第13話:拡大する商会


 朝の光がバレンフォードの街を照らし始めた頃、「賢者の商会」では既に活気ある音が響いていた。レインはガラス管を調整しながら、新しい薬の蒸留を行っていた。


「エイド・ドロップの改良版ができるといいな」


 彼は緑色の液体を丁寧に小瓶に注いだ。グリーンヘイブンでの流行り病以来、彼の医薬品は大評判となっていた。特に「エイド・ドロップ」は多くの町や村から注文が殺到していた。


「レイン、もう起きていたのね」


 階段を降りてきたアイリスは、銀色の髪を一つに結んでいた。彼女の尖った耳は、今では町の人々にとって見慣れた光景となっていた。


「ああ、早く仕上げたくて」


「私も手伝うわ」


 アイリスは自分の植物に水をやった後、レインの作業を手伝い始めた。彼女が持ち込んだエルフの薬草は、店の裏庭で立派に育っていた。


「今日、オスカーさんが来るって言ってたわよね」


「ああ、新しい薬草を持ってくるそうだ」


 作業の途中、階下から声がした。


「誰か居るかい?」


「はい、今行きます」


 レインは作業の手を止め、階下へと降りた。そこには見慣れぬ顔の男性が立っていた。がっしりとした体格で、腰には剣を差している。冒険者のような風体だった。


「何かお探しですか?」


「ここが噂の賢者の商会か?」男性は店内を見回した。「評判を聞いてな、ちょいと相談があるんだ」


「どうぞ、中へ」


 レインは男性を奥の応接スペースに案内した。アイリスもそれに続いた。


「ガルムと言います。元傭兵です」


 男性は自己紹介した。四十代と思われるその男には、数々の戦いを経験してきた風格があった。


「何のご相談でしょう?」


「実はな」ガルムは声を落とした。「おまえさんとこの薬が欲しいんだ。『エイド・ドロップ』というやつだ」


「もちろんありますが、何に?」


「昔の仲間が病気でな。町の医者も手の施しようがないと」


 ガルムの表情に陰りが見えた。アイリスはすぐに薬棚へと向かい、「エイド・ドロップ」の瓶を持ってきた。


「これです。使い方は…」


「いや、それだけじゃないんだ」


 ガルムは躊躇いがちに続けた。


「実は、商会に護衛の仕事を申し込みたくてな」


 レインは驚いた。「護衛?」


「ああ。おまえさんとこの商品は評判が良い。それだけ価値があるってことだ」


 ガルムは周囲を見回し、さらに声を落とした。


「町で噂を聞いた。グランツ商会がおまえさんとこを目の敵にしているとな」


 レインとアイリスは顔を見合わせた。確かに最近、不審な出来事があった。注文のキャンセルや、奇妙な噂の流布。背後に何者かの存在を感じていた。


「グランツ商会とは?」


「この地域で最大の商会だ。バレンフォードの商業を牛耳っている」


 ガルムは真剣な表情で続けた。


「傭兵をやめて仕事を探していたところだ。おまえさんとこで警備の仕事をさせてくれないか?」


 レインは考え込んだ。確かに商会の規模は拡大しており、セキュリティの問題も出てきていた。夜間に店の周りを不審者が歩いているという報告もあった。


「給料はどれくらい希望されますか?」


「銀貨で月に三十枚。それと住む場所があれば」


 レインは計算した。現在の商会の売上なら十分払える金額だ。


「わかりました。試用期間として一ヶ月、お願いできますか?」


 ガルムの顔が明るくなった。


「ありがとう! 期待に応えるよ」


 ***


 ガルムが去った後、レインとアイリスは今後の商会の運営について話し合っていた。


「人を雇うのは初めてね」


「アイリスは従業員じゃなくてパートナーだからね」


 レインの言葉にアイリスは微笑んだ。彼女が商会に加わって以来、二人は互いを頼りにしてきた。


「でも、本当に商会は大きくなったわね。最初は小さな店だったのに」


 レインは窓から外を見た。確かに商会は急速に成長していた。魔石ランプと浄水石から始まり、今では医薬品、魔力触媒、防護アイテムなど、様々な商品を扱うようになっていた。店舗も拡張し、工房スペースを増やした。


「そろそろ分業も考えないといけないかもしれない」


「そうね。私が薬草担当、レインが鑑定と開発、ガルムさんが警備で…」


 話し合いを続けていると、店の扉が開き、オスカーが入ってきた。彼は大きな袋を肩に担いでいた。


「やあ、レイン、アイリス! 約束通り来たぞ」


「オスカーさん、お待ちしてました」


 レインは彼を工房へと案内した。オスカーは袋から様々な薬草を取り出し始めた。


「これは『夜明けの花』。山の北側でしか採れない珍しいものだ」


 レインは手に取り、鑑定した。


「驚異的な浄化能力を持つ薬草。毒素を吸収し、体内の不純物を取り除く効果があります」


「さすがだな」オスカーは感心した。「その通りだ。売値は通常の三倍だが、それだけの価値はある」


 アイリスも薬草を手に取り、香りを嗅いだ。


「うん、純度が高い。でも乾燥方法を変えれば、効果はもっと長持ちするはず」


 三人は薬草について話し合った。レインの鑑定能力、アイリスのエルフとしての知識、オスカーの採集経験——それぞれの視点が新たな可能性を生み出していた。


「そういえば、新しい店員を雇ったのか?」オスカーが尋ねた。


「ええ、警備担当として」


「そうか。やはり商会が大きくなれば、狙う者も出てくるからな」


 オスカーの表情が曇った。


「グランツ商会の噂は聞いたか?」


「ええ、ガルムさんから。何か知っていますか?」


 オスカーは周囲を見回し、声を落とした。


「ヴァルター・グランツという男が当主だ。冷酷な商売人で知られている。競合を徹底的に潰す手腕を持つ」


「なぜ私たちが目をつけられたのでしょう?」アイリスが不安そうに尋ねた。


「おそらく、医薬品だろう」オスカーは考え込むように言った。「グランツ商会も薬を扱っているが、お前たちの『エイド・ドロップ』は彼らの商品より効果が高く、価格も安い」


 レインは考え込んだ。彼の商品開発は前世の知識とこの世界の魔法を組み合わせたものだった。それが従来の常識を超える効果を生み出していたのだ。


「用心したほうがいいだろう」オスカーは忠告した。「グランツは手段を選ばないと聞く」


 ***


 その日の午後、レインは城下町の別の地区にあるグランツ商会を見に行くことにした。アイリスは店を守り、ガルムはレインに同行した。


 グランツ商会は豪華な石造りの建物だった。入口には華やかな看板が掲げられ、中は高級な商品で溢れていた。


「あの人がヴァルターだ」


 ガルムが小声で言った。店の奥で接客をしている男性がいた。五十代くらいで、豊かな髭を蓄え、高価な服を着ている。その姿からは権力と富が滲み出ていた。


 レインは店内を歩き回り、商品を観察した。魔法アイテム、薬、宝飾品……どれも品質は良いが、価格は法外に高かった。


「彼の商品を鑑定してみたいものだ」


 レインは小さくつぶやいた。しかし今は控えめに情報収集だけを行った。


 店を出ると、ガルムが低い声で言った。


「あの男、こちらに気づいたようだ」


 振り返ると、ヴァルターが店の入口に立ち、彼らを見つめていた。その目には敵意が見て取れた。


「帰ろう」


 レインは足早に立ち去った。街を歩きながら、彼は考えを整理した。グランツ商会との競争は避けられないだろう。しかし、前世のビジネス経験から、正面からの対決は避けるべきだとわかっていた。


「どうするつもりだ?」ガルムが尋ねた。


「差別化です」レインは答えた。「彼らが扱っていない分野、彼らにできないことを見つけます」


 ***


 商会に戻ると、アイリスが興奮した様子で迎えた。


「レイン! 聞いて! マグノリアの魔法学院から依頼が来たの」


「魔法学院から?」


「ええ、リーザさんの紹介みたい。学生用の特別な魔力触媒を作ってほしいんですって」


 レインの目が輝いた。魔法学院との取引は商会の信頼性を高めるだろう。また、リーザとの共同研究の成果が活かせる場所でもあった。


「これは大きなチャンスだ」


 レインは早速、特別な魔力触媒の開発計画を立て始めた。彼の前世の工学知識とこの世界の魔法理論を組み合わせれば、画期的な製品ができるはずだ。


 夕方、商会の閉店後、三人は今後の方針について話し合った。


「私は薬草の栽培と医薬品の製造を担当します」アイリスは自信を持って言った。


「俺は警備と配送の管理を受け持とう」ガルムも意欲的だった。


「僕は新商品開発と鑑定を続けます」レインは計画を示した。「それと、新しい市場の開拓も」


 彼は魔法学院との取引を足がかりに、より広い範囲での商売を考えていた。また、グランツ商会との差別化を図るため、オリジナル商品の開発にも力を入れる必要があった。


「でも、このままだと手が回らなくなるわね」アイリスは現実的な懸念を示した。


「そうだな」レインは頷いた。「もう一人、店番ができる人を雇う必要があるかもしれない」


「俺も見習いを一人入れたほうがいいと思う」ガルムが提案した。「商品が増えれば、配送の手間も増える」


 レインは二人の意見に同意した。「賢者の商会」は新たな段階に入ろうとしていた。個人商店から、本格的な商会組織への転換だ。


「明日から求人を始めましょう」


 三人は手を重ね合った。それぞれに異なる背景を持ちながらも、同じ目標に向かって進む仲間たちだった。


 ***


 翌朝、レインは早くから魔法学院向けの特別魔力触媒の開発に取り組んでいた。リーザから送られてきた詳細な要件書によると、初心者の学生でも扱いやすく、特定の魔法属性に特化した触媒が求められていた。


「風属性、火属性、水属性、土属性……それぞれに最適化する必要があるな」


 レインは様々な魔石を粉砕し、独自の配合で混ぜていった。通常の魔力触媒よりも細かく調整し、初心者でも扱いやすいよう安定性を高める工夫を加えた。


 作業の途中、アイリスが庭から戻ってきた。


「レイン、見て! 『青の夜明け』が咲いたわ」


 彼女の手には珍しい青い花が握られていた。エルフの里から持ってきた種から育てた希少な薬草だった。


 レインは花を手に取り、鑑定した。


「驚くべき高純度の魔力を含んでいる。特に精神を安定させる効果が強い」


「そう、エルフの里では特別な儀式にしか使わないの。でも、薬として使えば、深い傷の痛みを和らげたり、悪夢に悩む人を助けたりできるわ」


 二人は新たな薬の開発計画を立て始めた。アイリスはエルフの知識に基づいて配合を提案し、レインは効果を最大化する処理方法を検討した。


「『静穏の雫』という名前はどうかしら?」


「素晴らしいね。心を穏やかにする……市場に出せば、きっと需要があるだろう」


 作業を続けていると、ガルムが工房に入ってきた。


「悪い知らせだ」


 彼の表情は暗かった。


「何があったんですか?」


「市場で聞いた話だが、グランツ商会が『エイド・ドロップ』の模倣品を売り始めたらしい」


 レインとアイリスは驚いた。


「模倣品?」


「ああ。見た目も名前も似せて、『エルフの涙』とか言って売っている。効果は劣るが、価格も安いらしい」


 アイリスの顔が曇った。


「それは酷いわ。私たちの努力を…」


 レインは冷静さを保とうとした。前世のビジネス経験から、こうした状況は珍しくないことを知っていた。


「調査が必要だ。その商品を手に入れて鑑定してみよう」


 ガルムは頷いた。「早速行ってくる」


 ガルムが出かけると、アイリスはレインに不安そうに尋ねた。


「どうすればいいの?」


「アイリス、心配しないで」レインは彼女の肩に手を置いた。「私たちの強みは品質だ。本物の効果は偽物にはまねできない」


「でも…」


「それに、私たちには彼らにない武器がある」


 レインは微笑んだ。「私の前世の知識と、君のエルフの知恵だ」


 アイリスは少し安心したように見えた。


「そうね。私たちなりの戦い方があるわ」


 二人は再び作業に戻った。窓の外では、バレンフォードの町が活気に満ちていた。雲一つない青空が広がり、明るい未来を予感させる一日だった。


 レインはつぶやいた。「先生、見ていますか? 私たちの商会は成長し続けています」


 真理の結晶が、静かに光を放った。


(第十三話 終)

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