第20話:変装した来客


 夕暮れ時のバレンフォード市場は、閉店準備で慌ただしく動いていた。レインは市議会の仕事を終え、買い物籠を片手に家路を急いでいた。議員就任から一ヶ月が経ち、議会の業務にも少しずつ慣れてきていた。


「そろそろ閉めますよ!」


 魚屋の主人が声をかけてくる。レインは笑顔で応じた。


「最後の一尾をください」


 銀色に輝く魚を受け取り、籠に入れる。市議会議員になったことで、彼は多くの町民と親しく言葉を交わすようになっていた。


 市場を出ようとしたとき、彼の鋭い観察眼が一人の旅人に留まった。若い女性らしき人物だが、大きなフードで顔を隠している。彼女は周囲を警戒するように歩いていた。その動きには何か不自然さがあった。


 旅人はハーブ屋の店先で足を止め、商品を眺めていた。彼女の手が一瞬フードからはみ出したとき、レインは白く繊細な指先を目にした。その手は労働者のものではなく、どこか高貴な雰囲気を感じさせた。


「不思議な旅人だな」


 彼は少し気になりながらも、その場を去った。商会に戻る途中、ふと振り返ると、その旅人が彼を追うように歩いてくるのが見えた。


「まさか……」


 レインは足早に脇道に入り、様子を伺った。旅人も同じ道を曲がる。偶然ではないようだ。彼は意図的に複雑な道順を選び、旅人の動きを確かめた。


 間違いなく付けられていた。


「賢者の商会に用があるのかもしれない」


 彼はそう考え、あえて旅人を振り切ろうとはしなかった。代わりに、少し警戒しながら真っ直ぐ商会へと向かった。


 商会の扉を開け、中に入ったレインは、アイリスとミラに静かに状況を説明した。


「不審な旅人に付けられている。間もなくここに来るだろう」


「危険な人では?」ミラが心配そうに尋ねた。


「わからない。だが、何か事情がありそうだ」


 レインはガルムを呼び、万が一の事態に備えさせた。彼は工房の隅に控え、来客を見守る態勢を整えた。


 ほどなく、扉が開き、例の旅人が入ってきた。店内には他の客はおらず、閉店間際の静けさが漂っていた。


「いらっしゃいませ」ミラが明るく挨拶した。「何かお探しですか?」


 旅人は周囲を確認するように見回し、ゆっくりとフードを下げた。


 現れたのは若い女性の顔だった。二十歳前後と思われる整った顔立ちで、金色の髪が肩まで伸びている。その眼差しには知的な光があった。


「店主のレインさんにお会いしたいのですが」


 彼女の声は柔らかいが、どこか威厳を感じさせた。


「私がレインです」


 彼が前に出ると、女性は驚いた表情を見せた。


「こんなにお若いとは……」


 彼女は言葉を切り、すぐに姿勢を正した。


「私はミア。王都から来ました」


 レインは彼女の名乗りに疑問を感じた。言葉の抑揚や立ち居振る舞いが、名乗りとは一致しないように思えた。まるで別の名前に慣れている人が、急に違う名前を名乗ったような不自然さがあった。


「王都からですか。遠路はるばるどのようなご用件で?」


「噂を聞いたのです」ミアは少し声を落とした。「『賢者の商会』の薬と、エルフの助手のことを」


 彼女の視線がアイリスに向けられた。アイリスは静かに頷いた。


「私の弟が難病を患っていて……」ミアは続けた。「王都の医師たちも手の施しようがないと言うのです。そこで、評判の『静穏の雫』を試してみたいと」


 彼女の言葉には切実さがあった。しかし、レインは何か違和感を覚えた。王都から単なる薬を求めて来るには、あまりにも遠い道のりだ。さらに、彼女の身なりや言葉遣いは、一般の市民のものではなく、どこか高貴な印象を与えた。


「お弟さんの症状を詳しく教えていただけますか?」


 レインは対話を続けながら、彼女の本当の目的を探ろうとした。


 ミアは病状を説明し始めた。不眠と悪夢に悩まされ、精神的な疲労が肉体にも影響しているという。説明は具体的で医学的知識も感じられた。少なくとも病状については嘘をついているようには見えなかった。


「『静穏の雫』は確かにそういった症状に効果があります」


 アイリスが専門的な見地から説明を加えた。「特に精神の安定には優れた効果があります」


「本当ですか?」ミアの目に希望の光が灯った。


 レインは決断した。彼女が本当の身分や目的を隠しているのは確かだが、弟の病気については嘘ではないようだった。


「特別な調合をお作りしましょう」


 彼はアイリスに目配せし、工房へと向かった。二人は特別な『静穏の雫』の調合を始めた。


「彼女、変装しているわね」


 アイリスが小声で言った。


「ああ」レインも頷いた。「言葉遣いや立ち居振る舞いが、名乗りとは一致しない」


「でも、病気の話は本当みたい」


「そう思う。だからこそ、最善の薬を提供しよう」


 二人は特に効果の高いエルフのハーブを選び、細心の注意を払って調合した。


 薬が完成すると、レインはミアのもとへ戻った。彼女は店内の商品を興味深そうに眺めていた。


「完成しました」


 レインは美しい青い液体の入った小瓶を差し出した。


「これは通常の『静穏の雫』よりも効果を高めた特別調合です。お弟さんの症状に合わせています」


 ミアは感謝の意を示し、瓶を受け取った。


「料金はいくらですか?」


 彼女は財布を取り出そうとした。


「金貨一枚です」


 通常の二倍の価格だったが、特別調合の価値はそれに見合っていた。ミアは迷いなく支払った。金貨の扱いにも慣れた様子があった。


「使い方の説明をします」


 レインは丁寧に薬の使用法を教えた。就寝前に少量を湯に溶かして飲むこと、効果が表れるまでの期間、注意点などを詳しく説明した。


 ミアは熱心に聞き入り、時折質問を投げかけた。その質問の内容も的確で、単なる素人ではないことを示していた。


「本当にありがとうございます」


 説明が終わると、彼女は深々と頭を下げた。その仕草には生まれながらの上品さがあった。


「お役に立てれば幸いです」


 レインは微笑んだ。「もし効果についてご質問があれば、いつでもお越しください」


 ミアは頷いたが、急に思い出したように尋ねた。


「レインさんはこの町の議員になったと聞きました。本当ですか?」


「はい、一ヶ月ほど前からです」


「興味深いですね」彼女の目に好奇心が浮かんだ。「商人が政治に関わるのは珍しいのでは?」


「バレンフォードでは珍しくありません。商業都市ですから」


 レインは穏やかに答えた。しかし、彼女の質問の真意が気になった。


「商会と政治、両立は大変ではないですか?」


「確かに忙しいですが、仲間たちの協力があります」レインは商会のメンバーたちを見渡した。「一人ではなく、チームで動いているのです」


 ミアはその言葉を興味深そうに聞いていた。


「素晴らしいチームワークですね」


 会話を続けるうち、外は完全に暗くなっていた。


「遅くなりました」ミアは慌てたように立ち上がった。「宿に戻らなければ」


「危険ですよ」レインは心配した。「最近、夜の街は安全とは言えません」


「大丈夫です。護衛が待っていますので」


 その言葉に、レインの疑念はさらに深まった。単なる旅人が護衛を連れているとは考えにくい。


「では、お送りします」


 彼はガルムに目配せした。


「いえ、結構です」ミアは丁重に断った。「ただ……」


 彼女は少し躊躇い、言葉を選ぶように続けた。


「もし差し支えなければ、明日も来てもよろしいでしょうか? 薬のことでもう少し詳しく聞きたいことがあります」


「もちろんです。いつでもどうぞ」


 彼女は再び礼を述べ、フードを被って店を出ていった。レインはガルムに小さく頷き、彼は影のように彼女の後を追った。


 ***


 ミアが去った後、レインは商会のメンバーを集めて話し合った。


「あの女性、ただの旅人ではないわ」


 アイリスの直感は鋭かった。


「私もそう思う」レインは頷いた。「言葉遣いも所作も高貴な生まれを感じさせる」


「変装した貴族か何かですか?」ミラが興味津々で尋ねた。


「可能性はある。しかし、なぜ変装までして私たちの商会を訪れたのか」


 この疑問に、皆が考え込んだ。


 ガルムが戻ってきたのは、それから一時間後だった。


「追跡結果を報告する」彼は息を整えながら言った。「あの女性、『金の鷲亭』に入った」


「『金の鷲亭』?」


 それはバレンフォードで最も高級な宿だった。一泊の値段は銀貨数枚もする。


「そして、彼女を迎えたのは四人の騎士だ。紋章は見えなかったが、明らかに訓練された兵士たちだった」


 情報は彼らの推測を裏付けた。単なる旅人ではなく、高位の人物が変装していたのだ。


「王都から来たと言っていたな」レインは思案した。「王家の関係者かもしれない」


「まさか王族では?」


 ミラの言葉に、一同が息を呑んだ。


「可能性はある」レインは慎重に言った。「だが、なぜ王族がバレンフォードまで? しかも変装して」


「病気の話は本当だったと思うわ」アイリスが言った。「彼女の目に見えた心配は偽りではなかった」


 レインは納得した。弟の病気は本当で、それを治すために彼らの薬を求めてきたのだろう。しかし、なぜ正体を明かさずに?


「明日また来ると言っていた」レインは決断した。「その時、もう少し探ってみよう」


 ***


 翌日、商会は通常通り営業を続けていた。レインは市議会の仕事を午前中に済ませ、正午には店に戻っていた。


 午後になると、予告通りミアが再び訪れた。今日も彼女はフードで顔を隠していたが、中に入るとすぐに脱いだ。


「お待ちしていました」


 レインが迎えると、彼女は微笑んだ。


「昨日はありがとうございました。薬を早速送りました」


「効果が出ることを願っています」


 二人は奥のテーブルに座った。アイリスがお茶を用意してくれた。


「エルフのお茶です」アイリスが説明した。「心を落ち着かせる効果があります」


 ミアは恐る恐る一口飲み、すぐに表情が明るくなった。


「とても美味しい! こんなお茶は初めてです」


「『森の記憶』というお茶です」


 アイリスがエルフの里での思い出を交えながら、お茶について説明した。ミアは熱心に聞き入り、時折質問を投げかけた。


 会話が弾む中、レインは彼女の素性を探る質問を慎重に挟んでいった。


「王都は大きな街だと聞きます。ミアさんはどちらにお住まいで?」


「ええと……王宮近くです」


 彼女の答えにはわずかな躊躇があった。


「王宮近くとは、上流階級の地域ですね」


「そうですね」ミアは視線を逸らした。


 会話が続くにつれ、彼女の素性についての手がかりが少しずつ増えていった。教養の高さ、礼儀正しさ、そして時折見せる威厳ある態度——これらは貴族または王族としての教育を受けた証だった。


「実は」ミアが突然真剣な表情になった。「もう一つ、相談があるのです」


「どうぞ」


「私の弟以外にも、同じような症状の人が王都には多くいます。特に貴族の子弟に多いのです」


 彼女の声には切実さがあった。


「『静穏の雫』を王都でも販売することはできないでしょうか?」


 レインは驚いた。王都への販路拡大は考えていたが、こんな形で話が来るとは予想していなかった。


「可能ではありますが、王都は遠い。流通経路の確保や許可申請など、課題が多いです」


「それなら」ミアは身を乗り出した。「私が手配します。必要な許可は全て取れますし、輸送も確保できます」


 その言葉に、レインの推測はほぼ確信に変わった。一般人には不可能な約束だった。


「ミアさん」レインは静かに言った。「あなたの本当の立場を教えていただけませんか?」


 部屋に緊張が走った。ミアは驚いた表情でレインを見つめた後、小さく息を吐いた。


「見抜かれていましたか」


 彼女はまっすぐにレインを見つめた。


「私は……王女ソフィアです。アレクサンダー四世の第三王女」


 予想はしていたが、それでも実際に告げられると衝撃があった。


「王女様がなぜ……」


「変装して来たのは、正体を明かすと大騒ぎになるから」ソフィアは説明した。「私は静かに状況を確かめたかったのです」


 彼女はレインとアイリスを交互に見た。


「『賢者の商会』の評判は王都にも届いています。特に魔獣事件の解決策や、革新的な薬について」


 レインは驚きを隠せなかった。バレンフォードの小さな商会の評判が、ここまで広がっているとは。


「そして」彼女は続けた。「市議会議員になった若い商人の話も聞きました。その聡明さと公正さが評価されていると」


「そこまでの評判とは」


 レインは謙遜したが、内心では誇らしさを感じていた。


「私の弟——第二王子は本当に病気です」ソフィアは真剣に言った。「王宮の医師たちも手の施しようがなく……そこであなたたちの評判を聞いて」


「お弟様の症状は、昨日伺った通りですか?」


「はい。夜ごと悪夢に苦しみ、眠れない日々が続いています。昼間も集中できず、王子としての務めにも支障が出ています」


 アイリスが静かに口を開いた。


「悪夢の内容は?」


「それが……」ソフィアは言いよどんだ。「古代都市の夢だと言うのです。滅びゆく都市の光景が毎晩現れると」


 レインとアイリスは顔を見合わせた。単なる悪夢ではなく、より複雑な問題かもしれない。


「王女様」レインは決意を込めて言った。「私たちにできることがあれば、ぜひお力になりたいと思います」


 ソフィアの顔が明るくなった。


「本当ですか? 王都まで来ていただけますか?」


「まずは薬の効果を見てください」レインは慎重に言った。「それから必要なら、王都にも伺います」


 ソフィアは深く頭を下げた。王女とは思えぬ謙虚な態度だった。


「心から感謝します」


 話し合いの結果、まずは薬の効果を見ること、そして王子の容態についてソフィアから定期的に報告を受けることになった。状況によっては、レインたちが王都を訪れる可能性もあった。


「王女様」


 別れ際、レインは一つの質問をした。


「なぜ私たちを信頼してくださるのですか? 初めて会ったばかりなのに」


 ソフィアは微笑んだ。


「直感です。そして、町の人々があなたたちをどれほど信頼しているか見たからです」


 彼女はフードを被り、静かに商会を後にした。


 ***


「まさか王女が変装して来るとは」


 ソフィアが去った後、商会は興奮に包まれていた。


「王族とのつながりができるなんて!」ミラは夢見るように言った。


「慎重に行動すべきだな」ガルムは冷静に分析した。「王都の政治は複雑だと聞く」


 レインは考え込んでいた。悪夢に現れる古代都市——それは単なる夢なのか、それとも何か意味があるのか。


「王子様の夢、気になるわね」


 アイリスが彼の思考を読み取ったように言った。


「ああ」レインは頷いた。「古代都市の夢……何か特別な意味があるかもしれない」


 彼は真理の結晶を手に取った。ギルバートの知恵を借りたい瞬間だった。


「先生なら何と言うだろうか」


 レインはつぶやいた。結晶は微かに光を放った。


「古代文明の痕跡……」


 記憶が蘇る。ギルバートが語っていた伝説の「創造者の工房」について。古代の賢者たちが遺した知恵と技術の集積地。そこには多くの謎が眠っているという。


「それと王子の夢が関係しているのだろうか」


 レインは疑問を抱えながらも、胸の内に期待が膨らんだ。王都との繋がりは、商会の次なる飛躍のきっかけになるかもしれない。そして、彼自身の使命——この世界での役割についても、新たな展開があるかもしれなかった。


「新しい冒険の始まりだ」


 窓の外では、夕焼けが街を赤く染めていた。その美しい光景に、レインは未来への希望を重ねた。


(第二十話 終)

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