第30話
僕が妹に新しい名前を訊ねたのは、妹が戸籍上はすでに死んだことになっているからだ。
だから法律上、妹は僕の妹ではなくなってしまっており、顔はそのままだけど名前も住所も変わってしまっていた。
家ではこれまで通りの名前で呼べばいいし、それ以外の名前で呼ぶつもりはなかったが、家の外では新しい名前で呼ばなければいけなかったからだ。
これから妹はどこにいっても佐倉さんとか芽子さんと呼ばれるようになる。加藤さんとか麻衣さんとは呼ばれなくなってしまう。麻衣と呼ぶのは僕たち家族だけで、いつかは妹の名前は完全に佐倉芽子になってしまう。
その前に、僕はここに妹の名前を書いておこうと思う。
加藤麻衣だ。
そして僕の名前は田中俊郎ではなく、加藤学という。
妹は僕が一度切ったテレビをつけると、また録画した深夜アニメを観始めた。
『エルフさんは痩せられないがルッキズムの観点から言えばそもそも痩せる必要など毛頭ないのだ』という、もはやポリコレのにおいしかしないアニメだった。
本当にこの国も毒されてしまったんだなぁとしみじみと思わされるタイトルだった。
大切なのは本人が痩せたいかどうかであって、痩せたい人が痩せられなくて困ってるのだとしたら、タイトルは痩せられないで止めておけばいいし、本人が別に痩せたいと思ってないのに誰かが痩せることを強要してるのだとしたらほっといてやれよと思った。
今思えば、この後まもなく、世界は「多様性という名の獣」に屈することになるのだから、仕方のないことだったのかもしれない。
その獣は「ディバジィーティ」を名乗り、世界中のあらゆる著作物を過去に遡ってまで検閲し改竄した。あらゆる文化や歴史さえも、まるで人類の歴史に差別などなかったかのように綺麗に漂白した。
教会までもディバディーティに屈し、聖書は旧約聖書も新約聖書も多様性に配慮したものに書き換えられ、全く別物になることになる。
日本もまた、このときすでに獣たちに従わざるを得ない状況になっていたのだろう。従わなければレイシストと罵られ世界中の獣たちから非難を浴びることになるからだ。
「おにいちゃん、わたしのかわりにしんだふりをしてくれたひとって、おにいちゃんのしってるひと?」
妹はテレビの方を向いたまま、僕に言った。
僕はその人が破魔矢梨沙という名前だということや、その名前は仕事用の偽名で、本名を僕は知らないこと、三年以上前からの知り合いではあるけれど別に親しくはないことを話した。話しながらまるで浮気がばれた彼氏や夫が弁解でもしているようだなと思った。
「あのひと、かわいかったね。おにいちゃんのすきなたいぷだよね」
僕は否定も肯定もしなかった。お互い、そういう話はしない方がいいと僕は考えていたからだ。
僕だって本当は何故妹が死を偽装しなければいけなかったのか知りたかった。だけど、その理由が男絡みだと思ったから、あえて何も聞かずにいた。
「もう、わたしはだいじょうぶだから。でーととかしてもいいよ」
一体何が大丈夫だと言っているのだろう。やはり妹が一命を取り留めた海難事故は事故ではなく事件だったのだろうか。妹は誰かに命を狙われていたのだろうか。
そういえばあの日、妹は仕事に行くと言いながら、普段と違う格好をして家を出た。
妹はKITセレモニーの関連企業である”O.W.S.”で、見ず知らずの赤の他人の死を笑う「嘲ル者」という仕事をしていた。
いつも仕事着である喪服を着て家を出かけていた妹は、その日に限って喪服は鞄に入れて私服で出かけた。
十八歳の大学一年生には見えないような、中学生がするような髪型や化粧をして、中学生が着るような服を着ていた。そういう趣味の男と会う約束をしていたのだろうか。
そんなことを思ったが、僕は妹に確かめることは出来なかった。詮索をして嫌われることが怖かったからだ。
次のタナトーシスの依頼は意外とすぐにやってきた。
9月中旬、僕は久しぶりに棺の中にいた。
閉所恐怖症の人には申し訳ないくらい、僕は棺の中が好きだった。もっと狭くてもいいとすら思う。病院のMRI検査の機械みたいに、鼻が天井につきそうなくらい狭くてもいいと思っていた。
僕のような人間はともかく、生前閉所恐怖症だった人を、死んだからといって狭く暗い棺に閉じ込めてしまうのはいかがなものだろうか。それこそ本当に死人に口なしってやつじゃない? 僕がもし閉所恐怖症なら断固拒否したいと思う。その葬儀場や葬儀会社の地縛霊になって、最終的には祟り神になる自信がある。
9月は不思議な時期だ。暦の上では秋なのに、気温も湿度も8月とほとんど変わらない。そのくせ日が落ちるのは日に日に早くなっていく。
一か月前は夜の七時はまだ明るかったが、今はもう六時半には外は真っ暗になってしまう。
特に今年は残暑が暑すぎて、彼岸花の開花が遅れていると聞いた。
今回の仕事は珍しく破魔矢さんと現場がいっしょだった。もちろん棺は別々だけどね。
依頼人は三十代の夫婦で、ふたりとも自宅のクローゼットの中で首吊り自殺をした、という設定だった。
僕は依頼人の顔そっくりの特殊メイクと、首に縄が深く食い込んだように見えるメイクをして死んだふりをしていた。
毎回思うのだけどKITセレモニーのメイクさんの技術は異常だ。ニンベン師の人たちの公文書偽造の技術も相当すごいけれど、メイクさんたちは本当に僕や破魔矢さんを依頼人の死体に見せるのが上手だった。
鬼頭さんから聞いた話では、以前はドラマや映画で特殊メイクを担当していた人たちらしい。フィクションの中の死体のメイクは視聴者が視聴に耐えられるレベルに抑えてあるらしいが、僕たちのメイクはテレビで見るものとは明らかに違うリアルさがあった。本物の死体を研究しつくしているとしか思えなかった。
破魔矢さんが僕の妹の代わりのタナトーシスをしてくれた時も、顔も体もブヨブヨに膨れ上がった溺死体になっていた。ドラマや映画のきれいな溺死体とは明らかに違っていた。
クローゼットの中での首吊り自殺という設定は、パンデミックの頃を思い出させた。
何人もの芸能人が立て続けに自殺していたが、なぜか皆クローゼットの中で自殺していた。
そのほんの少し前までは、クローゼットと言えば自宅に連れ込んだ不倫相手といっしょに隠れる場所のイメージだったのに、なぜクローゼットで自殺をと不思議に思った人がきっとたくさんいたはずだ。
それ以外にもこの三年半の間に何人もの芸能人が自殺している。
いまだにその死を受け入れられない人たちに僕は伝えたいことがある。
あれらはすべて僕や破魔矢さんが引き受けたタナトーシスだ。
自殺したことになっている芸能人たちは、今は名前や顔を変えて別人として生きている。
だから、どうか安心してほしい。
今回の依頼人も芸能人の夫婦だった。
特撮の主演俳優から着実にキャリアを積み、日本を代表する若手人気俳優のひとりとなっていた男性と、テレビで観ない日はないというくらい人気のフリーアナウンサーの女性の夫婦だった。
「結婚してたって知ってた……?」
並んで特殊メイクをされているとき、ふたりの結婚を知らなかった僕は、破魔矢さんに訊ねてみた。正直ショックだった。
「結婚の発表はしてなかったはず……ただインスタで匂わせはしていた……」
彼女は決して僕の顔は見ようとせず、むしろ顔をそむけるようにして、でも一応小声で答えてくれた。うん、平常運転だ。
「そうなんだ……」
「ババパン、天馬くんのファンに、すごく叩かれてたから」
僕はふたりが匂わせをしていたことすら知らなかった。
「田中くんは、ババパンのファンだったの?」
ババパンとは、今回の依頼人の妻の方、フリーアナウンサーの馬場まなみが局アナ時代につけられていたあだ名だ。
「やっぱり、男の人は、ああいう、いつも、あざとい女が好きなの?」
なかなか辛辣なご意見だった。
「ブシテレビの女子アナって、みんな、名前にパンをつけて呼ばれてるの、どうしてか、知ってる?」
「いや、知らないけど。パンってつけたらかわいいから? あそこ、かわいい子しか取らないし。たまに漢字が読めない子いるし」
「パンパン女から、来てるんだって。都市伝説YouTuberが言ってた」
「パンパン女って何?」
「娼婦のこと」
聞かなきゃよかったと僕は思った。ひどい風評被害があったものだ。ラッスンゴレライを潰したネット民くらいたちが悪かった。
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