第3話:異世界の常識
朝日が昇る前から、レインはギルバートの工房で目を覚ましていた。前夜、老賢者から貸し出された古い本を、彼は夢中で読んでいた。
「アルカディア歴史概論」——この世界の基礎知識が詰まった本だった。レインの頭には前世の記憶と新しい知識が交錯する。
「もう起きていたのか」
ギルバートが工房に入ってきた。白髪は乱れ、目にはまだ眠気が残っている。
「すみません。本が面白くて」
「知識欲旺盛なのはいいことだ」
老人は窓を開け、新鮮な空気を取り込んだ。朝の涼しい風が二人の頬を撫でる。
「今日から本格的に学びを始めよう。アルカディアの常識を知らなければ生きていけない」
レインは素直に頷いた。彼は既に本から基本的な知識を得ていた。この世界は大陸一つの王国で統治されている。現在の王はアレクサンダー四世。王都ロイヤルシティを中心に、各地に自治都市が存在する。
「まずは魔法の基礎からだ」
ギルバートは小さな箱を取り出した。中には様々な色の石が入っている。
「これは魔石。魔力を宿した鉱物だ。魔法の源となる」
レインは一つの青い石を手に取った。触れた瞬間、彼の能力が反応する。
「水の属性を持つ魔石。純度は約70%。魔力の密度は……中程度」
ギルバートは感心した様子で頷いた。
「正確だ。君の能力は確かに優れている」
老人は次々と魔石について説明した。赤は火、緑は風、茶色は土——四大元素を基本に、光、闇、雷など様々な属性があるという。
「人間は生まれつき、特定の属性との相性を持っている。君はどうだろうな」
レインは各色の魔石に触れてみた。どれも情報は得られるが、特別な感覚はない。
「特に反応するものはないようです」
「珍しいな」ギルバートは考え込んだ。「無属性か、それとも万能型か……」
***
朝食後、ギルバートはレインを村の中心へと連れていった。そこには石造りの広場があり、人々が集まっていた。
「今日は市の日だ。各地の商人が集まる」
レインは興味深く周囲を見回した。様々な店が立ち並び、珍しい品々が売られている。食べ物、衣服、工芸品、そして魔法の道具まで。
「先生、あれは何ですか?」
レインが指したのは、光る液体が入った小瓶だった。
「回復薬だ。怪我や病気を癒す。値段は高いがな」
ギルバートはレインに一枚の銀貨を渡した。
「これで何か買ってみなさい。お金の価値を知ることも大切だ」
レインは銀貨を握りしめ、市場を歩き回った。様々な店を見て回り、最終的に彼が選んだのは一冊の本だった。「初級魔法入門」と書かれている。
「良い選択だ」
本を手に戻ってきたレインに、ギルバートは微笑んだ。
「物より知識を選ぶとは。さすが前世で学者だったな」
「システムエンジニアですが」レインは小さく笑った。「でも、知識は力ですから」
市場を歩きながら、ギルバートはレインにこの世界の経済について説明した。通貨は金貨、銀貨、銅貨の三種類。一金貨は十銀貨に相当し、一銀貨は百銅貨の価値がある。
「普通の職人の日給が銅貨五十枚ほど。冒険者なら依頼の難易度で変わるが、銀貨一枚から金貨数枚までだ」
レインは頭の中で計算した。本の値段は銀貨一枚。かなり高価な買い物だったことになる。
「先生、私はどうやって生活費を?」
「私が面倒を見るさ。それに……」
ギルバートは市場の一角を指さした。そこでは老人が小さなテーブルを出し、何かを鑑定しているようだった。
「鑑定師という職業もある。君の能力なら、将来は十分稼げるだろう」
***
午後、彼らは村外れの小さな丘に登った。そこからは村全体が見渡せた。
「あそこが冒険者ギルド」ギルバートは大きな建物を指さした。「冒険者は魔物退治や探索などを請け負う。危険だが報酬は良い」
「魔物も実在するんですね」
「ああ。森や山、洞窟などに棲んでいる。人里近くまで来ることもある」
レインは緊張した。前世ではモンスターはゲームの中だけの存在だった。ここでは実際の脅威なのだ。
「戦い方も学ばなければならないな」
「魔法で戦うのですか?」
「魔法も武器も、得意なほうを選べばいい」
丘の上で、ギルバートはレインに魔法の基本姿勢を教えた。魔力を集中させ、詠唱し、解放する——。
レインは何度も試したが、火の玉一つ作ることもできなかった。
「焦るな」ギルバートは優しく諭した。「魔法の才能は人それぞれだ。君には鑑定という別の才能がある」
夕方になり、二人は村に戻った。道中、レインは村の子供たちと再会した。彼らはレインを遊びに誘った。
「行っておいで」ギルバートが背中を押した。「同年代との交流も大切だ」
子供たちと鬼ごっこをする中で、レインは違和感を覚えた。彼の意識は三十二歳の大人だ。しかし体は幼い。その乖離に戸惑いながらも、子供の身体に合わせた遊びに馴染んでいった。
「レインは変わってるね」リリーが言った。「大人みたいに話すし、知らないことを知ってる」
「ギルバート先生に教わってるからじゃない?」トムが答えた。
子供たちはレインの「異質さ」を感じながらも、彼を仲間として受け入れていた。
***
夜、ギルバートの家で、レインは一日の学びを整理していた。ノートに書き留める習慣は前世から持ち越されていた。
「何を書いているんだ?」
ギルバートがレインの部屋に入ってきた。彼の手には熱い飲み物が入った杯があった。
「今日学んだことです。忘れないように」
老人はレインが書いたノートを覗き込んだ。そこには魔法体系、経済、地理などが整理されていた。特に魔法については、前世の科学知識と比較する記述があった。
「興味深い発想だ。魔法を科学的に捉えるとは」
「前世の知識を活かしたいんです」
ギルバートはレインの肩に手を置いた。
「それこそが記憶者の強みだ。二つの世界の知恵を持つことで、新しいものを生み出せる」
老人はレインに熱い飲み物を渡した。甘い香りがする。
「ホットミルクにハチミツを入れたものだ。眠る前に飲むといい」
「ありがとうございます」
レインは一口飲んだ。甘く温かい液体が体を温めた。前世でも寝る前にホットミルクを飲む習慣があった。それを思い出し、一瞬ノスタルジーに襲われた。
「何か思い出したのか?」
「はい。前世での似た経験を」
ギルバートは静かに頷いた。
「二つの記憶を持つのは大変だろう。だがそれも時間が解決してくれる」
老人は立ち上がり、ドアに向かった。
「明日は魔法学院がある町へ行こう。君に見せたいものがある」
レインは驚いた。「本当ですか?」
「ああ。この村を出て、もっと広い世界を見るときだ」
ドアを閉める前、ギルバートは振り返った。
「良い夢を、レイン」
一人になったレインは窓辺に立ち、星空を見上げた。前世では見たことのない星座が輝いている。
「新しい世界——」
彼は小さくつぶやいた。不安と期待が入り混じる感情。それでも、この世界で自分の道を見つけるという決意が、彼の心に静かに灯っていた。
レインは窓を閉め、ベッドに横になった。明日からまた新しい冒険が始まる。その思いと共に、彼は穏やかな眠りに落ちていった。
(第三話 終)
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