第16話:噂の力


 朝露が降りる早朝、レインは商会の帳簿を確認していた。数字を追う目は真剣だった。前週の売上は予想を下回っていた。特に町内の受注が急減していた。


「おはよう」


 アイリスが階段を降りてきた。彼女の表情には心配の色が浮かんでいた。


「昨日の町歩きで気になることがあったの」


 レインは顔を上げた。「どんなこと?」


「町の人たちが私を見る目が変わったみたい。以前より警戒している」


 彼女の言葉に、レインは眉をひそめた。これは帳簿の数字の裏付けにもなる。何かが起きている。


「ミラが来たら聞いてみよう。彼女なら町の噂にも詳しいはず」


 朝食を終えた頃、ミラが出勤してきた。彼女の表情は沈んでいた。


「おはようございます、レインさん」


「おはよう、ミラ。何かあったか?」


 彼女は躊躇った後、小さく息を吐いた。


「実は……町で噂が広まっているんです」


「どんな噂だ?」


「賢者の商会の薬が危険だという噂です。エルフの呪いが込められている、『静穏の雫』を飲むと意識を操られる……そんな話が」


 アイリスの顔が青ざめた。レインは冷静さを保とうとした。


「広まり始めたのはいつ頃だ?」


「一週間ほど前からです。最初は一部の人だけでしたが、今では町中に」


 レインは考え込んだ。時期的に見て、南方との取引が始まった直後だった。偶然ではないだろう。


「グランツ商会の仕業か」


「私もそう思います」ミラは頷いた。「最近、グランツの店員たちが町の酒場で『エルフは信用できない』と吹聴しているのを聞きました」


 アイリスの手が震えた。彼女の瞳には悲しみが浮かんでいた。


「やっぱり私のせいなのね」


「違う」レインは強く否定した。「これはグランツの卑劣な商売妨害だ。君は何も悪くない」


 彼は胸の内で怒りを感じたが、表には出さなかった。今は冷静な判断が必要だった。


「ミラ、今日は特に町の反応を観察してきてほしい。誰が噂を広めているか、どんな内容かを詳しく」


「はい、わかりました」


 ミラが店の準備を始めると、ガルムが入ってきた。彼の顔には疲労の色が見えた。


「南方ルートの警備強化に行ってきた」彼は報告した。「何者かが道中の荷物を荒らそうとした形跡がある」


「けが人は?」


「無事だ。未遂で終わった」


 一連の出来事が繋がった。これは組織的な妨害工作だった。レインは決断した。


「対策を立てよう。まずは噂への対抗策だ」


 ***


 午後、レインはアイリスとの話し合いの末、新たな戦略を立てた。


「噂には噂で対抗する」


 彼は前世のクライシスマネジメントの知識を思い出していた。誹謗中傷への最善の対応は、透明性の確保と積極的な情報発信だ。


「まず薬の効果を実演する公開イベントを開こう」


 レインは町の広場を借り、「薬効実演会」を計画した。多くの町民に直接見てもらい、商品の安全性と効果を証明するのだ。


「次に影響力のある人々に協力を依頼する」


 彼は商業ギルドのグスタフ、冒険者ギルドのマーサ、そして町の医師たちに手紙を書いた。彼らからの支持があれば、噂は打ち消せるはずだった。


「私からエルフの薬草知識について公開講座を開きましょうか?」


 アイリスが提案した。恐れを乗り越え、前に出る勇気に、レインは感銘を受けた。


「素晴らしいアイデアだ」


 実行計画が固まった頃、トーマスが慌てた様子で商会に飛び込んできた。


「大変です! 村からの注文がすべてキャンセルされました」


「何だって?」


「フロース村とグリーンヘイブン村から連絡が。『賢者の商会』との取引を中止すると」


 レインは動揺を隠せなかった。特にグリーンヘイブンは彼らが流行病を救った村だった。そこまで噂の影響が広がっているとは。


「理由は?」


「賢者の商会の薬を使うと不幸が訪れるという噂が広まったそうです」


 事態は予想以上に深刻だった。レインは真剣な表情でトーマスを見た。


「今すぐグリーンヘイブンに行ってほしい。村長に直接会って、事情を説明してくれ」


「はい!」


 トーマスが出発すると、レインは計画を練り直した。より積極的な対応が必要だった。


「アイリス、魔法学院に通信結晶で連絡を」


 彼はリーザの協力を仰ぐことにした。学術的な裏付けがあれば、噂を打ち消す力になるはずだ。


 ***


 翌日の朝、レインとアイリスは町の広場で準備を整えていた。薬効実演会の設営だ。テーブルには様々な商品が並び、効果を示す図解も用意された。


 開始時間になっても、集まった町民はわずかだった。多くの人が警戒し、遠巻きに見ているだけだった。


「始めましょう」


 アイリスが勇気を出して前に立った。彼女は緊張した様子だったが、声は明瞭で落ち着いていた。


「皆さん、私はアイリス。森のエルフです。最近、私たちの薬について心配する声があると聞きました。今日はその不安を解消したいと思います」


 彼女は「静穏の雫」を手に取り、自ら一口飲んだ。


「この薬は心を落ち着かせ、安らかな眠りをもたらします。呪いでも毒でもありません」


 レインも前に立った。


「私たちの商品はすべて安全性を最優先に作られています。材料から製法まで、すべて公開できます」


 少しずつ、人々が近づいてきた。特に以前から商会の薬を使っていた顧客たちが、自らの体験を語り始めた。


「『エイド・ドロップ』のおかげで、妻の病が治りました」


「『静穏の雫』で、子供の夜泣きが止まりました」


 実際の使用者の言葉は説得力があった。人々の表情に変化が見え始めた。


 そこへ、グスタフが姿を現した。


「私は商業ギルドの役員として証言する。賢者の商会の商品は品質検査に合格している。根拠のない噂に惑わされてはならない」


 マーサも続いて現れた。


「冒険者ギルドも彼らの薬を正式に採用している。多くの冒険者の命を救った実績がある」


 二人の権威ある人物の支持により、場の雰囲気は一変した。町民たちは次々と商品を手に取り、質問を投げかけるようになった。


 広場での実演が成功裏に終わる頃、トーマスがグリーンヘイブンから戻ってきた。


「村長と話してきました!」彼は達成感を滲ませて報告した。「最初は疑っていましたが、『エイド・ドロップ』のサンプルを見せると態度が変わりました。流行病の時のことを思い出したようです」


「それは良かった」


「注文も復活しました。それどころか以前より増えています」


 レインは安堵した。少なくとも一つの村との関係は回復できた。


 ミラも町から情報を持ち帰った。


「噂を広めていたのは、確かにグランツの関係者でした。特に謎の旅人を装った男たちが、計画的に噂を流していたようです」


 情報が揃い始めた。レインは事態を整理した。


「グランツの戦略は見えてきた。噂で信用を落とし、取引先を奪う。そして私たちの商品の模倣品で市場を満たす」


「卑劣な手段ね」アイリスは怒りを抑えきれない様子だった。


「しかし、効果は限定的だ」レインは冷静に分析した。「彼らの模倣品は品質が低い。長期的には顧客の信頼を失うだろう」


 ***


 その夜、商会に一人の男が訪れた。高級な服を着た、洗練された雰囲気の中年男性だった。


「閉店後に申し訳ない。レイン君に会いたくて」


「私がレインですが、どちらさま?」


「ヴェルナー・ロット」男は名乗った。「バレンフォード銀行の頭取だ」


 レインは驚いた。バレンフォード銀行は町で最も影響力のある金融機関だった。


「何のご用件でしょう?」


「率直に言おう」ヴェルナーは腰を下ろした。「今日の実演会を見ていた。君たちの誠実さと製品の質に感銘を受けた」


 彼は続けた。「実は銀行でも『静穏の雫』に助けられている。私の娘が悪夢に悩まされていたが、君の薬で救われたのだ」


 レインは静かに聞いていた。


「だから手を貸したい。グランツとの戦いで、資金的な支援をしよう」


「支援?」


「そう。拡大資金が必要なら融資する。条件も好条件だ」


 予想外の申し出に、レインは驚いた。前世の経験から、資金調達の重要性は理解していた。事業拡大には資本が必要だ。


「ありがとうございます。ぜひ詳細を伺いたいです」


 ヴェルナーは満足げに頷いた。


「ヴァルター・グランツは私の古い知り合いだが、彼のやり方には同意できない。彼は競争相手を潰すことしか考えていない」


 二人は夜遅くまで、資金計画と事業展開について話し合った。銀行からの支援を得られれば、生産能力の拡大や新市場への進出が加速するだろう。


「明日、正式な書類を持ってくる」


 ヴェルナーは約束して帰っていった。


 ***


 翌朝、レインは商会の全員を集めて会議を開いた。昨日の成果と今後の方針を共有するためだ。


「噂との戦いは始まったばかりだ」彼は厳しい表情で言った。「しかし、私たちには真実という武器がある」


 メンバーは真剣に頷いた。彼らは既に一つの試練を乗り越えつつあった。


「アイリス、エルフの薬草講座はいつ始められる?」


「準備はできています。来週から町の集会所で開催します」


「ガルム、配送ルートの安全は?」


「倍の警備をつけた。これ以上の妨害は許さん」


 一人ずつ報告を受け、レインは安心した。チームの結束は固かった。


「新たな展開もある」彼はヴェルナーからの申し出を説明した。「銀行の支援を受けて、事業を拡大する」


 メンバーたちは驚きと喜びの声を上げた。特に、新たな生産設備と研究施設の計画に関心が集まった。


「危機をチャンスに変えよう」


 レインの言葉に全員が力強く頷いた。


 会議の後、リーザからの通信が入った。魔法学院も彼らを支持する声明を出すという。


「学院の『薬学研究誌』に賢者の商会の薬についての論文を掲載します」


 これは学術的な信頼性を得る絶好の機会だった。レインはリーザに感謝の意を伝えた。


 ***


 夕方、レインは一人で町を歩いていた。状況を自分の目で確かめるためだ。噂の影響はまだ残っていたが、朝より町民の反応は柔らかくなっていた。


 ふと、彼は道の向こうにグランツ商会のヴァルターの姿を見つけた。彼は数人の部下に指示を出しているようだった。


 レインは茂みに隠れて彼らの会話を聞いた。


「賢者の商会の信用失墜作戦はまだ続ける。次は南方のキファだ」


「でも、頭取、バレンフォードでは失敗しました」


「馬鹿者! 一度の失敗で諦めるな。彼らの拠点を一つずつ潰していく」


 ヴァルターの声には憎悪が滲んでいた。彼にとってこれは単なる商売の競争ではなく、個人的な闘いになっているようだった。


「頭取、あのエルフの少女を攻撃対象にすれば良いのでは?」


「良い考えだ。エルフへの偏見は根強い。彼女を追い出せれば、商会は弱体化する」


 レインは拳を握りしめた。アイリスを狙うつもりか。それだけは許せなかった。


 彼らが去った後、レインは商会に戻った。アイリスの安全を確保する対策を立てなければならない。同時に、彼自身もヴァルターの本性を知る必要があった。


「先生、困難な状況です」


 真理の結晶に語りかけると、かすかな光が応えた。


「しかし、仲間と共に乗り越えます。噂の力を恐れず、真実を示し続けます」


 レインは窓の外の夕焼けを見つめた。闇の向こうには必ず光がある。その信念が彼を支えていた。


(第十六話 終)

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