第9話:賢者の商会、開店
朝露が草木を濡らす早朝、レインはバレンフォードの商業ギルドの前に立っていた。石造りの三階建ての建物は、町で最も堂々とした建築物の一つだった。入口には金色の天秤の紋章が掲げられている。
「さあ、行こう」
レインは深呼吸し、重厚な扉を押し開けた。内部は豪華だった。大理石の床、高い天井、壁には成功した商人たちの肖像画が飾られている。
「お客様、ご用件は?」
受付にいた女性が声をかけた。彼女は洗練された服装で、気品ある態度だった。
「グスタフ様にお会いする約束があります。レインと申します」
「ああ、噂の少年鑑定師ですね」女性は微笑んだ。「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
彼女はレインを二階へと案内した。廊下を進むと、「商業ギルド役員 グスタフ・マーロウ」と書かれた扉に到着した。
「どうぞお入りください」
女性は扉をノックし、レインを中に通した。
グスタフは広い執務室の机に座っていた。窓からは町の景色が一望できる。壁には地図や商業関連の文書が掛けられていた。
「やあ、来てくれたか」グスタフは立ち上がって迎えた。「座りなさい」
レインは差し出された椅子に座った。緊張で背筋が伸びる。
「昨日の鑑定は見事だった」グスタフは称賛した。「君の能力は本物だ」
「ありがとうございます」
「さて、本題に入ろう」グスタフは姿勢を正した。「君の能力は商業ギルドにとって貴重だ。正式に鑑定師として雇いたい」
レインは内心で喜びを感じたが、冷静さを保った。前世のビジネス経験が役立っている。
「どのような条件でしょうか?」
「週に三日、午前中のみの勤務。報酬は一日銀貨五枚」グスタフは指を折りながら言った。「また、取引で重要な品物があれば特別鑑定を依頼する。その場合は別途報酬を支払う」
条件は悪くなかった。しかし、レインの心には別の計画があった。
「大変ありがたい申し出です」レインは丁寧に言った。「しかし、私には別の計画があります」
「ほう?」グスタフは眉を上げた。「どんな計画だ?」
「私は自分の商会を開きたいのです」
レインは前日に考えたプランを説明した。単なる鑑定業ではなく、様々な素材の新しい活用法を研究し、独自の商品を開発する商会。冒険者から集めた素材を付加価値をつけて販売する。前世の知識と鑑定能力を組み合わせた、独自のビジネスモデルだ。
グスタフは黙って聞いていた。彼の表情からは何も読み取れない。
「野心的な計画だ」彼はようやく口を開いた。「だが、実現は難しいだろう。資金、場所、人脈——全てが必要だ」
「はい、承知しています」
「しかし……」グスタフは微笑んだ。「不可能ではない。君の能力と発想は確かに価値がある」
彼は立ち上がり、窓の方へ歩いた。
「ギルドとしては君を独占したいところだが、才能ある者の芽を摘むのは商業の発展を妨げることになる」
グスタフは再びレインに向き直った。
「取引をしよう。君は自分の商会を開く。ただし、重要な取引の際はギルドの鑑定も引き受けること。その代わり、ギルドは商会の設立を支援する」
レインの目が輝いた。「本当ですか?」
「ああ。ただし成功するかは君次第だ」
グスタフは机の引き出しから地図を取り出した。バレンフォードの街の地図だった。
「ここに空き店舗がある。以前は道具屋だったが、主人が引退して閉店した」
彼が指さした場所は、市場通りから少し外れた位置にあった。大通りではないが、人通りは悪くない場所だ。
「家賃は月に銀貨十枚。最初の二ヶ月分はギルドが支払おう。あとは君の商売次第だ」
レインは感激して頭を下げた。「ありがとうございます。必ず成功させます」
「期待しているよ」グスタフは微笑んだ。「さて、店を見に行くか」
***
グスタフと共に訪れた店舗は、想像よりも広かった。一階は店舗スペース、二階は小さな住居になっていた。建物は古いが、しっかりとした造りだ。
「以前の主人は器用だったから、作業場も完備している」
グスタフは奥の部屋を指さした。そこには作業台や棚が並んでいた。
「完璧です」レインは喜んだ。この場所なら、鑑定だけでなく商品開発も行える。
「掃除が必要だが、基本的な設備は整っている」グスタフは言った。「いつから始める?」
「できるだけ早く」レインは決意を込めて答えた。「一週間以内には開店したいです」
「熱意があるな」グスタフは感心した様子だった。「では、契約書を作成しよう」
彼らはギルドに戻り、契約を交わした。レインは正式に店舗を借り受け、その代わりにギルドからの鑑定依頼に応じることを約束した。
***
次にレインが向かったのは冒険者ギルドだった。マーサに経過を報告する必要があった。
「商会を開くのか」マーサは興味深そうに言った。「面白い選択だ」
「冒険者ギルドの仕事は続けられませんが、協力関係は維持したいです」
レインは自分のビジネスプランを説明した。冒険者が集めた素材を買い取り、付加価値をつけて販売する。それはギルドにとっても利益になるはずだ。
「なるほど」マーサは頷いた。「冒険者たちにとっても、価値のわからない素材を鑑定してもらえるのは助かる」
彼女は考え込み、やがて決断したように言った。
「ギルドとして正式に協力しよう。冒険者に君の商会を紹介する。その代わり、彼らに公正な取引をすること」
「もちろんです」
契約は簡単に済んだ。冒険者ギルドと商業ギルド、両方からの支援を得たレインは、開店準備に取りかかった。
***
接続する三日間、レインは店の掃除と整備に費やした。村から持ってきた本や研究道具を配置し、作業場を使いやすく改造した。
「ここに鑑定台を置いて……」
彼は前世のオフィスレイアウトの知識を活かして、効率的な空間を作り上げた。一部の棚は武器の光学原理を応用して安定させ、作業台には前世の実験台を参考にした工夫を施した。
四日目、レインは開店のための最後の準備をしていた。店の看板をどうするか考えていたとき、偶然市場の廃品置き場を通りかかった。
「これは……」
レインの目に飛び込んできたのは、輝く青い石の欠片だった。他の廃品に混じって捨てられている。彼は石を手に取り、鑑定した。
「魔石の欠片! 純度は40%ほどだが、確かに魔力を帯びている」
これは貴重な素材のはずだ。なぜ捨てられているのだろう? レインはさらに鑑定を深めた。
「なるほど……表面に不純物が付着して、一見価値がないように見える。だが、正しく処理すれば十分に使える」
彼は廃品置き場を探し回り、同様の欠片を集めた。最終的に十数個の魔石の欠片を手に入れた。これを元手に何かできるはずだ。
レインは店に戻り、魔石の研究に没頭した。ギルバートの本を参考に、彼は魔石から不純物を取り除く方法を見つけ出した。
「酢と塩を混ぜた溶液で表面を洗浄し、日陰で乾燥させる……」
前世の化学知識と、ギルバートから学んだ魔法理論を組み合わせた処理法だ。数時間の作業の末、魔石は美しい青色を取り戻した。
「次は活用法だ……」
レインはギルバートから受け継いだ真理の結晶を手に取った。
「先生、この魔石、何に使えるでしょう?」
彼は結晶に問いかけた。すると、不思議なことに結晶が微かに光り、レインの頭に一つのアイデアが浮かんだ。
「光を増幅する効果……そうだ、ランプだ!」
前世の光学知識と、この世界の魔石の性質を組み合わせれば、通常のランプより明るく、燃料も少なくて済むランプが作れるはずだ。
レインは作業場に戻り、ランプの設計を始めた。一晩かけて試作品を完成させた。青い魔石を組み込んだランプは、通常の油ランプの三倍の明るさで輝いた。
「これだ……第一号商品の完成だ」
***
開店当日、レインは早朝から準備に取りかかった。店の前には「賢者の商会」と書かれた新しい看板を掲げた。店内には鑑定コーナーと商品展示スペースを設けた。
「さあ、開店だ」
彼は深呼吸して扉を開けた。最初の数時間、客は少なかった。好奇心から覗く人はいたが、購入には至らなかった。
昼頃、一人の男性が入ってきた。彼は宿屋の主人らしく、新しい照明を探していると言った。
「夜になると宿の廊下が暗くて、お客様が不便を感じているんです」
レインはチャンスとばかりに魔石ランプを見せた。
「これはいかがでしょう? 通常のランプの三倍の明るさで、燃料は半分しか使いません」
「本当かい?」宿屋の主人は半信半疑だった。
「実演します」
レインは店内を暗くし、通常のランプと魔石ランプを並べて灯した。その差は一目瞭然だった。
「これは素晴らしい!」宿屋の主人は感嘆した。「いくらだい?」
「一つ銀貨三枚です」
「高いな……」男は渋った。「でも、長い目で見れば元が取れるのかな」
「燃料代が半分になるので、三ヶ月で元が取れます」レインはビジネスマンのように説明した。「お客様の満足度も上がるでしょう」
男は考え込み、やがて決断した。「よし、二つ買おう」
レインの最初の販売が成立した。宿屋の主人は銀貨六枚を支払い、満足げにランプを持ち帰った。
その後、口コミで評判が広がり、午後には何人もの客が訪れるようになった。ランプを求める人もいれば、物品の鑑定を依頼する人もいた。
「この石、何か価値はありますか?」
「この薬草の正しい使い方を教えてください」
レインは全ての質問に丁寧に答えた。彼の正確な鑑定と親切な対応に、客たちは満足していった。
日が暮れる頃、彼は初日の売上を数えた。銀貨十五枚——予想以上の好スタートだった。
「先生、商会を開きました」
店を閉めた後、レインは真理の結晶に語りかけた。
「最初の商品も売れました。これからもっと色々な商品を開発します」
結晶は静かに輝いた。レインには、ギルバートが喜んでいるような気がした。
彼はノートを開き、次の商品アイデアを書き始めた。魔石の他の活用法、薬草の新しい調合法、冒険者の装備の改良案……前世の知識と、この世界の魔法を組み合わせたアイデアが次々と湧いてきた。
「賢者の商会」の歴史は、こうして始まった。鑑定能力と前世の知識を武器に、レインの新たな冒険が幕を開けたのだ。
(第九話 終)
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