子供への「好き嫌いせずなんでも食べなさい」は虐待

加賀倉 創作【FÅ¢(¡<i)TΛ§】

食は未来なり

 ((((好き嫌いせずなんでも食べなさい))))


 それは、本当に子供が心身の健康や健やかなる成長を享受したり、ひいては子供が食の素晴らしさを正しく認識できるようにと思って、している発言なのだろうか。


 なんでも食べることが美徳である、という価値観の一方的押し付け、つまりは一種の洗脳と個性の芽生えの抑制……


 親が自身を、子供への躾をきちんとする素晴らしい親であると誇示したいことの現れ、つまりはエゴ……


 ……などになっていないだろうか?


 もちろん、本当に今目の前にあるもの以外には今もこれからも食べることが叶わないという状況下にあるのなら、それら強行的な姿勢となるのも理解できる。


 また、初めて食べるもの、を食わず嫌いしている場合に、一度でいいから食べてみてはどうか、と促すのはありだろう(もちろん、造形や臭いに対し考えうる限り最上級に強烈な拒絶反応を示している、すなわち野生的に言えば何かしらの危機察知の類を示しているととれる場合は、この限りではない)。


 私が言いたいのは、こうである。


 食事というのは可能な限り、一方通行的ではなく、知恵や考えや感覚や体質に基づいた対話がなされた上で、とるべきものではないだろうか。


 今日、食事というのは、もはや家庭でだけでとるものではなくなっている。


 我々は、飲食店で、学校で、職場で、はたまた小売店で購入して、食べている。


 ここで、多くの人々が経験する一律的食事をわかりやすく体現しているであろうという観点から、学校給食に注目したい。


 学校給食というのは、それ自体素晴らしくありがたいものである。


 が、(近年は減ったようだが)全て食べ終わるまで席を立つな、的な誤った、指導もとい虐待的命令はいかがなものだろうか。


 せっかく提供されたものなので、同時にそれが食べる者にとってちょうど良いものであるのなら、全て食べることができるに越したことはない。しかし、もし量的に、体質的に摂取が難しいものがあるのなら、それは減らしたり、抜きにしてもいいはずである。


 ただ、ここで一つ提示したい。


 人には人、生き物には生き物の、処理能力・許容量というものがある。


 わかりやすいのは、アルコール、である。


 〈飲み会最高法規〉

 酒類が体質的に合わない者に、飲酒を強要してはならない。また、第三者は目の前で起きる飲酒の強要を看過してはならない。


 これに関しては、よほどの何かしらのズレがない限りは、理解していただけるはず。


 アルコール分解に長けた体の設計の人とそうでない人とがいるように、炭水化物の分解吸収の得手不得手、タンパク質分解吸収の得手不得手、脂質の分解吸収の個体差、ビタミンやミネラルの吸収効率の個体差が、大なり小なり間違いなくある。

 その上、炭水化物の中でも米なのか小麦なのかとうもろこしなのかでも分解吸収能力には個体差があるだろうし、肉と魚、植物油と動物油、野菜と果物、ナトリウムとカリウム、マグネシウムとカルシウムなど、しばしば比較対象となったり、対となる機能を果たしたりする栄養素間の摂取バランスは、個体によって適正比の絶妙な差異がある。


 そしてそれら教科書的知識や、固定観念的知識のみではなく、それらを一定度合い参考にしつつ食べられる範囲で食べ、かつ先にあげた対話的プロセスも合わせた総体、すなわち食体験の積み重ねによって、各々が各々の食事様式を見出していくものであるはずだ。


 生き物は、己という内界と、環境という外界の、パズル的噛み合いによって、その食事様式を確立してきた。


 ライオンは肉を食う。


 シマウマは草を食う。


 昆虫は花の蜜を吸う。


 では人間は?


 あなたは?


 あなたの子供は?

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