三、出来損ないの花嫁

 凪が湯玄の元に向かう日も、空からは雪が舞い降りていた。

 昨夜は最後の奉公と思い、椿屋自慢の檜できた露天風呂を隅から隅まで磨き上げた。

 硫黄が含まれている温泉は、檜にこびり付いてぬるぬるしてしまう。それをたわしで檜を傷つけないよう、丁寧に落としていくのだ。

 真っ暗な闇の中、雪が植えられている椿の花にそっと落ちる音さえ聞こえてきそうな静けさ。凪が大きく息を吐くと、白い煙となる。こうやって、凪は幼い頃から椿屋を両親と共に支えてきたのだ。

 しかし、それも今日まで……。そう思えば、目頭が熱くなる。慌てて鼻をすすっても、涙は凪の意思と関係なく溢れ出してきた。

 凪の涙が湯船に落ち、お湯と共に流れていく。

「今までありがとう」

 そっと呟いてからもう一度涙を拭い、雑念を振り払うように掃除に没頭したのだった。



 空から降り続ける雪と同じ真っ白な白無垢に腕を通した凪は、鏡に映る自分を見て思わず息を呑む。

 凪は自分が容姿に恵まれているという自覚はあったが、ここまで美しくなるとは想像もしていなかった。体の隅々まで採寸したおかげで、白無垢は凪にぴったりだ。しかし、幾重にも重ねられた着物に、きつく結ばれた帯。その苦しさに思わず眉を顰めた。

「これ、長くは着てられねぇ……」

 息苦しくて、呼吸が浅くなってきてしまう。凪はぐっとお腹を引っ込めて、その苦しさに何とか耐えた。

 凪が花嫁に志願してから時間があまりなかったため、髪を伸ばすことができなかったことが心残りである。銀色の髪は少年にしては長いが、頭のてっぺんで髪を結わうことなんてできない。 

 綿帽子を被ってしまえば髪型などわからないのだが、やはり女のように長い髪が湯玄は好きなような気がするのだ。

 それを悟った母親が、凪の両耳に姫椿の花を挿してくれた。白無垢と、雪のように白い凪の肌に、姫椿の長春色がとてもよく映える。

 薄く化粧を施され、椿と同じ色の口紅をさした凪を見た村人たちは思わず溜息を吐く。花嫁衣装に身を包んだ凪は、それ程までに美しかった。

「綺麗だぞ。これならたとえ男だとしても、湯玄様は必ず気に入ってくれるだろう。頼んだぞ、凪」

 そう言いながら満足そうに微笑む長老が、静かに凪の肩を叩く。それが恥ずかしくて、思わず視線を落とした。

「お前は口が悪いから、それだけは気を付けるんだぞ?」

「おい、長老。一言余計なんだよ?」

「言うとる傍からお前は……はぁ……」

 長老が凪を見つめながら大きな溜息を吐く。

 そんなことはわかりきっている凪は、気を付けようとは思ってはいる。しかしこの口調はいつの間にやら身についてしまっていて、今更どうにかなるものだろうか……と不安に感じているのだ。

「湯玄様に気に入ってもらえるかな……」

 凪は鏡に映る自分をもう一度見つめる。そこには紺碧色の大きな瞳を揺らしながら佇む花嫁が立っていた。

 その花嫁は、好きな男の元へと嫁いでいくはずなのに、なぜかとても不安そうに見える。

「大丈夫、十分綺麗だよ。頑張れ、凪」

 そう自分の心に、何度も言い聞かせたのだった。


 ◇◆◇◆


 出発の時間は、空が茜色に染まった頃だった。

 凪が椿屋から出てきた瞬間、割れんばかりの拍手に包まれる。店先には凪を一目見ようと大勢の人々が集まっていた。

「あれが凪か……本当に女のように美しい」

「どうか、源泉がまた復活しますように」

 ぶつぶつと何かを唱えながら、凪を拝む者さえいる。その異様な光景に、凪は圧倒された。

 湯花神社に向かうための籠を目の前にした凪の体が、凍り付いたように動かなくなってしまう。未練たらしく振り向けば、両親と祖母が目元を覆いながらこちらを見ていた。

「当分、この景色を見ることはないんだな……」

 父親は立っているのもやっとなのに、凪を見送るために無理をして起きてきたのだろう。あんなに逞しかった父親が今は小さく見える。

 優しかった母親と祖母。泣くのを堪えているのがわかってしまい、胸が締め付けられるように痛む。それでも笑って凪を送り出そうとしてくれる姿に、強い愛情を感じた。

「いってきます」

「いってらっしゃい。体に気をつけてな」

 枯れ枝のように細い腕を静かに振る父親に、凪の頬を涙が伝う。せっかくしてもらった化粧が落ちてしまうと、凪は奥歯をギュッと噛み締める。

 そして思った。この景色を忘れたくなんてない。

 生まれ育った椿屋も、村の真ん中を流れる温泉も、店先で可愛らしい花をつける姫椿も。その全てを目と心に焼き付けて、決して忘れることのないように……。

 最後ににっこりと微笑んで見せてから、用意された豪華な籠に乗り込んだのだった。


 

 凪はこのとき人生で初めて籠に乗った。出発してから、あまりにも揺れることにびっくりしてしまう。そもそも幼い頃から歩いて遊びに行っていた湯花神社に、見たこともないような煌びやかな籠に乗って出向くのだ。

 さすがに白無垢を着て歩くことはできないが、あまりにも仰々しい扱いに恥ずかしくなってしまう。今まで元気いっぱいに野山を駆け回っていた凪にとって、生まれて初めての体験が続いて、全身から力を抜くことができない。

 普段なら「わー!」と大声を上げて頭を掻きむしるところだが、そんなこともできるはずがない。白無垢の帯は苦しいし、顔に塗られた白粉のせいで呼吸が苦しいような気もしてくる。

「花嫁って大変なんだな」

 籠に揺られながら、凪は小さな窓からそっと外を覗き見る。いつの間にか日は沈んで、辺りは真っ暗になっていた。

 硫黄の香りがどんどん強くなってきているから、きっと湯花神社までそう遠くはないはずだ。籠を担ぐ男たちが持つ提灯以外の明かりはなく、怖いほどの暗闇の中温泉が勢いよく滝壺へと落ちていく音が響き渡る。

 そんな中、空に浮かぶ満月が優しく地上を照らしてくれており、凪はそっと胸を撫で下ろした。

 湯花神社の鳥居をくぐった瞬間、「ワオーン!」という獣のような鳴き声が聞こえたような気がして、凪は息を呑む。

 ――もしかしたら、狛犬たちが俺を迎えに来てくれたのかもしれない。

 鼓動が少しずつ速くなって、今すぐに籠の中から飛び出したい衝動を必死に堪える。

 あんなに椿屋を離れることが寂しかったのに、今はもう一度湯玄に会えることが嬉しくて仕方がない。同時に、強い不安にも襲われた。

 ――俺は湯玄様に気に入ってもらえるだろうか?

 一度そんなことを考え出してしまえば、どんどん深みにはまってしまい不安が津波のように押し寄せてきた。

「凪、着いたぞ。さぁ、降りるんだ」

「……え?」

「湯花神社に着いた。俺達はこれで村に戻るから、凪はこのまま本殿にいるんだ。きっと湯玄様が迎えにきてくれる」

「ここで待っていれば、湯玄様は本当に来てくれるのか?」

「あぁ。湯滝村に古くから伝わる話によれば、湯玄様は満月の夜に白無垢に身を包んだ花嫁を、この本殿に迎えに来るとされている」

 本当に湯玄が自分を迎えにきてくるのかと心配になった凪が籠の窓から顔を出すと、籠をここまで運んでくれた男がそう教えてくれる。籠を担ぐくらいだから、逞しい体つきをしていた。

 この男たちが帰れば、自分は本当に一人になってしまう……凪は途端に強い恐怖に襲われ、体中の体温が一瞬で奪われていく。

「じゃあ、行くからな。一つだけ提灯を置いていく」

「凪、よろしく頼んだぞ」

「……うん、ここまで連れてきてくれてありがとう」

 男たちが深々と凪に頭を下げる。「行かないで」、そう喉まで出かかった言葉をなんとか呑み込んだ。

 籠から降りた凪は神社の本殿へと向かう。一寸先さえも見えないような暗闇を、心もとない提灯の明かりが照らし出した。

 漆黒の世界に滝の音……強い恐怖が凪を襲い、踏み出す足が震え少し力を抜くだけで膝が折れそうになった。

「よし、行くぞ」

 凪は深く深呼吸してから湯花神社の扉を開ける。ギギッと重たい音と同時に神社の扉は開き、身を裂くほど冷たい空気が吹き抜けてきた。

「こんな寒くて寂しい所に、巫女はずっと一人でいたのか……」

 凪の胸は熱くなり、引きちぎれんばかりに痛む。

「ん? なんだ?」

 次の瞬間、背後で何者かの気配を感じた凪は、体が凍り付いてしまったかのように動かなくなってしまった。気配だけではない。何かが自分に向かって近寄ってくる音もする。それも足音はひとつだけではなく複数だ。

 体は凍り付いてしまう程冷たいのに、嫌な汗がじわっと額に滲む。呼吸が浅くなって息が上手くできない。

 こんな時間に湯花神社に参拝客などいるはずもない。では湯玄だろうか? いや、凪はまだ神社の入り口に足を踏み入れただけで、本殿には辿り着いていない。

 では一体誰だ……?

 恐怖から体が震えて、息苦しくて肩で呼吸をする。逃げ出したくとも足に根が生えてしまったかのように、身動きをとることができない。体を縮こまらせて唇を噛み締めた。

「ワオーン、ワオーン」

「……え……?」

 聞き覚えのある声に凪が恐る恐る振り返ると、そこには炎のように真っ赤な色の獣と、空のように真っ青な獣が凪のほうを見つめて立っている。

「お前たちはあの時の狛犬……俺のことを迎えに来てくれたのか?」

 凪が嬉しくなって狛犬たちの元に歩み寄ろうとすると、びっくりしたように逃げ出してしまった。

「あ、待ってよ!」

 咄嗟に追いかけようとしたけれど、白無垢を着ている凪は自由に体を動かすことさえできない。そもそも、こんなに綺麗に着付けて貰った白無垢が、はだけてしまったら元も子もない。

 それでも、遠くなっていきそうな存在を、今の凪は追いかけたくてしかたがなかった。それほどまでに心細かったのだ。

「どこに行くの? 待ってよ!」

 凪は白無垢の裾を踏まないようにたくし上げて、二匹の狛犬の後を追いかけたのだった。


 ◇◆◇◆


 急な坂道を白無垢姿のまま上ることは困難を極めた。

 頭に被った綿帽子は重たいし、普段から高級な着物など着慣れていない凪にしてみたら、立派な白無垢は邪魔にしか感じられない。

「はぁ、はぁ……あいつら、また源泉に行くのかな……」

 滝を横目に、息を切らしながらようやく坂を上がりきると、目の前には見慣れた源泉が広がっているはずだったのに……凪は目の前の光景に思わず目を見開いた。

「すげぇ……」

 湯滝村を流れる温泉は真っ青な空のような色だが、その源泉から湧き出る温泉が、満月の光に照らされてキラキラと輝いていたのだ。あまりにも神秘的な光景に、凪は溜息を吐く。夜の源泉がこんなにも美しいなんて、凪は知らなかった。

「綺麗だ……」

 そのあまりの美しさに凪の心は熱く震えた。

 もっと近くで見てみたい……そう思った時、源泉の水面が大きく波打ち始める。「なんだ?」と思う暇もなく、雷が落ちたかのような音と共に、地面が揺れ動く。次の瞬間物凄い量の湯気と共に温泉が飛沫を上げて空へと駆け上った。

 ――これが間欠泉か……。

 凪の両親や祖母から、一人で源泉に行ってはいけないと口を酸っぱくして言われ続けた理由が、今になってわかった。

 間欠泉は囂々と耳をつんざくような音をたてながら、飛沫を上げ続ける。恐らく高温の温泉が噴き出しているのだろう。

 次の瞬間、凪の周りは息さえできないほどの熱気にあっという間に包まれていった。

「ヤバ……! あつ……っ!」

 あまりにも予想外の出来事に、凪は死さえも予感する。最後の最後まで考えの甘い自分を呪ってしまった。

 湯煙で一瞬目の前が真っ白になり、何も見えなくなってしまう。その光景は、幼い頃源泉に落ちたときととても似ていて……凪は固く目を閉じた。

 全身から力が抜けていき、ガクンと膝が折れる。白無垢が汚れちまう……と頭の片隅で思ったが、意識は薄れ、凪の目の前が今度は真っ暗になった。



 次の瞬間、体がふわりと浮き上がり、温かなものに受け止められる。

 ――あ、この感覚……。懐かしい……。

 それは凪がずっと忘れることができなかった温もりと、逞しい腕だった。

「私の花嫁が、危ないところだったではないか。怪我はないか? ……ん?」

 懐かしい声に凪はうっすらと目を開けたけれど、まだ少しだけ頭がぼんやりとした。

「なんだ、其方……男か? それにまだ子供ではないか?」

「……湯玄……様……」

「それにその顔には見覚えが……そうか、源泉に落ちそうになったところを私が助けた子供だろう? なんで其方がこんなところにいるのだ?」

「そ、それは……」

 怪訝そうな顔をしながら自分を睨みつけてくる湯玄の視線が痛くて、凪は思わず顔を背けた。こんな雰囲気では、本当のことを言い出せるはずなんてない。

「いいから答えろ。なぜ其方がここにいる。ん? まさか……」

 答えに窮していた凪だったが、何か勘付いたらしい湯玄。今隠していたって、いずれ話さなければならないことではあるし、そもそも格好から、隠し切れるものではなかった。凪は思い切って口を開く。

「そう、そのまさかだよ。俺が花嫁だ!」

「なんだと?」

 湯玄の片頬がぴくッと吊り上がる。明らかに怒気を含んだ声色に、思わず全身に力が入り喉がひゅっと鳴った。

「俺、昔あんたに助けられたときに、あんたに一目惚れしちまった。だから俺は自ら花嫁に志願したんだ。確かに俺は男だけれど……でもほら見ろよ! 俺は女みたいに綺麗な顔をしているだろう?」

「一目惚れだと?」

「そうだ! わ、悪いかよ⁉」

「ついさっきまで寝小便をしていた子供が、惚れただなんて、簡単に口にするもんじゃないぞ。いいから帰れ帰れ」

 大きく息を吐きながら凪を地面へと下ろそうとするものだから、そうはさせまいと凪も湯玄にしがみつく。

「確かに俺は子供かもしれないけど、本気なんだ! 俺はあんたにずっと会いたかった……!」

 目頭が熱くなって目の前が涙で揺れたから、凪は白無垢の袖で涙をそっと拭う。

「それに、俺はあんたの嫁になって湯滝村を、椿屋を救いたいんだ」

 拭っても涙が溢れ出してしまい、静かに凪の頬を伝う。凪は夢中で湯玄の着物の襟首を掴んだ。あの日と全く変わることのない美しい姿に、凪の胸が熱くなる。

「お願いだ。俺を花嫁として受けいれてほしい。あんたの嫁にしてほしい。お願いだ……湯玄様……」

 はらはらと涙を流しながら凪は湯玄を見上げる。その漆のように真っ黒な湯玄の瞳に、吸い込まれそうになってしまった。

 ――やっぱり、湯玄様は本当に綺麗だ。

 ぼんやりとそう思ったとき、頬に柔らかいものがそっと触れる感覚に凪は目を見開く。

「え?」

 凪の頬に触れたものは温かくて、とても柔らかい……。まるで真綿が頬に触れたようだった。

 その柔らかなものの正体が湯玄の唇だとわかった瞬間、弱い雷に打たれたかのような電流が全身を駆け抜けていく。凪は慌てて頬を自分の手で押さえた。

 湯玄は凪の頬を流れる涙を、唇で掬ってくれたのだ。

「確かに、其方は美しく成長した。今まで出会ってきた花嫁の娘たちに比べても、一番美しいだろう」

「じゃ、じゃあ⁉」

「でも、其方は男で、私は女が好きだ」

「はぁ!? なんだよ、それ⁉ 美人なら男も女も関係ないだろう⁉」

「関係あるに決まっているだろう? だいたい私は、子供には興味がない」

 吐き捨てるかのように呟く湯玄の言葉に、凪の体が小刻みに震え出した。こんな言葉を投げつけられるなんて覚悟はしていたけれど……それでも、恥ずかしくて悔しくて、顔から火が出そうになる。

 悔しくて仕方がないのに、湯玄を弱々しく睨み返すことしか凪にはできなかった。

 湯玄は凪を抱き抱えたまま、源泉から少し離れた安全な場所へと連れて行ってくれる。そっと地面に下ろされた凪は、湯玄がどこかに行ってしまわないよう思わず湯玄の着物の袖を掴んだ。

 それを見た湯玄が口の端を吊り上げる。

「しかし……其方は本当に美しい。白無垢もとても似合っている。可愛らしいぞ」

「じゃ、じゃあ、なんで……」

「だから、あと四年待ってやる」

「あと、四年……?」

「そうだ。四年後、お前が俺を唸らせるくらい美しく成長していたら……その時には考えてやる」

「嫌だ! 俺は今あんたの嫁になりたいんだ! 四年なんて待てねぇ! そんなに待っていたら、源泉が干からびちまう……」

 凪が無我夢中で湯玄にしがみつくと、「不本意だ」と言いそうな顔つきで、それでも凪をそっと抱き締めてくれた。

「いいから出直してこい。とっておきの美人に成長して……」

「嫌だ! 俺は今日あんたの嫁になる! 床入りだって、上手くやってみせるから!」

「子供が生意気な口を……。お前のような子供に、私が欲情できるとでも思ったのか?」

 湯玄の呆れたような声が耳元に響く。

「其方名前は?」

「凪だ」

「わかった、凪よ。其方にこれを授けよう」

「なんだよ、これ……」

 凪は湯玄から手渡されたものを見て、眉間に皺を寄せる。湯玄に渡されたものは、なんの変哲もなさそうな、ただの石だった。

 その石は緋色をしていて、凪の手にすっぽりと納まるほどの大きさだ。表面は磨かれたように滑らかだが、特別な石には見えない。

 こんな石と引き換えに、大人しく引き下がれというのだろうか? 馬鹿にされたような気がして、凪は頭に血が上ってしまった。

「まぁそんなに怒るな。これは湯石ふとうしといって、温泉の効能をより高める効果があるとされている。更に私の神力も込めておいたから、効果は更に期待できるだろう」

「湯石……」

「この湯石があれば、あと四年はこの源泉は持ち堪えられるはずだ」

「あ……」

 湯玄は何の考えもなしに、ただ男であり子供でもある自分を追い返そうと躍起になっているのだと思っていた凪は、恥ずかしくなってしまう。湯玄も湯滝村のことを考えてくれていたのだ。

「ごめんなさい、湯玄様」

 凪は感情の赴くまま湯の神と崇めれている湯玄に、失礼な態度をとってしまったことを深く後悔した。ここに来る前に「口のきき方には気を付けろ」と注意されたばかりだったのに……。自分の不甲斐なさに心底嫌気がさした。

「本当にごめんなさい、湯玄様」

 凪は深々と頭を下げ、先程湯玄から受け取った湯石をそっと両手に包み込む。凪が頭を垂れた瞬間、綿帽子についていた飾りがシャラッと音をたてて静かに揺れた。

「ほう……」

「え? なんだこれ」

 凪の手の中になった湯石が、赤い光を放ちながらどんどん熱を帯び始める。それは手では持っていられない程の高温になっていた。

「光ってる……それに熱い! なんなんだこの石は」

「これはこれは……。其方は狛犬が獅子に見えたり、湯石に変化をもたらしたり。実に不思議な力を持っている」

 それを見た湯玄が、満足そうに目を細めた。

「いいか、凪、もっと美しくなれ。私が欲しいと思うくらいに」

「あ、待って! 行かないで。俺も連れて行って」

「また会おう、凪」

「待ってってば!」

 湯玄の体が空色の光に包まれ、少しずつ薄くなっていく。

 ――消えちゃう……。

 そう思った凪は、咄嗟に湯玄との距離を詰めたがその体に触れることはもうできなかった。まるで霞みたいだ……そんな湯玄を見て凪は思う。

 穏やかな笑みを浮かべながら、湯玄は湯気のように消え去ってしまったのだった。 


 

 凪が気付いたときには湯花神社の神殿に立ちすくんでいた。

 湯玄の温もりを確かに覚えているのに、そこに湯玄はいない。ただ、滝が流れ落ちる音だけが神殿の中に響き渡っていた。

「夢……? だったのか……?」

 辺りを見渡しながらぽつりと呟く。提灯の心もとない明かりが照らす室内は、ひどく寂しく見えた。

「あ、これ……」

 その時、凪は自分が何かを握り締めていることに気付く。そっと手のひらを開いてそれを確認すると、湯玄がくれた湯石だった。

 あんなに熱かった石が、今は氷のように冷たいし、赤い光も放っていない。湯石を見た凪は、湯玄と再会したことが夢ではなかったことを確信した。

「一体これからどうしたらいいんだろう……椿屋に帰りたい……」

 全身から一気に力が抜けた凪は、その場にぐずぐずと座り込む。ここに来る前に、母親が髪に刺してくれた姫椿の花が、音もなく床に落ちた。それを見た凪は、無性に悲しくなってしまう。

 それでも、途方に暮れた凪は泣きながら家路についた。

 湯玄に追い返された息子を、両親たちはどう思うだろうか? もしかしたら「恥知らずが!」と勘当されてしまうかもしれない。想像しただけで怖くなってしまい、椿屋が近付くにつれてどんどん足取りが重たくなっていく。汚れてしまった白無垢を引き摺るように、椿屋の暖簾をくぐった凪を、両親と祖母は優しく出迎えてくれた。

「凪、村の為によく頑張ったね」

 そう言いながら自分を抱き締めてくれる母親の腕の中で、凪は全身の力が抜けていくのを感じる。

 ――よかった、俺には帰る場所があったんだ。

 安堵した凪の瞳から、次から次へと涙が溢れ出した。

「ごめんなさい。俺、湯玄様に気に入ってもらえなかった」

「いいのよ。凪はみんなの為にこんなに頑張ってくれんだから」

「ごめんなさい……」

 緊張の糸がこと切れてしまい、立っていられなくなってしまった凪は、母親に体を預けるように寄りかかる。ついには立っていられなくなり、床に倒れ込んでしまった。

「凪! 凪! 大丈夫か?」

 心配そうに凪の頬を撫でてくれる父親の顔が、少しずつぼやけて見えなく なっていく。

 ――ごめん、父さん。俺、父さんの病気を治してやれなかった。

 そう伝えたかったけれど言葉にすることができないまま、凪は意識を手放したのだった。



 さらに月日は流れ、凪は十七歳になった。

 大人へと成長した凪はあどけなさがなくなり、美しい青年へと成長したのだった。きっと、今なら「子供だから」という理由で、湯玄に追い返されることはないだろう。

「湯玄様、俺十七歳になったよ。あんたは俺を、欲しいと思ってくれるのか……?」

 湯玄からもらった湯石を握り締めて、凪はそっと湯花神社を見つめた。


 ◇◆◇◆


「よぉ、凪。湯玄様は迎えに来てくれそうか?」

「はぁ? あんたまだそんなこと言ってんの? さすが年寄りはしつこいな」

「そんなんだから、湯玄様に追い返されるんだよ。出来損ないの花嫁が。自分から志願したくせに、お粗末な結果だったよな」

「うるせぇな。俺の魅力がわからないなんて、湯玄様もたいしたことがねぇんだよ。いいから黙って消えな」

 湯玄への嫁入りが失敗して以来、凪は村人から「出来損ないの花嫁」と陰口を叩かれるようになる。はじめのうちは、そんな言葉にいちいち目くじらをたてていたけれど、何年もそんなことを言われ続けていると、「そう言われても仕方がない」と諦めの気持ちのほうが大きくなってきてしまった。

 それも仕方のないことだ。あんなに立派な白無垢をあしらってもらい、盛大に送り出されたにも関わらず、凪は追い返されてしまったのだから。

 あの日、両親と祖母が温かく家へと迎えてくれたことが、凪にとって唯一の救いだった。

 湯玄の花嫁となろうと白無垢を着た日のことを凪は一日だって忘れたことはない。それはいい思い出、としてではなく、苦い思い出として凪の脳裏に焼き付いているのだ。

 凪の姿を見かければ、村人たちは口々に「出来損ないの花嫁だ」と後ろ指を指す。凪が聞こえないフリをしてその場を立ち去ろうとすれば、「この村の源泉が枯れたらお前のせいだからな!」と見知らぬ者から、突然罵声を浴びせられたこともある。

 悔しくて、悲しくて……凪は泣きながら椿屋へと向かったのだった。

 こんな屈辱を味わったのは生まれて初めてだった凪は、いつしか湯玄を恨むようになる。

 ――よくも俺をこんな目にあわせてくれたな……。

 凪は血が滲むほどに強く拳を握り締めたが、そっと力を抜く。そんな風に湯玄を心の底から恨むことができたならば、どんなに楽だろうか。でも凪にはそれができなかった。

 あの憎たらしいほど綺麗な容姿も、温かくて逞しい腕も。傲慢なくせに優しいところも……。凪は何年たっても忘れることなんてできない。初恋の灯は、凪の心の中でいつまでも燻り続けているのだ。

「畜生。畜生……!」

 湯玄を憎みきれない自分が情けなくて、目頭が熱くなった。



 凪が湯玄の花嫁になることができず椿屋に戻った直後から、次の花嫁の話で村中は持ちきりとなっている。しかし花嫁に志願する娘なんていないし、「是非自分の娘を花嫁に……」という親もいない。新しい花嫁が決まらないまま、月日だけが過ぎていく。

 だからと言って、湯玄が凪を迎えに来ることもなかった。

 十七歳になった凪が、一人で源泉に行っても叱る大人はもういない。凪は湯玄への未練と比例するように、湯花神社へと足を運ぶようになった。

 源泉の湯は更に減り、今は池のようになってしまっている。源泉から落ちる滝も細くなり、以前のような勢いもない。その光景を見ると、凪の心が締め付けられるように痛んだ。

 ――俺が花嫁としての責任を果たせなかったからだ。

 どうしても、そう自分を責めてしまう。

 しかし、凪が源泉にくると湯玄からもらった湯石が赤く光り、徐々に熱を帯びていくのだ。その瞬間、源泉から湧き出す温泉の量が僅かに増える。それはほんの少しの変化だけれど、凪には救いのように感じられた。

「まだ大丈夫。この源泉は枯れていない」

 そう自分に言い聞かせるように呟く。

 空からは白い粉雪が静かに舞い落ちてきて、源泉の湯気で音もなく消えていった。


 ◇◆◇◆


「ん? なんだ?」

 湯花神社の帰り道、一際賑わう店に凪は思わず足を止める。

「確かあの店は……」

 そこは湯滝村で一番格の高い遊女が在籍する遊郭だった。その店にいる遊女は見た目が美しく品があると、わざわざ遠方からこの遊郭目当てに訪れる者さえいるほどだ。凪に「床入り」の方法を教えてくれた遊女も、この店にいる。

 この騒ぎの原因は、どうやら店先にたむろしている遊女たちにあるようだった。こんなことは滅多にないものだから、凪は「なんだ?」とつい耳を澄ませてしまう。もうすぐ開店する時間だから、客相手に騒いでいるのだろうか? いや、それにしては賑やか過ぎる。

 ――なんだろう。嫌な予感がする。

 凪は胸騒ぎを思えた。

「旦那、とっても素敵だね。あたいと今夜どうだい? 奮発するよ」

「なに言ってんだい⁉ ねぇ、あたいのほうが若くて綺麗だろう? あたいを選んでよ」

「あたいはどうだい? 旦那、とってもいい男だから惚れちまいそうだよ」

 その光景を興味本位で眺めていると、一人の長身の男を遊女たちが取り合っているようだ。どの遊女も目をきらきらと輝かせて、甘ったるい声を出している。その姿はまるで発情期を迎えた雌猫のようだ。

「どうだい? 旦那」

「ふむ。そうだな? 果たしてこの中に私を満足させられる女はいるかな?」

「あたいだよ、あたい!」

「あたいだって!」

 遊女たちは嬉しそうに男の手を引いて、店の中に連れ込もうとしている。遊女たちの中心でまんざらでもない顔をしている男を見て、凪の時間が一瞬止まったような気がした。

「は? 嘘だろう……」

 その男の顔を凪は忘れたことなんてなかった。あの日からずっと憎んでいたけれど、もう一度会いたい……と願ってやまなかった相手。

 彼の顔を見間違えるはずなんてない。漆のように黒光りする手触りのよさそうな長い髪と、その髪と同じような黒い瞳。男なのに、綺麗という言葉がとてもしっくりとくる整った容姿。

 間違いない、あれは……。

「なんでこんな所に湯玄様が……」

 湯玄という神は、人間のふりをして人間の世界に遊びに来ることがあるのだろうか? でもなぜよりによって遊郭に? 混乱した凪の体が小さく震え出す。唇をギュッと噛み締めて、男を呆然と見つめた。息がどんどん浅くなって、酸欠で倒れてしまいそうだ。

「だって、四年後に出直して来いって……俺はその言葉を信じていたのに……」

 目の前が涙でゆらゆらと揺れたから、着物の袖でそれを拭う。悔しくて、腹立たしくて、湯玄に掴みかかってしまいそうな衝動を必死に堪えた。

「なんだよ、結局女がいいのかよ……」

 凪が唸るように呟いた瞬間、湯玄が凪のほうを向いた。予想もしていなかった出来事に、凪の体が跳ね上がる。

 湯玄から目を逸らしたいのに、その美しい姿から目を離すことができない。最悪の形で再会してしまったことを、凪は心の底から呪ってしまった。

 そんな凪の存在に気付いたのか、湯玄が静かにこちらに視線を移す。そして一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐにいつものように表情を緩めた。そんな表情さえ綺麗で、凪は悲しくなってしまう。凪と湯玄の視線が絡み合った。

 ――なにやってんだよ⁉ 四年間待ってくれるんじゃなかったのか⁉

 言いたいことは山ほどあるのに、それは言葉になってくれない。凪は力なく肩を落とした。

 ――裏切られた……。

 堪えていた涙が一気に溢れ出す。凪は湯玄に背を向けて、逃げるようにその場を立ち去ったのだった。



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