憧憬の檻

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憧憬の檻

 田辺友美は、地味な女子大生だった。

 肩にかかるほどの黒髪はクシを通しただけでまとまりがなく、前髪は目にかかりそうなほど長い。黒縁メガネの奥にある瞳は、いつも少し伏せられがちで、人と目を合わせる苦手なのが見えた。

 着る服はくすんだ色のシャツにデニムのパンツか地味なロングスカートがほとんどで、華やかさとは程遠い。靴も飾り気のないスニーカーだ。化粧っ気はまるでなく、アクセサリー類すら身につけていない。

 高校生の時もそうだったが、友美は講義室の隅の席を好み、昼休みには読書をして過ごすことが多かった。

 喋れば、無視するようなことはしない。

 ただし、必要最低限​​の言葉しか返さない、自分から会話を広げることもほとんどない。彼女の存在は、特別悪目立ちする訳でもなく、かといって印象に残る訳もない。そうやって高校生活を過ごし、大学生になってからも生活は変わることなく、静かに息を潜めるように過ごしていた。

「私って、何しているんだろう」

 友美は、キャンパスライフを楽しんでいる大学生達を見ては呟くのだった。

 だが、本人はそれで満足しているつもりだった。このまま淡々とした大学生活を送るのだろうと信じて疑わなかったからだ。

 しかし、そんな毎日は突然終わりを迎えた。

 彼女が入学して二ヶ月後の出来事である。

 昼休み。

 ふと前を歩いていた淡いパステルカラーのワンピース姿の女性の足元に、白いものがひらりと落ちたのを見た。

「……ハンカチ?」

 友美は、それに気づくと慌てて拾い上げた。

 地に落ちたそれは、綺麗に折り畳まれた白いレースのハンカチだった。端には細やかな刺繍が施され、ほのかに甘い香りが漂う。

「あ、あの……。落としましたよ」

 後ろから声をかけると、女性は振り返った。

 女性の姿を見た瞬間、友美は、その輝くような美しさに目を奪われた。まるで一枚の絵画のように完璧だった。

 艶やかな黒髪は陽の光を受けて柔らかく輝き、一筋の乱れもない。 長い睫毛に縁取られた赤みを帯びた瞳は透き通るように澄んでいて、まるで夜空に瞬く星のような輝きを湛えている。その琥珀色の瞳に見つめられると、まるで吸い込まれそうな錯覚に見える。

 肌は陶磁器のように緩やかで、どこか冷たさすら感じさせるほど白い。頬にほんの血色が差し、唇は淡い紅を差したように色づいている。

 柔らかなワンピースが風に揺れ、細い手首にはバングルがきらりと光る。

 足元はシンプルなバレッタがついたサンダルだったが、彼女の魅力を一層引き立てていた。

 まさしく天から舞い降りたような女神のようだった。

 こんな美しい人がこの世にいるなんて信じられないほどだ。

「あら、ありがとう」

 女性は優雅な振る舞いでハンカチを受け取り、友美の手にふわりと指が触れた。しっとりと吸い付くように柔らかくて冷たい指先の感触に、友美は思わず胸が高鳴った。

(どうしよう……すごくドキドキする)

 友美は自分でもよく分からないくらい顔が熱くなり、思わず俯いてしまう。鼓動が早くなり、まともに彼女の顔を見れなくなったのだ。

 女性がクスリと笑った気配がした。


 ◆


 あれから数日経ったが、友美は呆けたように過ごしていた。

 気がつくと、あの日の女性の姿を思い出してしまう。

(また会いたいなぁ……。でも、もう一度会うことができるかな? そもそも名前も知らないし)

 そんなことを考えつつ、学食でランチをする時に彼女を見かけるかもしれないと期待して食堂へ足を運ぶのだが、結局一度も遭遇することはなかった。

 夕方の講義が終わっても、友美は一人で講義室に残ったままボンヤリとしていた。

 西の空がオレンジ色に染まる頃になっても帰る気になれず、もう暫くここにいようと決める。椅子に腰掛けたまま、ゆっくりと息を吐き出す。

 ガラスに友美の姿が映る。

 相変わらずな自分の姿にため息をつくしかない。せめて眼鏡だけでも変えたら、もう少し垢抜けた格好になるだろうかなどと考えたりもする。

 諦めた様に一度目を伏せる。

 深い眠りに落ちるかのような感覚に襲われながら、再び目蓋を持ち上げる。

 再び目を開けると、ガラスに友美とは別の女性の姿が見えた気がした。

 いや、実際に見えていた。

 何故なら、そこには見覚えのあるシルエットがあったからだ。

 友美は驚いて、そちらを向く。

 そこに立っていたのは、紛れもなく先日出会った美しい女性だった。

 驚きのあまり声も出せずにいると、彼女はニコリと微笑んだ。

「こんにちは。こんな時間まで一人で残っていたの?」

 鈴の音のような美しく澄んだ声だ。

 まさか、この女性に会えるとは思いもしなかった。しかもこんなに早いタイミングで。

 友美は嬉しさが込み上げてきて、咄嗟に言葉が出てこない。なんとか絞り出した言葉は、蚊の鳴くような声になってしまった。

「わ、私。あなたに憧れて……」

 恥ずかしくて顔を真っ赤に染めていると、女性は不思議そうに首を傾げる。

 その様子が可愛らしいので、更に動揺してしまう。心臓の音がうるさいくらいに鳴り響いていた。

「嬉しい。じゃあ、もっと私のこと知って欲しいな」

 そう言って微笑む彼女につられて、自然と口元が緩む。本当に自分が憧れ続けていた理想の女神のようだと思った。


 ◆


 彼女の名前は、宮原莉緒りおと言った。

 それからというもの、二人は急速に親しくなっていった。お互いのことを色々と話すようになり、距離が縮まった気がする。

 お互いについて話せば話す程に楽しく、話していて飽きることが無かった。

 そして、いつの間にか一緒に食事を摂るようになり、休日も一緒に出かけるようになったのだ。

 莉緒は友美に色々なことを教えてくれた。

 彼女の好きな本、音楽、そしてファッション――。

 行ったこともないアパレルショップに行っては、莉緒の勧めてくれた服を買い、彼女が使っているメイク用品を使っているうちにだんだんと自分に自信がついてきたように思う。

 もちろんまだ地味であることは否めないが、それでも随分と変わったと思う。

 今まで着たことなかった花柄のフレアスリーブブラウスを着てみたり、思い切って履いてみたハイヒールのおかげで身長が高く見えたりと良いことづくめなのだ。

 服装だけではなくメガネからコンタクトレンズにし、髪型を変えようと思ったのもこの頃だった。最初は目にレンズを入れることに勇気がいるものだったが、今はコンタクトレンズにも長い髪にも慣れてきたところだ。

 もちろん髪を伸ばし始めたきっかけは、莉緒の影響であった。

 最近は莉緒の影響でコスメに興味が出て来て、色つきリップを買ってみることにした。唇がほんのりピンクになって感動したものだ。

 最近ではファンデーションにこだわって買うことも増えてきたため、化粧品コーナーで買い物することが楽しくなってきたところである。

 友美は、アパートの鏡を見て信じられないくらい美しくなっていることに驚愕していた。

 自分で言うのもなんだが、明らかに以前より可愛くなっている。

 特に雰囲気が変わった気がしてならない。なんだかキラキラと輝いているように見えるのだ。

 これも全部、莉緒のおかげだと感謝の気持ちでいっぱいになった。

 もう以前の自分とは完全に決別できたような気がしてとても嬉しかった。きっとこれからは素敵な出会いだってあるハズだ。

 そう思えるようになっていた。

 ――しかし、ふと、不思議なことに気づいた。

 友美は、莉緒が好きだと言ったものに、無意識のうちに興味を持ち始めていた。

 例えば、ダージリンの紅茶を飲んでいるのを見て、友美も何気なく飲むと、まるでずっとそれが好きだったかのように感じていた。

 友美は、紅茶を飲む習慣がなかったにも関わらずだ。

 他にも、映画のタイトルや、あらすじを聞くうちに自分も見てみたくなったりして、自ら進んで同じものを見るようになっていったりすることがあった。今では毎週欠かさず観に行くようにもなったくらいだ。

 友美の趣味は、読書でインドア派であったが、今は全く逆になっている。これは一体どういうことなのだろう。

 どうして自分は、ここまで変わってしまったのだろうか。

「ただの影響かしら……」

 それにしては、あまりにも急すぎるような気がする。

 それとも他に何か原因があるのかも分からない。

 しかし、どうしても引っかかるものがあった。

 莉緒が現れてからの自分の変化が少し不気味だと思ったものの、今の幸せを失いたくないという強い気持ちが勝ってしまっていたのも事実であり、何も言えなくなってしまった。

 その時までは。


 ◆


 その日、いつも通り授業を終えてアパートに帰宅すると、メイクを落としをする為に洗顔フォームで顔を洗う。以前は安物の化粧石鹸を使っていたが、ある日何気なく買った高級ブランドの洗顔フォームを使い始めてからは、肌がツルツルになり毛穴も目立たなくなり良い匂いになることによって気分まで上向きになっていた。

 おかげで、見違えるほどキレイになったのだから安いものだ。

 顔を洗い、水の滴る自分の顔を鏡越しに見つめる。

 水の滴る頬をタオルで優しく吸わせ、鏡の中の自分を見つめる。

 その瞬間、友美は違和感を感じた。


 ――何か、変


 胸がざわつく。

 違和感の正体を探るように、ゆっくりと目を凝らした。

 眉、鼻、唇、顔の輪郭を指でなぞっていく。

 やがて、瞳に映る光景をじっと見つめた。

「え。どういうこと!?」

 友美は違和感の正体に気づく。

 もう一度、そっと目を閉じて開く。

 琥珀色の瞳が、そこにあった。

 ありえない。そんなことがあるはずはない。

 光の加減かと思い、何度瞬きをしても、それは変わらなかった。

 友美は茶色だったはずの瞳が、まるで透き通るような琥珀色に染まっていた。

 光を受けて、まるで赤い宝石のように淡く輝く。

 それは、宮原莉緒の瞳の色と、全く同じだった。

 瞳の色が変わっていた。

 頭が混乱する。

 こんなこと、ありえない。

 これは何かの間違いだ。

 しかし、そのが目の前で起こっている。

「違う……。こんなの、私じゃない……」

 友美は、まるで自分の身体が、自分とは違う何かに作り変えられていっているような気がした。

 いや、もしかしたら心すらも変わってしまっているのかもしれない。そんな風に思えてならなかった。

「友美、キレイになったわね」

 突然の声に、友美はビックリし洗面所の壁に張り付いた。

 振り向くと、洗面所の扉の向こうに見慣れた人物が立っており、にっこりと微笑んでこちらを見ていた。

 莉緒だった。

 友美は、アパートの部屋に入った時に鍵もチェーンもかけた。

 誰も入れないハズだ。

 友美は彼女が、ここにいるのか分からず混乱としていると、莉緒はゆっくりとこちらに近づいてきた。

 艶のある黒髪がさらさらと揺れる度に、なんとも言えないいい香りが漂ってくる。

 うっとりと見惚れてしまいそうになる自分を叱咤しながら、警戒するように身を引いた。

 何故、自分の部屋の中にいるのか理解できない。

 莉緒は鏡に映る自分と友美の姿を見る。

「今の私達の姿を見て、どう思う。まるで姉妹みたい。いえ、双子と言っても過言じゃないかも」

 そう言うと、嬉しそうにクスクスと笑う。

 確かに二人の容姿は非常に似ており、遠目に見たらどちらがどちらか見分けがつかないほどだった。

 莉緒は優しい手つきで、友美の手を取ると、友美の手を使って自分の髪を撫でた。

 その時、友美は気づく。

 自分の手の爪の色さえも、莉緒と同じ色になっていることに。

「……何をしたの?」

 友美は喉が乾き、声が掠れた。

 莉緒は微笑んだまま答えた。

「あなた、私に憧れたんでしょ。私みたいになりたいって。だからしてあげるの、友美は私に、莉緒はあなたになるの」

 その言葉を聞いた瞬間、友美は恐怖で身体が動かなくなる。

 莉緒の声が、耳の奥にこびりつくように響いていた。

 その瞬間、友美の全身が泡立った。


 逃げなきゃ――


 本能が警鐘を鳴らしているのに、身体が動かない。

 目の前の莉緒は、相変わらず穏やかに微笑んでいる。あの憧れた美しい顔が、今はとてもおぞましい。

「ほら、力を抜いて」

 説くように言いながら、莉緒はそっと手を伸ばし、友美の胸元に触れた。


 ――冷たい


 肌の上を這うその手は、まるで人間のものとは思えない程、冷たかった。

 死者のように。

「っ……!」

 友美は言いたいのに、声が出ない。喉が熱くなるように乾いていた。


 何かが入ってくる――


 ぞわりと友美の胸の奥が波打つ。

 見れば莉緒の手が友美の胸に沈んでおり、自分の内側に浸透していく感覚がある。心臓を掴まれた様な苦しさが押し寄せる。

「……いや……やめて……!」

 友美は怖くて声を絞り出す。

 莉緒は微笑む。

「大丈夫よ。すぐに楽になるから」

 莉緒の手が押し込まれた瞬間――。

 視界が反転した。

 頭の中で何かが弾ける。

 世界がぐにゃりと歪んでいる。

 意識が、引き剥がされる。

「やめて……。私は、私でいたい……!」

 友美は必死に叫ぶが、身体が言うことを聞かない。その代わりに、違う何かがゆっくりと自分の中に入って来る。

 指先が、足が、まぶが――もう、自分のものではない。

「憧れたんでしょ。友美は、私になるのよ」

 最後に耳元で聞こえた莉緒の囁きは、甘くて、優しく、心地よい声だった。

 そして、友美の意識は、闇の奥へと沈んでいった。


 ◆


 静寂の中で、水滴が落ちる音だけが聞こえる。

 蛇口から白い陶器の洗面台に、一滴、また一滴と落ちる水が弾けていた。

 その落下は、まるで時間の鼓動のようだった。

 静寂が落ちた。

 室内の空気が妙に澄んでいる。

 ふと、鏡の前に立つ。

 そこには、一人の女がいた。

 艷やかな黒髪。

 整った顔立ち。

 光を秘めた琥珀色の瞳。


 ――誰?


 じっと、鏡の中の自分を見つめる。

 見覚えのある顔のはずなのに、どこか違う。

 でも、それが何なのか分からない。

 唇がゆっくりと滲む。

 女は、微笑んだ。

 それはまるで、人形の様に精巧に作られた美しさでありながら、人外的な恐ろしさを湛えている笑みであった。

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