第23話
その二三の言葉は、妹以外の者が口にしてもただの言葉や数字の羅列でしかなかった。
妹が辞書や小説、漫画などからランダムに抜き出した言葉や数字でしかなく、その一つ一つや順番には何の意味もない。
しかし、ひとたび妹の声で聞かされると、この世界の何もかもが怖くなり、今生きていることにすら恐怖を覚えるようになる。恐怖症と名のつくあらゆる病を発症し、雪さんのように普通に生きることが困難になってしまう。
十年前、世間を騒がせる連続殺人犯らしき存在からなんとか逃げ延びることができた雪さんの存在を知ったマスコミは、彼女から事件当日のことをしつこく聞き出そうとしたことがあった。
見知らぬ大人たちがカメラやマイクを持って彼女が住む家に押し掛け、まだ十歳の少女が恐怖に怯え悲鳴を上げる様子をテレビで流した。
まだ妹が逮捕される前のことであり、犯人は女だということが妹のシルエットを見た夜子さんや昼子さんの口から語られ、雪さんがあらゆる恐怖症を発症していることが報道された。
マスコミは妹を魔女と呼び、「魔法少女でしょ」と妹は腹を立てていた。
ドイツの伝承に、美しい歌で舟人を誘惑し破滅させるという「ローレライ」という魔女がいる。
僕の妹は歌わずとも言葉や数字を口にするだけで小さな子どもたちを恐怖の海の底に沈める魔女だった。
妹の声は録音したものでは効果がなく、生で聞いた者だけが、今生きていることへの恐怖や手足を切断される恐怖、内臓を引きずり出される恐怖、そしてこれから死に行く恐怖に苛まれ、絶望し発狂する。
最期には救いを求めて死を懇願するようになる。
妹が死を救済だと思い込んでいたのは、犯罪史に名を残した殺人犯たちの証言や著作の影響もあったが、子どもたちから懇願されたからだった。
「弘幸さんはあの人のお兄さん、なんだよね? あの人、死んだんでしょ? 弘幸くんが殺したんでしょ?」
夜子さんが言った。彼女はもう、僕に恋をする女の子の顔はしていなかった。
妹が死んだことを僕は彼女に話しただろうか。その覚えはなかった。妹の話すら僕は彼女には一度もしたことがないはずだった。
「だから、あの人の代わりにあの子やわたしたちを殺しに来たんでしょ? わたしと昼子が、あの子を助けたから。あの人の邪魔をしたから」
加藤さんのときと同じだ。彼女は僕が夏目メイの兄だと最初から知っていたのだ。
僕に抱かれたのも、僕を自宅や母親の実家であるこの家に招いたことも、すべては僕を一目につかないこの家で殺すつもりだったのだろう。
彼女を利用するつもりだった僕は、彼女が立てていた計画にまんまとはめられたのだ。
「でも、わたしの方が一枚も二枚も上手だったね」
僕の体はいつの間にか金縛りにあったかのように動かなくなっていた。
「薬が効いてきたみたい」
彼女はとても嬉しそうな顔をしていた。
「ちなみに、何の薬かな……」
口はどうにか動き、声帯も震えてくれた。だから、彼女に訊くことが出来た。
吐血はない。喉が焼けるような痛みもない。青酸カリのような致死性の高い毒ではないだろう。
睡眠薬でもない。体は動かないが頭だけは不思議なくらいはっきりしていたからだ。
考えられるとしたら筋弛緩剤だろうか。
いや、筋弛緩剤は全身麻酔にも使われている。体が動かなくなったことには説明がつくかもしれないが、あれは意識を失うから体が動かなくなる薬だ。説明がつかない。
局所麻酔だとしても、どうやって彼女はそんなものを手に入れ、首から下だけが動かなくなるよう分量を調節できたのか。僕には何もわからなかった。
わかったことは、僕の腹にはすでにナイフが刺さっていること。それだけだった。
「麻薬だよ」
部屋のドアの前に昼子さんが立っていた。二本の指で何か小さなものをつまみ、僕に見せていた。
ラムネ菓子のような円形の錠菓が土星のような輪を持っている、そんな形をしているように見えた。
「”LASD-01”。通称サターン。肉体の感覚をすべて断ち切り、脳だけを覚醒させる合成麻薬なんだって。無味無臭で水でもお茶でもコーラでも、飲み物に入れたらなんでもよく溶けるの」
道理で飲まされたことにすら気づかなかったはずだ。
「元々は『嘲ル者』が現場スタッフを強制的に笑わせるために作った合成麻薬の試作品だったんだって。新人でもちゃんとはじめての現場で笑えるようにって」
だから”LASD”というわけだ。”Laugh At Someone's Death”、人の死を笑うという意味の英語の頭文字を取ったのだろう。
会社が、先輩がそんなものをスタッフに飲ませようとしていたなんて信じられなかった。
「でも思ってた効果が全く得られなかったんだって。楽しい気持ちにはならないし、ただ脳だけが覚醒して体の感覚がなくなるゴミが出来ちゃったみたい」
「すべて廃棄処分されたはずだったみたいだけど、エリアマネージャーが何錠か持ってたの。女の子をレイプするときにちょうどいいみたい。わたしたちに何か飲ませようとしてたみたいだから、口移ししてあげて逆に飲ませて、殺して奪ったの」
ふたりはすでに人を殺していた。その効果も試していて、今日この日に使うために準備していたのだ。
完敗だった。この家にホイホイやってきてしまった時点で僕は既に負けていた。
ここは僕の「研究所」などではなく、最初から夜子さんと昼子さんの「狩り場」だったのだ。
腹にナイフを突き立てられている以上、これを抜かれれば、体を動かすことのできない僕は止血をすることも出来ず出血多量で死んでしまう。
”LASD-01”という合成麻薬の効果が一体何時間持つものなのかわからないが、数時間から半日ほど効果があるとすれば、体を動かせるようになるのは真夜中か明け方だ。
夜子さんたちが僕をいたぶりながら殺す時間は十分にある。動けるようになる頃には僕はもう死んでいるだろう。
刺される箇所も一ヵ所だけとは限らない。夜子さんだけでなく、昼子さんもナイフを持っているかもしれないし、何も知らないであろう雪さんにも持たせるかもしれない。
男性恐怖症の彼女に僕を刺させるとしたら、おそらくは僕の口に猿ぐつわをして、彼女にはスイカ割りのように目隠しをしてさせるだろう。スイカを割る季節はもう終わっていたが、ナイフではなくバットを持たせるかもしれない。
そういえば、バットは夕祐くんの部屋に残されていた。エレキギターやアンプもそのままにしてあった。彼は中学校や高校で野球をやっていたのだろうか。バンドマンだったという彼女たちの従兄弟は、東京の大学に進学する時にギターもアンプも置いて行ってしまったのだろうか。本当にこの家は彼女たちの母親の実家なのだろうか。
僕は小島三姉妹を殺し、死体を変形合体するロボットのように繋ぎあわせて飾る計画の立てていたが、どうやらその計画は頓挫するようだ。
まずは雪さんの両手足を生きたまま切断するつもりだった。
その両手足は手首と足首をさらに切断し、残った腕と脚を肘と膝で折り畳んで背中に繋ぎ直し、合体前の変形で一度分離した両手足が背中に移動したように見せる。それらがロボットのバックパックやランドセル、スラスターなどになるという設定だった。
手足を切断した際にはしっかりと止血し、痛み止めを注射する。彼女の意識がちゃんとある状態を保ちつつ、次のフェーズへ移行することが肝心だ。
雪さんの目の前で、夜子さんの首を切断し、体を左右にチェーンソーで真っ二つに切り裂く。
二つに分かれた彼女の体はしっかりと血抜きし、雪さんの新たな両腕として合体させる。足首は切断し、そこに雪さんの手首を繋ぎ合わせる。
夜子さんの半身は腕としては長すぎるため、伝説巨神や汎用人型決戦兵器のように肩のパーツが上部に大きく飛び出している形になるよう繋ぐ。
昼子さんの首や体も夜子さん同様に切断し、雪さんの新たな両脚として合体させる。
250センチ以上になる巨体を支えるためには足首から先がひとつずつでは心許ない。
そこで、雪さんと昼子さんの足首をそれぞれ繋ぎ、三方向に足首が向き安定して大地に立つことができるようにする。
雪さんの新たな腕や脚は、本来は腹部であった場所と膝であった場所の二ヶ所が関節となり、人型でありながらも関節がひとつずつ多い、虫のような異形な姿となる。
あえて切断しないでおいた腕はすべて背面にくるようにし、両手足にひとつずつ予備の腕がついている形にする。
予備を含めた六本の腕には、それぞれ違う武器を持たせる。オモチャの「ライトセーバー」や「キャプテンアメリカの盾」といった有名どころから、「火縄大橙DJ銃」や「シンゴウアックス」といった特撮好きにしかわからないような武器も持たせるつもりだった。
切断したふたりの頭部は、一卵性の三つ子のシンクロニシティを利用した有線式のガンビットだ。
HDMIコードで雪さんの頭に繋ぎ、彼女の脳波に反応し動かすことができる強力なビーム兵器にもなるだけでなく、夜子さんと昼子さんは首だけになりながらも生きていて、自ら彼女を守る自動防御・自動迎撃システムにもなる。
最高最強絶対無敵の三体合体ロボットならぬ三姉妹合体ロボットの完成だ。
それを作ることが出来ないのはとても残念だった。
すべてを諦めかけたその時、昼子さんの首から血しぶきが舞った。
彼女の首を切ったのは、雪さんだった。
その手にはカッターナイフが握られていた。刃が折れたのか、チチチチと次の刃を出す音が聞こえた。
「雪……どうして……」
雪さんは彼女の問いには答えず、踊るように崩れ落ちていく昼子さんの体をぼんやりと見下ろしながら、何かを呟いていた。
「非常階段、承認、マシンガン、龍のアギト、39、摩天楼、深淵、」
それは妹が教えた言葉や数字の羅列だった。
「ヨモツヘグリ、極寒、ペルセポネ、59、正則行列、冷血、防波堤、」
彼女の目は虚ろで、自分が何をしたのかさえわかっていないようだった。
「雪、あんた何をしたかわかっ……」
雪さんが投げたカッターナイフが夜子さんの喉元にブスリと突き刺さり、彼女はそれ以上言葉を発することができなくなった。
何かを言おうとしていたが、「がっ」「ぎっ」という声が出るだけで言葉にはならず、その度に「ひゅー、ひゅー」という笛のような音が喉元から発せられるだけだった。
「レキシ、20、黒の匣、向日葵、ピノア、21、オルフィレウス、」
なぜ彼女は自分の人生を滅茶苦茶にした呪いのような言葉や数字を紡ぐのだろう。
――よくわからないけど、何かに怯えてる時、あの子が必ず口にする言葉があるの」
夜子さんが先ほどそう言っていたのを僕は思い出す。
よくよく考えてみれば、それはおかしかった。あれは妹が子どもたちを恐怖の海の底に沈めるために口にした言葉だ。
夜子さんの言ったことが本当なら、雪さんはこの十年間、妹に沈められた恐怖の海の底で、何百回何千回と同じ言葉と数字を繰り返し紡いでいたことになる。
それは魔女と呼ばれた妹の声でなければ何の効果もないものだった。
彼女が口にしたところで、呪いの効果が増すわけでもなければ、ましてや恐怖を払うことなどできるはずもない。
その行為に一体何の意味があるというのだろう。誰かにそうしろと言われたのだろうか。
言った者がいるとしたら、それは僕の妹だ。
「安全柵、アリステラ」
ニ三個言い終えた雪さんは、
「ヤソマガツヒ、タマガエシ、56、コスモス、ソロモンの印、81、」
僕さえも知らない言葉や数字を紡ぎ始めた。
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