第6話:賢者の別れ
朝の光が窓から差し込み、レインの目を覚ました。マグノリアでの三日目の朝だった。彼はベッドから起き上がり、窓の外を見た。魔法学院の塔が朝日に輝いている。
「調子はどうだ?」
ギルバートが部屋に入ってきた。老人の顔色が優れなかった。昨夜から咳が続いていたのだ。
「先生こそ、大丈夫ですか?」
「気にするな。老いの症状だ」
ギルバートは机に地図を広げた。昨日、彼らは学院の実験室で一日中過ごした。レインは様々な物質を鑑定し、その情報をギルバートが記録していった。
「今日で学院での用事は終わりだ。明日には村に戻ろう」
レインは少し寂しく思った。マグノリアの活気ある暮らしが気に入っていた。しかし、落ち着いた村での生活も悪くはなかった。
「先生、これは?」
机の上には古い羊皮紙があった。それは地図とは違う、何かの設計図のようだった。
「ああ、これは私の若い頃の夢だった装置の設計図だ。物質変換器——あらゆる物質を他の物質に変えられる理論上の装置だ」
レインは図面を興味深く見た。それは複雑な機械のようでもあり、魔法陣のようでもあった。前世のエンジニアとしての知識からすると、いくつかの部分は理解できた。
「これは……エネルギー変換の概念ですね」
「よく気づいた」ギルバートは驚いた様子だった。「物質とエネルギーの関係性を理解しているとは」
「前世の知識です。E=mc²という方程式があって……」
レインは前世の物理学の基本概念を説明した。ギルバートは熱心に聞き、時折メモを取った。
「驚くべきことだ。君の前世の知識と、この世界の魔法理論を組み合わせれば……」
老人は興奮したように立ち上がったが、突然激しい咳に襲われた。彼は椅子にもたれかかり、苦しそうに胸を押さえた。
「先生!」
レインは慌ててギルバートを支えた。老人の額は熱く、顔は蒼白だった。
「大丈夫だ……少し休めば」
しかし、咳は止まらなかった。レインは宿の主人を呼び、医者を呼んでもらった。
***
「老年性の魔力衰弱症だ」
医者はそう診断した。彼は小柄な男性で、眼鏡をかけていた。
「魔力衰弱症?」
「魔法使いに特有の症状だ。長年魔力を使い続けると、体が消耗する。特に歳を取ると急速に進行することがある」
レインは心配そうにベッドに横たわるギルバートを見た。老人は眠っていた。
「治るのでしょうか?」
医者は苦い表情を浮かべた。
「進行を遅らせることはできても、完全に治すことは……」
彼は言葉を切った。レインには意味がわかった。
「どれくらい?」
「状態によるが、数ヶ月から一年ほどだろう」
医者はいくつかの薬を置いていった。それは魔力回復薬と症状緩和の薬だった。
レインは窓辺に立ち、町を見下ろした。突然の出来事に、彼の心は混乱していた。ギルバートは彼にとって、この世界での唯一の頼りだった。師であり、父親のような存在だ。
***
夕方、ギルバートは目を覚ました。彼は弱々しく微笑んだ。
「心配をかけたな」
「無理をしないでください」レインはベッドの傍らに座った。「医者が薬を置いていきました」
ギルバートは小さく頷いた。彼は自分の状態を理解しているようだった。
「レイン、私の荷物の中に小さな箱がある。持ってきてくれないか」
レインは言われた通りにした。古い木箱を見つけ、ギルバートに渡した。老人は箱を開け、中から一冊の本を取り出した。
「これは私の研究ノートだ。全ての知識と経験が詰まっている」
彼はその本をレインに手渡した。
「なぜ今?」
「時間がないからだ」ギルバートは静かに言った。「私の研究を受け継いでほしい」
レインは本を受け取った。重みのある古い本だった。表紙には謎の文字が刻まれている。
「読めますか?」
「魔法文字です。少しずつ勉強しています」
「良い」ギルバートは微笑んだ。「この本には私の全てがある。特に最後のページには、重要なことを記した」
レインは恐る恐る本を開いた。複雑な図表と文字で埋め尽くされていた。全てを理解するには時間がかかりそうだ。
「先生、まるで遺言のようです」
「そうかもしれないな」ギルバートは穏やかに答えた。「だが、嘆くな。死は新しい始まりでもある。君が一番よく知っているだろう」
レインは黙って頷いた。転生者である彼は、死の向こう側を経験していた。
「先生の研究、必ず続けます」
「いや」ギルバートは首を振った。「私の研究を参考にしながらも、自分の道を見つけなさい。君には君の使命がある」
***
翌朝、ギルバートの状態は安定していた。医者の薬が効いたようだった。彼らは村に戻ることを決めた。
「無理ではありませんか?」
「村で静養したい」ギルバートは言った。「それに、やり残したことがある」
彼らは馬車を雇い、マグノリアを後にした。出発前、ギルバートは魔法学院の図書館にメッセージを残した。
「何を伝えたのですか?」
「私の弟子が、いずれまた訪れることを」
道中、ギルバートはレインに様々なことを教えた。物質と魔力の関係、鑑定能力の鍛え方、魔法理論の応用など。まるで、伝えきれないことを急いで伝えようとしているかのようだった。
レインは全てを記憶しようと必死だった。ギルバートの言葉一つ一つが貴重だと感じた。
村に到着したのは夕暮れ時だった。村人たちはギルバートの病状を知り、心配した。彼は村でも尊敬される賢者だったのだ。
「ギルバート先生、何かできることはありませんか?」
村長が訪ねてきた。彼は年配の男性で、いつも穏やかな表情をしていた。
「ありがとう。だが、必要なものは全て揃っている」
ギルバートは自宅のベッドに横になった。レインは彼の傍らで看病を続けた。
日が経つにつれ、老人の体力は少しずつ回復した。しかし、医者の言葉通り、完全に治ることはないようだった。
ある晴れた日の朝、ギルバートはレインを庭に呼んだ。
「今日は特別な授業をしよう」
「先生、無理をしては」
「大丈夫だ。これは重要なことだ」
ギルバートは庭の中央に立った。彼は杖を地面に突き、目を閉じた。
「私の最後の教えだ。よく見ていなさい」
老人の周りに光の粒子が集まり始めた。それは次第に強く輝き、美しい螺旋を描いた。レインは息を呑んだ。これほど美しい魔法を見たことがなかった。
「これが物質の本質だ。全ては光と影から成る」
光の螺旋は様々な形に変化した。時に鳥のように、時に花のように。ギルバートの意思に従って自在に形を変えていく。
「魔法とは、世界の法則を理解し、それを操ることだ。決して無から有を生み出すわけではない」
光は最終的に一点に収束し、小さな結晶となって空中に浮かんだ。ギルバートはそれをレインに手渡した。
「これが『真理の結晶』だ。私の研究の集大成」
レインは結晶を受け取った。触れた瞬間、彼の能力が作動した。
「純度99.9%。完璧な結晶構造。中には……先生の魔力が」
「そう、私の命の一部だ」ギルバートは微笑んだ。「この結晶があれば、私がいなくても研究を続けられる」
老人は疲れた様子で椅子に座った。魔法の使用で体力を消耗したようだった。
「先生、なぜこんなことを?」
「私の時間は限られている」ギルバートは静かに言った。「この結晶に魔力を注げば、いつでも私の声が聞こえるだろう。質問があれば答えよう」
レインは涙を堪えながら頷いた。
「自分の道を進め、レイン」ギルバートは彼の肩に手を置いた。「私の夢を追うのではなく、君自身の夢を見つけなさい」
***
それから一週間後の夜明け前、ギルバートは静かに息を引き取った。レインが傍らで本を読んでいる間だった。
「先生?」
返事はなかった。レインは老人の手を取った。冷たかった。
「ありがとうございました、全てに」
村全体で葬儀が行われた。多くの村人が参列し、ギルバートの生涯を偲んだ。彼は村の賢者として、多くの人々を助けてきたのだ。
マグノリアからも学者たちが訪れた。ギルバートは魔法学の世界でも尊敬される存在だったようだ。
葬儀の後、レインは一人家に戻った。ギルバートの部屋には彼の遺品が残されていた。本、魔法の道具、研究ノート——全てがレインに遺されたものだった。
「自分の道を進め」
ギルバートの最後の言葉が耳に響く。レインは窓辺に立ち、夕暮れの村を見渡した。
手の中には真理の結晶があった。美しく輝くその結晶が、これからの彼の道を照らす光となるだろう。
「先生の分まで、生きていきます」
レインはつぶやいた。悲しみの中にも、新たな決意が芽生えていた。
(第六話 終)
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