危険だぞ」トムが警告した。「特にこの時期は。雪解けで地盤が不安定で、山の天候も変わりやすい」


「それに」エラが付け加えた。「山には『守護者』がいると言われています」


「守護者?」


「山を守る存在です」彼女は説明した。「村の長老たちは、許可なく山に入る者は守護者に阻まれると言います」


 レインは国王から授かった印章を思い出した。渓谷の古木に反応したあの印章は、山の守護者にも通用するのだろうか。


「先ほどの旅人たちは、その守護者のことを知っていましたか?」


「知らなかったようだ」ケインは首を振った。「彼らは『高価な報酬』で案内人を探していたが、村人は誰も応じなかった」


「賢明な判断だな」マルコスが呟いた。


 会話の間、リーザは地図を広げ、村の位置を確認していた。


「三角山への最短ルートはどこですか?」


 ケインは地図を覗き込み、指で示した。


「この渓谷沿いに進み、『月の池』を過ぎたところで東に折れる。そこから急な登りになるが、一日半ほどで三つの峰が見える場所に着く」


「月の池?」アイリスが尋ねた。


「三日月形の湖だ」トムが説明した。「神聖な場所とされている」


 レインは地図にその道筋を記した。ケインの案内は先王の記録とも一致していた。


「明日、夜明けとともに出発します」レインは決意を述べた。「何か必要な装備はありますか?」


 ケインは実用的なアドバイスをくれた。


「綱と松明、それに厚手の上着だ。山は寒く、暗い洞窟もある」


 村で一泊することになり、ケインは村の集会所を宿泊場所として提供してくれた。


 ***


 夕食時、レインたちは村人たちと食事を共にした。質素だが心のこもった料理が並び、村の若者たちが古い伝説を歌った。


「創造者の詩」と呼ばれる歌は、星から来た賢者たちと、彼らが残した遺産についての内容だった。


 食事の後、レインはアイリスとリーザを呼び、今後の計画を話し合った。


「ダーシー派は既に先行している」レインは心配を隠せなかった。「彼らの目的は何だろう」


「『創造者の工房』の力を手に入れること」リーザは推測した。「古代の魔法技術があれば、王国内での影響力が大きく変わる」


「しかし、山には『守護者』がいるという」アイリスが指摘した。「彼らは簡単には入れないかもしれない」


「だといいが」レインは窓の外の星空を見上げた。「私たちには王の印章がある。それが鍵になるはず」


 マルコスが近づいてきた。


「警戒のため、交代で見張りを立てましょう」彼は提案した。「ダーシー派の手先が村に潜んでいる可能性もあります」


 全員が同意し、見張りの当番を決めた。


 ***


 夜半過ぎ、レインの見張り番の時間だった。彼は集会所の外に立ち、静寂に包まれた村を見渡していた。月明かりが山々の輪郭を銀色に縁取っている。


「眠れないのか?」


 背後から声がした。振り返ると、村長のケインだった。


「見張りです」レインは答えた。


「用心深いな」ケインは微笑んだ。「しかし、ここは安全だ。村人たちは正直者ばかりだよ」


「先ほどの旅人たちが気になるのです」


 ケインは頷いた。


「あの者たちには、私も不信感を抱いた。特に彼らのリーダー、若い貴族風の男は傲慢だった」


「名前は?」


「確か、アラン・ダーシーとか」


 レインの予想通り、ダーシー伯爵の甥だった。


「あなたたちは王家の人間か?」ケインが突然尋ねた。


 レインは一瞬驚いたが、正直に答えることにした。


「王の命を受けています」


「やはり」ケインは納得したように頷いた。「あなたの持つ印章を見たとき、気づいた。代々の王が同じものを持っていた」


 彼は山を見上げた。


「あの山には、王家にとって重要な何かがあるのだろう。そして、それはこの国の運命にも関わる」


「なぜそう思うのですか?」


「私の祖父は先々代の王に仕えていた」ケインは静かに語った。「王が山から戻ったとき、『闇が再び来る日に備えよ』と言ったという」


 レインは驚いた。この小さな村には、王家の秘密に繋がる重要な情報があったのだ。


「明日、案内人として同行させてほしい」ケインが申し出た。「山の道は複雑で、地図だけでは難しい」


「危険かもしれません」


「承知している」ケインは毅然と言った。「しかし、これは村の義務でもある。代々、山と王家の間を仲介してきたのだ」


 レインは彼の申し出に感謝した。経験豊かな案内人がいれば、旅はより安全になるはずだった。


 ***


 夜明け前、探索隊は出発の準備を整えていた。ケインも加わり、息子のトムも案内人として同行することになった。


「気をつけて」エラは父と兄に抱きついた。「必ず戻ってきてね」


「大丈夫だ」ケインは娘を安心させた。「三日もすれば戻る」


 装備を点検し、食料と水を十分に確保した一行は、村を出発した。馬車は村に残し、ここからは徒歩での移動となる。


「まずは『月の池』を目指しましょう」


 ケインが先頭に立った。彼は山道に慣れており、確かな足取りで進んでいた。


 道は次第に険しくなり、木々の間を縫うように上っていく。朝霧が立ち込め、神秘的な雰囲気を漂わせていた。


「村ではこの霧を『創造者の息』と呼んでいる」


 トムが説明した。「祝福と警告、両方の意味があるという」


「祝福と警告?」アイリスが尋ねた。


「純粋な心で来た者には道を示し、悪意を持つ者には迷いをもたらすと」


 レインはこの言葉に深い意味を感じた。山自体が訪問者を選んでいるのかもしれない。


 午前中いっぱい歩き続けると、霧が晴れ始め、眼下に広がる風景が見えてきた。遠くには王都も小さく見えた。


「あれが『月の池』です」


 ケインが指さす方向に、三日月形の湖が見えた。周囲は石が円形に並べられ、明らかに人工的な配置だった。


「美しい……」


 アイリスが感嘆の声を上げた。湖面は鏡のように空を映し、周囲の樹々が風に揺れていた。


 池に近づくと、リーザが立ち止まった。


「強い魔力を感じる」


 彼女は水晶を取り出し、その反応を確かめた。


「これは自然の魔力の集まる場所ね。おそらく『創造者』たちが意図的に選んだのでしょう」


 池の傍には石の祭壇があり、古い文字が刻まれていた。


「『水に映るは星の道、選ばれし者は光に従え』」


 ハーマンが文字を解読した。「謎めいた言葉だな」


 アイリスが池を覗き込んだ。


「これは……」


 彼女の言葉に全員が集まった。池の水面には空が映っていたが、それは現在の空ではなく、夜空の星々が輝いていた。


「昼なのに夜空が?」


 驚きの声が上がる中、星々の並びが変化し、一つの道筋を形作った。それは東の山頂に向かって伸びていた。


「『選ばれし者は光に従え』」


 レインは碑文を思い出した。「これが進むべき道を示しているのだ」


 彼は国王の印章を取り出した。印章を池に近づけると、水面の星々がより明るく輝き始めた。


「王の血を引く者、あるいはその使者のみが道を見ることができるのか」


 ハーマンが推測した。


 ケインは感心した様子で頷いた。


「伝説では、『創造者』たちは王家に特別な使命を与えたという。その証がこれなのだろう」


 池の周囲で昼食を取った後、一行は水面に映し出された星の道に従って東へと進んだ。道は次第に急勾配となり、樹木も疎らになっていった。


「足元に注意を」ケインが警告した。「この先は崩れやすい」


 確かに、道の一部は土砂崩れで破壊されており、慎重に進む必要があった。時折、先行したダーシー派の足跡が見えたが、最近のものではないようだった。


「彼らは別ルートを取ったかもしれない」マルコスが言った。


 午後遅く、空が曇り始め、気温が急激に下がってきた。


「嵐の予感がする」トムが空を見上げた。「山の天候は変わりやすい」


「避難場所はありますか?」リーザが尋ねた。


「少し先に洞窟がある」ケインが答えた。「そこまで急ごう」


 急ぎ足で進む中、初めての雨粒が落ち始めた。風も強くなり、霧が再び立ち込めてきた。視界が急速に悪化する中、一行は何とか洞窟にたどり着いた。


「間に合った」


 ケインはほっとした様子で言った。外では瞬く間に本格的な嵐となり、雷鳴が轟いていた。


 洞窟の中は乾いており、以前誰かが使った形跡があった。古い焚き火の跡や、壁に刻まれた印があった。


「この印は……」


 ハーマンが壁に近づいた。「王家の古い紋章だ。先王たちもここに立ち寄ったのだろう」


 レインは洞窟の奥へと目を向けた。暗闇の中に、かすかな光の筋が見えた。


「あそこに何かある」


 彼は松明を掲げ、慎重に進んだ。洞窟は意外と広く、奥へと続いていた。壁には所々に古代文字が刻まれていた。


「道標のようだな」


 ハーマンが文字を読み取った。「『真実は内に、道は上に』」


 奥に進むと、洞窟は上へと伸びる階段状になっていた。自然にできたものとは思えない、整然とした造りだった。


「これは『創造者』たちの作ったものだな」


 リーザが壁を調べていた。「魔力で岩を削り出している」


「上に登るのですか?」アイリスが尋ねた。


 外の嵐はまだ続いており、今夜の野営はここにすることになった。しかし、洞窟の秘密が気になるレインたちは、先に上の様子を確認することにした。


「私とリーザ、それにケインさんで見てきましょう」


 三人は松明を掲げ、階段を上り始めた。数十段上ると、洞窟は小さな部屋に通じていた。そこには石の台座があり、その上に水晶のような物体が置かれていた。


「これは……」


 リーザが驚きの声を上げた。「古代の通信結晶!」


 彼女は慎重に近づき、水晶を観察した。


「『創造者』たちの遺したものね。しかも、まだ魔力が残っている」


「使えるのか?」レインが尋ねた。


「試してみましょう」


 リーザは水晶に触れ、魔力を流し込んだ。すると水晶が青く光り始め、部屋全体を照らした。


「機能しているわ!」


 光は次第に形を成し、天井に星図のような映像を映し出した。三つの峰と、その間にある一点が特に明るく輝いていた。


「これが『創造者の工房』の正確な位置なのか」


 レインは興奮を抑えられなかった。地図よりも詳細な情報が得られたのだ。


 ケインも驚きの表情だった。


「長老から聞いた話では、この洞窟は『方位の間』と呼ばれていた。だが、その意味は知らなかった」


 星図はさらに変化し、山の内部の様子を示すようになった。複雑な通路や部屋が立体的に映し出された。


「工房は山の中にあるのか」


 レインは映像を記憶に留めようとした。リーザも同様だった。


「完全に把握するのは難しいけれど、入口の場所は特定できたわ」


 通信結晶の光は数分後に消え、部屋は再び松明の明かりだけになった。


「重要な情報を得たな」


 三人は階段を下り、仲間たちに発見を報告した。全員が興奮し、明日の探索への期待が高まった。


 夜、交代で見張りを立てながら休息を取った。レインは真理の結晶を手に取り、その淡い光を見つめていた。


「先生、私たちは『創造者の工房』の近くまで来ました」


 彼は静かに語りかけた。


「明日、そこで何を見つけることになるのか。この旅の真の目的が明らかになるのか」


 洞窟の外では嵐が過ぎ去り、静かな夜が訪れていた。三角の峰が月明かりに浮かび上がり、まるで彼らを招くかのように見えた。


(第二十六話 終)

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