第24話
ニ三個言い終えた雪さんは、
「ヤソマガツヒ、タマガエシ、56、コスモス、ソロモンの印、81、」
僕さえも知らない言葉や数字を紡ぎ始めた。
「カベドナリ、理(ことわり)、24、エーテル、ドリーワン、輪廻、47、アナスタシア、イクリプス」
ニ三個ですべてではなかったのだ。あれにはまだ続きがあったのだ。
更なる言葉や数字を何十何百と紡ぎながら、雪さんは僕の腹に刺さったナイフを抜いた。
彼女が何故夜子さんや昼子さんを殺したのかはわからないが、僕のことも殺すつもりだということはよくわかった。
雪さんは僕の腹に空いた穴に手を挿し入れながら傷口を無理矢理広げた。内臓に触れているようだった。
感覚がなく何をされているのかよくわからなかったが、臓器を引きずり出そうとしているわけではないということはわかった。触診をしているように見えた。
やがて彼女はその手を抜き、夜子さんと昼子さんの服のポケットの中を調べ始めた。
僕を拷問でもするつもりだったのか、彼女たちが用意していたホチキスと瞬間接着剤を手に取ると、僕の腹に空いた穴を閉じた。手荒く雑な処置だったが、状況的に救急車を呼ぶことができない以上、応急処置は有り難かった。
雪さんは僕を殺そうとはしなかった。それだけではなく、僕を殺そうとした夜子さんや昼子さんから守ってくれた。
「この子たちの死体は、庭に埋めてくるね」
彼女は僕に向かってにっこりと微笑むと、「うんしょ、うんしょ」と、ふたりの死体を部屋の外に運び出す。
「体が動くようになる頃には戻ってくるから、大人しく横になっててね」
どうせ動けないけど、と彼女は言った。雪さんの喋り方とはまるで違う、妹のような口調だった。
長年彼女に生きづらい人生を背負わせていた男性恐怖症や他のあらゆる恐怖症も、今の彼女からは感じられなかった。
体を動かすことができないと、何もすることがなかった。眠りたくても眠ることもできない。”LASD-01”はそういう合成麻薬だった。
頭だけは冴えていて、思考がいつもの三倍の速度で脳を駆け巡る。
雪さんは何故十年前、妹から逃げることが出来たのか。夜子さんと昼子さんが助けに来たからだとされていたが、本当にそうだろうか。
妹なら三人とも生きて帰すようなことはしないはずだ。三人共誕生日にバースデーケーキとなって、配達されていたはずだった。
妹は雪さんをわざと逃がした。そう考えるべきだろう。
例の二三の言葉や数字に、何十何百という続きがあったことにもきっと意味がある。
あの言葉や数字は、妹が雪さんの脳に残したパスワードのようなものかもしれない。暗証番号というよりは復活の呪文と呼ばれる類いのものだろう。
僕が産まれるよりずっと昔のゲームにはセーブ機能がなく、一度中断する際にはパスワードが表示されていたと聞いたことがあった。
七年ほど前に出た国民的RPGの最新作にも、セーブ機能があるにも関わらず、そのシステムがおまけやお遊びとして再び採用されていた。
再開時にはそのパスワードを入力することで、中断したところからゲームを再開することができた。
人間の脳や体も、有機物で構成されたコンピュータのようなものだ。微弱な電気信号で脳が体を動かしている。
ゲームのデータであれば、二〇~五二文字程度のパスワードで済む。
だが、仮に一人の人間の脳をまるごとか、あるいは人格や記憶だけをパスワードに変換するとしたら、それはとてつもなく膨大な桁のものになるはずだ。
それがあの言葉と数字の羅列だとしたら。
本来はゲームのパスワードのように無意味な言葉が並ぶだけのものを、覚えることが可能なよう独自に変換していたとしたら。
二三個だけでは恐怖の海の底に沈んでしまうのは、パスワードが違うから、いや、不完全だからだとしたら。
何十何百という言葉と数字を覚えさせ暗唱させることによって、自分の人格や記憶を他人の脳を使って再開できるとしたら。
妹は自分のバックアップとして雪さんを選んだのではないだろうか。だから彼女をあえて逃がした。
そんな風に考えるのは馬鹿げているだろうか。
明け方、僕の体はようやく動くようになり、刺された腹がひどく痛み始めた。
雪さんは死体を埋めてくると言ったきり、戻ってきていなかった。
痛みを堪えながら体を起こし、部屋を出ると、部屋の外には水のペットボトルと箱に入った鎮痛剤があった。
どちらも未開封で、中身がラベルやパッケージ通りのものであるとわかるように、わざとそうしてあるのだと思った。
鎮痛剤は一回二錠、一日三回を限度にと箱の裏に書かれていた。だが、それは頭痛や生理痛のときの話だろう。
ナイフで刺された腹の痛みには到底足りない。
僕は箱の中にあった三枚のシートのうちの一枚、十八錠を一気に喉に流し込んだ。それがいけないことだということはわかっていた。
だが市販の鎮痛剤で命を落とすことはまずないだろう。十八錠程度ではオーバードーズで倒れることもまずないはずだ。
効くかどうかもわからないが、痛みが少しでも和らいでくれればそれで良かった。
痛みを堪えながら階段を降り玄関の段差を降りて家の外に出ると、外は朝日が昇りはじめていた。
雪さんはスコップを庭の土に刺し、もたれかかるように座っていた。死体はもう埋め終わったのだろう。
死体を埋める時は、犬がにおいを嗅ぎ付け掘り返してしまわないように、二メートル以上深く穴を掘らなければいけない。
彼女ならわざわざ言わなくてもちゃんとそうしただろう。
彼女は朝日を懐かしむように見上げていた。本当に懐かしいのかもしれない。
僕が考えている通りなら、今彼女の体を支配しているのは僕の妹だ。
同じ妹でも、一ヶ月前に僕の前に現れ、僕が目の前で死なせた妹ではなく、十年前のまだ逮捕もされていない中学生の頃の妹だ。
あのバックアップ用のパスワードは十年前に残されたものだからだ。
「十年ぶりか? 朝日を見るのは」
僕は雪さんの姿をした妹に訊ねた。
「わたしだって気づいてくれたの?」
妹は雪さんの顔と声で嬉しそうにしていた。どうやって説明しようかと思ってたんだけどと言った妹に、
「そりゃ気づくよ」
と僕は微笑んだ。だって僕はこの子の兄なのだ。
「お兄ちゃん、極夜って知ってる?」
「白夜の反対のことだろ」
一日中太陽が出てこない日が極夜であり、一日中太陽が出ている日が白夜だ。
地球の自転の軸が傾いていているために起きる現象で、極夜や白夜の日数は高緯度ほど多くなるらしい。
南極の昭和基地では確か約45日、南極点では約半年の極夜と白夜が続くらしい。
軸が傾いているからこそ、世界中に季節がある。傾いていなければ、日本は一年中、春や秋みたいな気温になり、四季がなくなるそうだった。
「わたしは長い長い極夜がようやく明けたって感じかな」
「お前にとってこの十年は一瞬じゃなかったわけだ」
バックアップ用のパスワードとして雪さんの中で眠り続けていた妹にとって、この十年間は冒険を中断していた勇者のようにほんの一瞬の事なのか、本当に十年ぶりなのかは僕にはわからなかったが、どうやら後者だったらしい。
「今日はもう帰ろっか、メイ」
久しぶりに名前を呼ぶと、妹は嬉しそうに僕に抱きついてきた。
家の中にはまだ、夜子さんと昼子さんの血痕が残っていた。
僕たちがいた痕跡もしっかりと残っている。妹の痕跡はその体の本来の持ち主である雪さんの痕跡にしかならないが、僕の痕跡を残すのはまずかった。
だが、今すぐ片付けなくてもいいだろう。後日また来てふたりで片付ければいい。
小島家の両親は、夜子さんに彼氏のような男がいたことまでは知らない。あくまで夜子さんのアドバイスで、雪さんのゲーム実況部屋を元々防音設備があった母親の実家の、従兄弟の夕佑くんの部屋に作ろうとしていたことになっている。
母親の実家の合鍵からさらに合鍵を作られていることも知らない。
三人のスマホさえ回収しておけば、彼女たちのご両親とLINEやメールは僕ができる。電話がかかってきても妹が雪さんの声でうまく対応すればいい。
小島家の住むマンションや母親の実家から地下鉄の駅は徒歩圏内にあった。
僕は持ってきた荷物だけあればよかったから、始発の地下鉄ですぐにでも帰りたかったが、妹は違った。
雪さんかあるいは夜子さんか昼子さんとして一度マンションに戻り、必要最低限のものをリュックか旅行バッグに入れて持ち出す必要があると言った。
シャンプーやコンディショナーをはじめ、ボディソープや洗顔ソープ、化粧水や乳液、化粧品、ドライヤーなどを取りに行きたいらしかった。ぼくのアパートの近くの薬局かコンビニで買えばと提案したが断られた。
「お兄ちゃんは相変わらず女の子のことが全然わかってないね」
男と違い女の子はそういうものに強いこだわりを持っていて、自分の肌や髪質に合ったものしか使わないのだという。
妹は長年雪さんの中にいたが、何を使っていたのかまでは記憶にないため、薬局で買うことはできないらしい。
下着や服も何着か必要だと言うから取りに帰らせるしかなかった。
小島家の両親に会うことがあれば、三人で何日か母親の実家に泊まることにしたと報告しておくと妹は言った。
僕たちは駅の出入り口で待ち合わせた。
小一時間ほど待っていると、妹はまるで海外旅行にでも行くかのような大荷物でやってきた。
通勤ラッシュ前の地下鉄はまだ客もまばらで、僕たちは並んで座ることができた。
「帰るってどこに? 雨野市?」
妹は僕たちが産まれ育った街の名を口にした。一年中曇りか雨が降り続けるその街の名前をぼくは久しぶりに聞いた気がした。
「いや、今は古戦場跡に住んでるんだ」
「え? どこそれ? なんでそんなとこに住んでるの?」
「大学がすぐ近くにあったからね。昔万博があった町だよ。家族で行ったの覚えてない?」
「それってわたしが何歳のとき?」
「確か2005年だったから、メイは四歳くらいかな」
僕は確か七歳で小学一年生だった。
「そんなちっちゃいときのこと覚えてるわけないじゃん」
妹は二一世紀の最初の年に産まれた。三歳年上の僕は、地球が滅亡すると言われていた年の前年に産まれた。
あの馬鹿馬鹿しい予言は、ほとんど創作のようなものだったらしく、騒いでいたのは日本だけで、海外では話題にすら上がっていなかったというのだから呆れた話だった。
前世紀末はパソコンや携帯電話がまだ今ほど普及していなかったため、テレビで放送されることが真実だとされていた。あの時代に青春を過ごしていた人たちに僕は同情する。
僕たちの世代もまた、パンデミックで青春を潰された人たちが数多くいるが、僕にとっては青春は謳歌するものではなく、「アクリルの向こう側」に存在するモノでしかなかったから特に被害はなかった。
妹には、万博よりもその数年後に起きた、妻を人質に取った男が拳銃を手に自宅に立て籠った事件の町と言った方がわかりやすかったかもしれない。
妹はあの事件をテレビにかじりついて寝ずに観ていたからだ。
S.W.A.T.の若い隊員がひとり射殺されたときも、妹は興奮気味に寝ていた僕に報告してきた。
今思えば、妹の中で何かが弾けたのはその事件の生中継を観ていたときだったのかもしれない。
「モリゾーとかキッコロとか覚えてない? 万博のマスコットの」
「あっ、覚えてるかも。クスリやってるか、性犯罪してるか、人を何人か殺してそうな目をした……」
たぶんモリゾーのことだとは思うが、同意することはやめておいた。
今度開催される大阪万博のコロシテ君の方がもっと危険な見た目をしているからだ。
あれはもう、ファンタジーアニメの鬱回に出てくるような、人によって作り出された人ではない悲しい何かだった。
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