お弁当差し入れ大作戦

第1話 ―side.雪澄





「……数字の見積もりが甘いな」


 眉を顰めて苦言を呈すと、貫田ぬきたは軽い調子で「じゃあ企画課に戻しておきますねー」と俺の手から書類を抜き取った。


「急ぎの書類はもう無いよな?」

「え? あーまあ、そうっすね」

「じゃ、帰る」

「は? いや、ちょいちょいちょい、待ってくださいって!」


 ファイルの中身を確認しながら頷いた貫田にそう言って鞄を持って立ち上がると、貫田が慌てたように駆け寄ってくる。


 両腕を広げて通せんぼの体を取った貫田を、俺はジロリと睨んだ。


「邪魔」

「いやいや、確かに急ぎの書類は無いですけど、確認事項はいくつか残ってるんで! もうちょい待ってくださいよ」

「……」


 視線をスッと壁掛けの時計に移すと、時刻はすでに七時を超えていた。中身のない無駄口ばかりの会議に付き合わされたせいでもうこんな時間だ。


 脳裏に俺の帰りを待っているであろう愛しい妻の姿が思い浮かび、俺の足は自然と前に踏み出していた。


「明日にしろ」


 しかし、貫田も伊達に長く俺の付き人をしていない。秘書になってからは特に口うるさく「ダメですって!」と俺を引き留めた。


「そう言っていっつも気づくと帰ってるんですから」

「メールでいいだろ。後で返す」

「都合悪いメールには面倒くさがって返信してこないでしょ、アナタ」

「……」


 そういう時は大抵、返信する必要もないと思っているからしていないのだが、秘書には秘書なりの言い分があるのだろう。


 無言の俺に、貫田はやれやれとため息を吐き出した。


「可愛いお嫁さんに早く会いたいのは分かりますけどね」

「……」

「怖っ! 睨まないでくださいよ、褒めたのに……」


 百合子さんが可愛いのは自明の理だが、他人に言われるのは気に入らない。百合子さんの可愛さなんて、俺だけが知っていればいい。


 こいつは見合いの場にも同席していたから、本気で可愛いと思って言ってそうなのがまた気に入らなくて、牽制の意味も込めて鋭い視線を送れば、貫田は呆れ顔になった。


「最近の坊ちゃん、どんな顔されてるのかご自身で理解されてます? 会社の女性社員たちに見せたらきっと腰ぬかしますよ。そんなにメロメロになっちゃって……」

「知るか。早く用件を言え」

「ああはい。来週と再来週、それぞれ一件ずつ会食の申し込みがあるんですけど――って、ああもう、すでに嫌そうな顔してますねぇ」


 貫田が俺の顔を見て苦笑する。

 名前を聞けば以前断った相手まで含まれていて、そのしつこさに辟易とした。


「言っときますけど、そろそろ断れませんからね。新婚だからでやんわり通して来ましたけど、会食も立派な仕事なんですから」


 仕事終わりに飯食ってまで仲良くしたい相手でもない。そうは思えど、アルコールで気が緩んだからこそ落とされる有益な情報があるのも確かで、俺はやや投げやりに「分かった」と承諾した。


「速攻潰して帰る」

「野蛮だなあ」


 言いながら、止める様子はない。会食に出席したという結果さえあれば良いのだろう。


 気の張る相手と二次会なんて考えただけで頭が痛い。向こうは酔っ払って気分が良くても、こっちは呑めば呑むほど冴えていくというのに。


 今度こそ帰宅すべく執務室の扉を開く。と、ちょうど外から入ってくる人影があった。ぶつかる直前でお互い足を止める。


「すまない、大丈夫か」

「はい、問題ありません。……ご帰宅ですか?」


 こちらを見上げる黒い瞳。

 彼女――間宮まみやひかりは、俺が役員に就いた一年ほど前から、新しく秘書として執務室に入ってもらっている女性社員だ。


「ああ、帰る」

「承知いたしました。既にお車は手配しておりますので、警備室に連絡しておきます」

「助かる」


 頷くと、頭を下げて横にずれる間宮。秘書の経験は浅いが、中々優秀な社員だ。


 ふと窓の外を見ると雨粒がついていた。いつの間にか雨が降り始めたようだ。


 こんな日は、より一層百合子さんのことを強く思う。


 早く顔が見たくなって、歩く速度を速めたのだった。




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