あなたの特別になりたい
安藤栞
第1話 三月の梅の花の下で
「世界はわたしだけのもの」
わたし、青柳唯は母親から教えられたその言葉がずっと好きだった。
それは故郷の茨城から直線距離で大体300キロ離れた愛知に来ても変わらない。
わたしは駅前に広がる大きな川に跨る橋の上にいた。
西に目を向けると、高いマンションの森の中に一つの城が建っている。
そのなんとも奇妙な光景が気に入り、引っ越してから何度かここに足を運んでいた。
しかしわたしの足取りは重く、この先にある図書館への道は、やけに険しく感じる。
別に、図書館に行きたいわけではない。
本なら家で読むほうが好きだし、本を買うお金がないわけもない。
家の周りの本屋の位置がわからないわけでもない。
わざわざ冬の乾いた空気と、春の陽気の混ざった独特の空気を感じに来たわけでもない。
その理由はおそらく一つ。
背後の駅から発着する電車の音。
橋を渡る無数の車の音。
同じ橋を渡る人の話し声。
その全てが、わたしを傷つける刃となっていたからだ。
もっと詳しく言えば、家の周りで道路工事が始まった。
わたしの耳は、他の人より良いらしい。
言葉にすればなんというわけもない。
しかし、問題はそれが生活に支障のあるレベルであるということだ。
耳栓なしで生活すれば、たちまち頭が痛くなり、パニックになってしまうほどに。
昔、誰かがわたしに言った。
「世には耳が聞こえない人がいるんだよ?そんな人に失礼だと思わないの?」と。
もちろん、当時のわたしも他人には音が苦痛に感じないことを知っていたけれど、誰かに自分のことを理解してほしいとも思っていた。
しかし、周囲の誰も理解してなんてくれなかった。
そんな時に、母親からあの言葉を教えてもらったのだ。
「あなたに聞こえている音は私や他の人には聞こえないし、私に聞こえている音はあなたにはわからない。」
「同じ音を一緒に聞いても絶対に同じ感想になる訳じゃない。あなたが見て、聞こえたものはあなただけのものなのよ」
だから、わたしはずっとこの言葉を使い続けてきた。
誰も自分は理解できない。自分は誰も理解できない。
自分は自分以外の何物にもなれない。
他者に無理に理解を求めることなんてしない。
だから、せめて。
せめて、穏やかに過ごせますように。
そして叶うならば、特別でない人になれますように。
----
私、芹沢春は図書館に来ていた。
高校初の春休み。
私は図書館に来て、郷土コーナーに足を運ぶ。
受験や進級といった大イベントがひと段落したからか、若者たちの姿は少ない。
若者のほとんどは自習コーナーではなく、テーブル席などで本の世界に入り込んでいる。
自分も彼らと同じように本の世界に入り込みたいと悪魔がささやくが、残念ながら今日の私にはやるべき事がある。
来月からの新年度、1年間の難易度が、今日で決まるといっても過言ではないのだ。
今日はやるべき事のために3時間くらい調べ物をしたら、隣の岡崎城で五平餅を食べよう。
そう思って郷土コーナーの本を持っていつもの定位置に向かう。
毎日のように通っていると、図書館の人の顔もほとんど覚えて、何人かの人とは挨拶をしあうほどの仲になった。
「芹沢ちゃん、おはよう。」
「柳田さん、おはよう。」
「芹沢さん、今日も熱心ね。」
「おはよう、金箱さん。」
顔見知りの爺さん婆さんに挨拶をしながら、自分の定位置、静かで、人が少なく、過ごしやすいあの場所へと向かう。
しかし、そこには。
普段の定位置に誰かがいる。
図書館内の読書スペースの端の机のさらに端。
そこに女の子が座っていた。
周囲の席はほとんど空いているのに、私の席にピンポイントで座る必要はないじゃないか。
もちろん、図書館の机の所有権が私にあるわけではないし、どんな人間にだって図書館のどこの席に座るか決める権利はあるのだが。
「運悪いなぁ……」
そんな言いがかりのような一言を心の中で呟きながら、彼女を観察する。
耳の周りだけ少し長い黒髪、耳にヘッドホンらしきものを身につけた少女だ。
机の上には文庫本が置かれており、その隣に真新しい貸出証が置かれている。
そこに書かれた名前は……「青柳 唯」
あおやぎゆい、だろうか。
仕方ないので私は唯という名前の少女の隣に座る。
唯という少女はチラリとこちらを見た後、もう一度読書に戻る。
その後はお互い何も言葉を交わす事も、特段気になる事もなく、読書を始めた。
読書を始めて2時間ほど経った。
ノートにメモを取ったり、軽い計算をしていると、意外と時間がたつのは早いなと感じる。
先ほど唯という少女が席を立ったところだ。
少し待って、戻らなかったら元の席に戻ろう。
そう思った時、大声が聞こえた。
「やめてッ!」
女の子の声だ。
私は読書スペースから顔を出すと、そこにはあの女の子の姿があった。
大学生くらいの人の悪そうな二人組に囲まれ、手首を掴まれ、頬を触られている。
「ちょっと俺たちと遊ばない?」
「そんな大声だとモテないよ〜?」
そんなことを言いながら、彼女の顔を撫で回している。
助けに行くべきか。
そう思い、覚悟を決めようとしたそのとき。
男の一人が髪に隠れた耳に触れた。
「ん、なんだこれ…」
「……!!辞めろッ!!」
先ほどの声とは大きく違う大声だ。
無理矢理二人の男の腕を振り払い、男がいた階段側ではなく、反対側に向かって走り出した。
この図書館は二階と一階の両方に出入り口があるのだ。
しかし、耳を触られたときのあの反応は何だろう。
私はどうしようか悩んだ結果追いかけることに決めた。
今の気持ちの割合はたぶん、半分心配、半分興味だ。
----
わたしはひたすらに走った。
男たちに外された耳栓を握り締めながら。
周りが怖い。音が怖い。
周囲の車の音が、普段の倍…いや、それ以上に大きく聞こえる。
それら全てが、自分を否定しているような声に聞こえる。
その音が、わたしが茨城に居れなくなった出来事を突きつけてくる。
怖い、辛い、痛い。
ひたすら頭痛と吐き気に耐えながら走った。
そして、小石につまづいて転んだ。
周囲を見渡すと、そこは川だった。
図書館からお城の公園を突っ切り、ここまで走ってきたらしい。
ようやく落ち着きを取り戻してきたわたしは、今自分は耳栓をつけていないことを思い出した。
右手に握りしめた耳栓を力任せに耳に押し込み、ようやく聞き慣れた世界が戻ってくる。
「どうしよう……」
無理矢理飛び出してきてしまった。
あの男達に謝る気はないが、図書館で騒ぎを起こしたことは謝らなければいけない。
でも、謝って許してくれるだろうか?
許してくらないから謝らないというのはあまりにも悪いことだと思うが、怒られるのが怖かった。
また耳栓について触れられるだろう。
「怒られている時に耳栓をつけるな」と言われれば、外すしかなく。
外してしまえば、パニックをいつ起こすかもわからない爆弾の出来上がりだ。
そんな時だ。
「大丈夫?」
背後から声が聞こえる。
後ろを振り向くと、女の子がいた。
先ほど隣の席に座っていた人だ。
長くてつやつやした黒い髪の人。
しまった、あの醜態を見られていたらしい。
全然大丈夫ではない。
しかし、出来るだけ冷静に話すことを心掛けながら、口を開く。
「その、えっと、あの時はパニックになっちゃつて…騒がしくしてごめんなさい。謝りに行かなきゃ…」
目の前の女の人が口を開く。
「一緒に謝りに行ってあげるよ。」
「何か訳ありだったのはみんな知ってるし、きっと許してくれる。」
「えっ…」
意図がわからない。
なぜわたしと一緒に謝りに行ってくれるのだろう。
彼女は席が隣だっただけで、何にも悪いことをしていないのに。
「気にしなくて良いよ、私がしたいだけだもん。」
わたしの心を読んだかのように彼女は答える。
「善は急げ。ほら、行こう!」
そう言ってわたしの手を握って駆け出した彼女に、わたしはついて行った。
握られたその手は、とても暖かくて安心するような、そんな気がした。
「大丈夫ですよ、彼らが問題を起こしたのは聞いていますから。」
わたしは名前も知らない彼女に連れられて戻ってきた図書館で、おそらく館長と思われる男と話していた。
隣には彼女が、さも当然のようにそこにいる。
「気にしてはいませんが、やはり直接言いにきてくれるとこちらも処理が楽ですから。」
最早目の前の男の声など聞いていない。
なぜならわたしと館長、二人の間にあるテーブルの下。
そこで何故か、隣の彼女に左手を握られていたからだ。
ほとんど話は聞こえていなかったが、無事に謝罪が終わり、部屋から出ようとすると、館長に呼び止められる。
「ああ、そうだ。これ、落とし物です。」
彼の手にあったものは、半透明で卵型のプラスチックケース。
それはとても大事なものだった。
「ありがとうございます!」
ひったくるようにケースを受け取り、テンションが自分でもおかしくなっているの感じながら感謝の言葉を伝えた。
「ね、許してくれたでしょ?」
「はい。予想よりずっとすんなりと行きましたね。」
図書館を出てすぐ。
わたしと女の人はそんな話をしていた。
そしたら、お腹がなった。それも、二人一緒に。
「あはは、緊張ほぐれたからかな?お腹すいちゃった。」
「そうですね、中学卒業して、久々のスリルでした。」
時間はとっくに1時間以上も過ぎた今、それはある意味当然のことだった。
「ふーん、君は中学卒業してすぐこっちに来たの。」
「はい、一人暮らしを始めて。来月から高校生です。」
図書館の近くのお城にある売店のベンチで軽食を食べた後、わたしたちはたわいも無い話をしていた。
彼女はこのお店の五平餅が好きなこと。
よく図書館に来ること。
そのほかにもたくさん。
自分でも驚くくらいすんなりと言葉が出てきて。
久々に自分が人間であることを思い出したような気分になった。
そのくらい長く、家族以外の人とは話していなかったし、こっちに来てからはそれこそ誰とも話していなかった。
「私はね、来月から2年生。一緒の学校だったら良いね。」
「そうですね。」
その短い言葉は本心だった。
正直、一人での高校生活には自信がなく、この人のように優しい人が身近にいてほしいと考えていた。
「そういえば、落とし物受け取ってたよね。あれは何か大切なものなの?」
答えに詰まった。
正確に言えば、答えたくなかった。
しかし、この人なら…
受け入れてくれるかもしれない。
「言いたくなければ、言わなくて良いんだよ。」
「あ、違います。少し考え事してて、」
そして、わたしは全てを包み隠さず話すことにした。
「わたしは、生まれつき耳が悪いんです。」
「耳が聞こえないんじゃなくて、耳が聞こえすぎるんです。だから、それは」
「音から自分を守る為の道具。それを入れるケースです。」
そうだ。あれは耳栓を入れるケースで。
そしてそれ自体が、わたしの心の支えになっていた。
「そっか。」
嫌われたかもしれない。
でも、それで良いのかもしれない。
そうすれば、綺麗な思い出のままでいてくれるから。
「理解してもらいたいわけじゃ無いです。ただ、貴方に、聞いてもらいたかっただけ。わたしはこの耳が憎くて。普通じゃ無いのが辛くて。」
「そっか。」
わたしの吐露は止まらない。
「普通でいられない自分が嫌で。耳栓をしていることで感じる周りの視線が辛くて。」
「周りに悪意がないのなんて分かっているけれど、それでも疑っちゃうわたしが嫌で。」
「わたしは、普通になりたい。」
普通の女の子になりたい。
耳を塞いで生きていたくない。
でも、わたしの耳が、15年で歪んでしまった心が。
わたしを特別にする。
教室のエアコンですら苦痛なわたしに。
給食のおしゃべりが苦痛なわたしに。
外を歩いているだけで頭痛に悩まされるわたしに。
誰にも理解されず、孤独に生きていかないといけないわたしに。
苦しいのが嫌で。
誰かと一緒にいるのが苦痛で。
でも…それでも誰かと一緒にいたくて。
「そっか。」
隣の彼女は、図書館の館長室で、川の辺りでしてくれたように左手を握って頷くだけだった。
それが何よりも嬉しくて。
言葉にして気持ちを伝えられた自分が誇らしくて。
こんな優しい人に会えた幸運が嬉しくて。
わたしは泣いていた。
声も出さないまま。
「ありがとう、聴いてくれて…」
いっぱい辛くて。いっぱい泣いた。
でも、今日の涙は嬉しい涙だった。
名前も知らない彼女はその後、わたしが泣き止むまで一緒にいてくれた。
わたしたち二人の座ったベンチの目の前には、咲き始めた梅が誇り高く風に揺れていた。
その日から時間が過ぎた。
今日は4月7日、竜美ヶ丘高校の入学式の日だ。
わたしはいつもと同じようにとても小さな音でセットした目覚ましより10分早く起きて、ベーコンと小さなオムレツの朝食を食べた。
そして真新しい制服を着て、親に「これから入学式です。」とメッセージを送る。
胸の中には、綺麗な思い出。
わたしの手を握って、気持ちを受け入れてくれたあの人。
世界に、あの人のような人がいるなら。
わたしの世界はきっと、まだ捨てたものじゃない。
わたしは、そう思う。
玄関に立ち、小さな鏡でリボンの微調整を行い、病院から渡されているパニック防止用の薬を飲む。
そして、いつものおまじないを唱えた。
「世界はわたしだけのもの。」
今日の、そして明日のわたしの世界が、少しでも良いものになりますように。
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