歪な憧憬
石衣くもん
歪な憧憬
「あなたは間違ってる、だって私の方が正しいんだから」
ヒステリックな叫びを父に浴びせた母は、何も言わない父を残して二階に駆け上がり、寝室に閉じ籠った。私は帰宅早々、見慣れた光景にうんざりしながら
「ただいま」
と、むっつり座っている父に声をかけた。父は微動だにせず、
「ん」
なんて、返事かどうか怪しい音を漏らすだけだった。相変わらず、この人は事態を悪化も好転もさせるつもりはないらしく、いつも通りぼんやりとテレビを見ているつもりらしかった。
心の中で嘆息して、疲れた身体に鞭を打って二階へ上がる。仕事から疲れて帰って来て、もうひと仕事あるなんて。しかもこちらは賃金は発生しないのに、普段面倒だと思うクレーム対応が涙が出るくらい簡単に思える程、面倒くさい。
「母さん、入るよ」
寝室の扉を開けると、電気もつけずに真っ暗な空間から啜り泣く声が聞こえて、今度は口から溜め息が漏れてしまった。
「もう、またいつものことでしょ。いい加減気にしすぎだよ」
明かりをつければ、ベッドの上でうつ伏せになっている母が、待ってましたとばかりに、がばりと起き上がり、
「だってあの人、酷いこと言ったのよ! 私は悪くない、あの人が悪いんだから!」
と叫んで、再び全身で突っ伏した。
そんな母を宥めすかして、今回の事件の全貌を確認したところ、夕飯で新しいメニューに挑戦した母が、上手くできたと思いながら父に
「どう? おいしい?」
と聞いたら、父が
「ちょっと薄いな」
と、答えたらしい。これに似た事件はかれこれ両手両足の指で足りない程起こっている。
母の言い分としては、家族のためにおいしいご飯を作っている自分に労いの言葉がないどころか、悪く言ってくるなんておかしい、間違っている。だから自分の方が正しい。母が善、父が悪、ということらしい。
「そっか、そうだね、いつもありがとうね」
この言葉を使う時は、棒読みにならず、さらに大袈裟に言い過ぎて嘘っぽくならないことが重要だ。間違っても、確かに父も考えなしだが、何度言っても同じ結果にしかならないのをわかっていて質問した母さんも悪いよ、なんて喧嘩両成敗スタイルはいけない。長引く。
漸く母の機嫌が直ったのは、日付が変わって一時間くらい経ってからだった。
「じゃ、私そろそろお風呂入って寝るから」
この撤退の時期も間違えば、
「あんたも母さんのこと蔑ろにする! そんな悪い子に育てた覚えはない!」
と、収まりかけた事態が形を変えて噴出したり、
「そうよ、あの時も、あの時も、やっぱり父さんが悪かった、私は正しかったのに」
と、違う不満が再燃したりと収束までに時間がかかってしまうから、速やかに自室へ戻るのが吉なのだ。
お風呂に入って、自室の布団に寝転がりながら、丹羽さんへの返信の言葉を考えていた。
丹羽さんは会社の上司で、男性、妻子持ち、そして、にもかかわらず私がお付き合いをしている人だった。
「明日は外回りから直帰だから、一緒に食事どう? 魚が美味い店を見つけたんだ」
ご飯のお誘い。ひいては、食後の運動のお誘いだ。
「お魚ですか、楽しみです」
あっさりした女に見えるように指先を動かし、まばたきもせずに返信する。
本当は連絡がきた瞬間に内容を確認して、飛び上がるくらいに喜んだ癖に、それを悟られないようにわざと時間を置いた。
都合のいい女でいたい、というのは自分自身に言い聞かせている言い訳だ。
重すぎず、それでいて誘いには最後には乗ってくる、そんな都合のいい女でいれば、彼は私に目を向けてくれる。
重い女はいけない。これは母を見てきた上で学んだ反面教師なのかもしれない。
▼▼▼
「重くて疲れるんだよね、あの人」
それが丹羽さんと私の共通の話題であった。私は母が、彼は奥さんが。
昨日の母の話を丹羽さんに聞かせながら、
「本当、ああはなりたくないと思います。自分の努力は認められて当然みたいな」
結果は伴っていないのに、なんて膿んでいた不満をぶつければ、彼は頷いて
「わかる、うちの妻もそういうスタンスなんだよね。でも、意味のない努力は努力じゃないからね」
「え?」
半笑いで彼は、彼の奥さんを、奥さんの努力を詰った。
私に対する牽制兼パフォーマンスのつもりだったのかもしれない。こんなに重い奥さんに辟易としているから、引き続き、お前は都合の良い、軽い女でいてくれたら傍にいてやるという。
続けて彼は、名言でも言っているような口調で
「いや、もちろん努力は必要だよ? よく言うじゃない、努力したら報われるとは限らないが努力しないと報われないって」
と言った。
「……奥様の努力は報われない努力だってこと?」
思わず、普段彼の前では出したことのない低い声が出て、彼も、そして私も驚いた。
「え、何か怒ってる?」
「……いえ、奥様の話はやっぱりちょっと嫉妬してしまうみたい」
ぎこちない誤魔化し方だったが、彼は納得したようで
「ごめん、無神経だったね。もうしないよ」
と言いながら、私を押し倒した。
私は、目を閉じて彼を受け入れたが、情事の最中も彼の言葉が頭から離れなかった。
▼▼▼
本当はわかっていたのだ。
母がどんなに重たくて面倒くさくても、父に愛されている。だからこそ、どんな理不尽を言っても父は母から離れていかない。母もそう、父のことを悪い悪いと言いながら離れないのは、紛れもなく愛している、愛しあっているから。
そしてそれは、丹羽さんもだ。散々私に軽さを求めるのは、奥さんが重いからだと言った。それでも、結局離れないということは、その重さごと愛しているのだ。
自分はああなりたくない、こうなりたくないと思う反面、そんな人たちなのに
こんなものに、憧憬を抱くこと自体が惨めだった。自分には、本物はおろか、そんな歪なそれすら欲しがっても手に入れられないなんて。
それを、認めたくなかった。
「意味のない努力は努力じゃないからね」
鉛のようにずっしりと刺さった彼の言葉。私のあなたへの思いは、まさしく意味のない努力だった。
「今さら、どうしたらいいの」
想像上の彼の奥さんよりも、私が知る限りの中で重い女代表の母よりも、比べ物にならないくらい私の方が重かった。
自分の重さに、押し潰されそうになるくらいに。
だけど、私には母や彼の奥さんと違って、その
こうして、暗い部屋でベッドの上にうつ伏せで泣いても、私には明かりをつけて慰めてくれる人はいないのだから。
歪な憧憬 石衣くもん @sekikumon
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます