ぱすたやさん

山広 悠

ペペロンチーノ

斎藤由香里(ゆかり)は憤慨していた。

すれ違う人が振り返るくらいに。



 彼氏の島田拓実(たくみ)とは付き合い始めて3年になる。そこそこ美人で、かつ、いでたちも派手で人目を引く由香里は、それなりにモテる。

 そんな彼女があまり見た目もぱっとしない拓実一本に絞って3年も付き合っているのだ。会社の同僚には「キャリアウーマンを目指しているから結婚はどうでもいいの」なんて嘯いてはいるものの、今年三十歳の大台に乗ってしまうこともあり、当然結婚を考えていた。

 付き合い始めた記念日でもある今日、拓実が改まって「大事な話しがある」、なんて言うから、内心かなり期待して待ち合わせのフレンチレストランに向かったのだった。


それなのに。

別れを告げられた。


笑えない冗談。最初何を言っているのか理解できなかった。

「えっ?」

間抜けにも聞き返して、聞こえてきた拓実のセリフが

「ごめん」だって。

いや、謝られても困るし。ていうか、何で私が下に見られているの? 付き合ってあげていたのは私じゃん。謝られる筋合いはない。

そう思うと、腹の底から怒りが込み上げてきた。

「り、理由を言いなさいよ…」

声が震えないよう、精一杯感情を抑えながら拓実に迫る。

「実は、他に付き合っている娘がいるんだけどぉ、そのぉ…、できちゃってぇ……」

「!」

へらへら笑いながら答える拓実に、

その娘とはいつからの付き合いなのかを問い詰めると、なんと由香里と付き合い始めた直後とのことだった。

「この際、全部話してよ。そうしないと納得できない」

由香里がそう言うと、開き直ったのか、出るわ出るわ、その娘を含めて3股もかけていたことが判明した。

しかもその妊娠させたという相手は由香里の親友の美香だった。

付き合ってあげているつもりが、遊ばれていたなんて……。それもよりによって美香だなんて。

由香里の自尊心は粉々に打ち砕かれた。

人間って本当に頭にくると、震えるばかりで何も言えなくなるんだね。

ドラマ張りにコップの水でもぶっかけてやろうかとも思ったけれど、後で自分がみじめになりそうでギリギリで踏みとどまった。


由香里はそのままレストランを飛び出した。


 飛び乗ったのが西武新宿線だと気付いたのは、鷺宮(さぎのみや)駅を過ぎた頃だった。本当は荻窪(おぎくぼ)に住んでいる友人の家に行こうかと思っていたのだが、どうやらJR総武線と西武新宿線を間違ってしまったらしい。


あーっ、もうっ!ホントに腹が立つ!


拓実のにやけた顔や美香の媚びたような笑顔を思い出すたびに怒りが込み上げてくる。

信じてたのに。

つり革を握り締める指が真っ赤になっている。

窓に映る顔も、唇を噛みしめ、目はつり上がり、小鼻は膨らみ、いわゆる般若のようなものすごい形相をしている。

隣に立っていた中年の男性にさりげなく距離を取られた。

何よ。

横目で軽く睨んでまた窓を見つめる。

晩春の夕闇に染まったアパートや看板が次々と目の前を流れていく。

「次は~、井荻」

え、いおぎ?

車内アナウンスで我に返る。

まだ憤懣やる方無い状態ではあるが、このまま西武線に乗り続ける訳にもいかず、次の停車駅の井荻という、あまり聞き慣れない駅でとりあえず降りることにした。

そういえば、井荻を南下すれば荻窪だったような気がする。井草と荻窪の中間だから「井荻」なんだと、誰かから聞いたことがあるような……。

まあ、友達の家までは歩けないこともないだろう。最悪、タクシーをつかまえてもいいし。

なんとなくの地図を頭に思い浮かべながら、由香里は井荻駅の改札を抜けた。


あちゃ~。失敗だったかしら。

井荻駅の周囲はほぼ似たような住宅街で、早速方向が分からなくなってしまった。

地図を見ようとスマホを取りだすと、充電が切れていた。

本当になんて日だ。ますます腹が立ってくる。

由香里はざっくりと方向を定めると大股で歩き出した。


 しばらく歩くと前方にパスタ専門店が見えてきた。

そういえば今日はまだ何も食べていない。高級フレンチを楽しもうと昼食も抜いていたのだった。

由香里はもの凄くお腹が空いていることに改めて気が付いた。

でも…。住宅街のイタリアンなんて…。

との思いが一瞬よぎりはした。だが、女性一人で入れそうなお店は付近にはなさそうだし、雰囲気も結構よさそうだ。何より一度空腹に気付いてしまうとどうにも我慢ができなくなってきていた。

由香里はとりあえず店に入ってみることにした。


 「いらっしゃいませ」

お店に入ると、イケメンでダンディな店主がにっこりとほほ笑みかけてきた。髪は真っ白だが、肌はつるつる。声はめちゃめちゃ渋い。年齢不詳。

うわ~……。

由香里が戸惑ってマスターを見つめていると、足元から「くうーん」と甘えた鳴き声が聞こえてきた。

「きゃっ」

足元には大きなゴールデンレトリバーがいた。

最初は驚いたものの、よく見るとつぶらな瞳がたまらなく可愛い。首輪のところに「モク」と書かれた札が付いている。

モクは由香里を案内するかのように、一番奥の席にトコトコ歩いて行った。

「こっちでいいのね」

案内されるままに最奥のカウンター席に座る。

10席のカウンター席のみのこじんまりした店内は、いわゆるイタリアンの派手な装飾は一切なく、どちらかというと喫茶店のような落ち着いた雰囲気をしていた。


ふぅ。

席に座ってマスターに出された水を口に含むと、荒ぶっていた気持ちが少しだけ落ち着いてきた。

あれ、このお水、ミントの香りがする。それに少しだけシュワシュワするような……。

おいしい……。

「ご注文がお決まりになりましたらお申し付けください」

マスターの声掛けに軽く返事をして、メニューをめくる。

初めてのお店だし、メニュー選びで失敗したくない。それに今日はこれ以上、嫌なことは絶対起きてほしくない。

「マスター。おすすめは何ですか?」

悩んだ末に、由香里はマスターに尋ねた。

「本日のおすすめは『春キャベツのペペロンチーノ』です」

「あ、おいしそう。じゃ、それで」

「かしこまりました」

マスターは返事をするとすぐに調理に取り掛かりだした。

そんなマスターを見るともなく眺める。

無駄な動きが一切ない。

それに、やっぱり超イケメン。でも、年齢不詳なんだよね。

物怖じしない由香里でもさすがに初対面で年齢を尋ねるのは気が引けて、足元に寝ているモクの頭を撫でていた。


「おまたせしました」

しばらくすると料理が出てきた。

シックな少し深めの白いお皿に結構な量のパスタが入っている。具材は春キャベツと玉ねぎのみ。ガーリックの良い香りが、湯気と一緒にほのかに立ち昇ってくる。


へー、本格的。美味しそう。どれどれ。

由香里はフォークでパスタを絡めると口に運んだ。

口に入れると同時にオリーブオイルとガーリックの香りが鼻腔を抜け、一噛みすると春キャベツと玉ねぎの甘みが口中に広がった。

さらにその後に唐辛子の控えめな辛さ、そしてパスタ自体の小麦の味が追いかけてくる。

「おいしい……」

一見すると、いわゆる普通のペペロンチーノに見えるが、潔くもあり、奥ゆかしくもある。

なんだろう。素材を活かした料理。

一言で言ってしまえばそうなのだが、なぜだか心に染み渡る味だ。

まるで「飾らないあなたが一番素敵ですよ」と優しく言ってくれているみたいだ。

空腹も手伝って、パスタを食べる手が止まらなくなってきた。

その間ずっと「飾らないで良いんだよ」と諭されている気がしていた。


半分ほど食べ終えた時、由香里は不意に幼稚園の頃、できもしないのに背伸びをして、九九ができると嘘をつき、おばあちゃんに優しく窘められたことを思い出した。

「無理することはないよ。由香里ちゃんはそのままでいいんだからね」


あれ、私、また叱られちゃったのかな……。

覚えず一筋の涙が頬を伝う。


「そのままでいい」、か……。

そういえば、いつの間にかプライドが高くなって、見た目や世間体ばかりを気にするようになって、自ら本来の自分とは違う像を作りあげていたような気がする。

拓実はそんな私のことを見透かしていたのだろう。とんでもなく酷い奴だと一方的に思っていたが、そんな男に騙されてしまっていたのは、自分が作り上げていた虚像のせいなのかもしれなかった。

なんだ。半分以上自分のせいじゃん。馬鹿だな私。

そう思うと涙が止まらなくなってきた。


気が付くと寝ていたはずのモクがお座りをしてこちらを見上げていた。相変わらずの優しい目。マスターはこちらに背を向けて別の作業をしている。

「あなた達、優しいのね」

泣き笑いの顔でそう呟くと、由香里はモクに向かって、今日の出来事を話し始めた。


話し終わるのと同時に、カチャっと軽く音を立ててマスターが皿を棚にしまった。


全て話すと心底スッキリした。不思議なことに怒りと悲しみが吹き飛び気力が湧いてきていた。

『よし。もう、飾るのは止めた。これからは素のままの自分で生きていこう。この「本当の私」を好きになってくれる人と、しっかり向き合っていこう。まだまだ出会いはたくさんあるはず。そうだ、美香ともちゃんと会話しよう。何か誤解があったのかもしれないし』

そんな思いに知らぬ間に至っていた。

由香里は鼻をすすりながら残りのパスタを勢いよく食べ始めた。


「あ~おいしかった」

パスタを食べ終え、御礼を言おうと思った時、マスターが何やらすっとテーブルに出してきた。

「瀬戸内レモンのジェラートです」

「えっ、でもセットを頼んではいないですけど」

「サービスです。よろしければ」

薄黄色のジェラートは、店内のライトに反射してキラキラ輝いている。

「きれい……」

スプーンですくって口に入れる。

こちらも仄かな甘さの中に、レモンの力強い酸味があり、ペペロンチーノ同様、とても潔い味だ。

「負けるな。頑張れ」とみんなが背中を押してくれているように思え、由香里はまたしても泣き笑いの顔で、ジェラートを最後の一口まで味わった。



 また来ます、と言って何度も頭を下げ店を出た由香里は、二つ目の角を曲がったところで、『そうだ、次回また来る時のためにお店の名刺をもらっておこう』、と思いつき、慌てて来た道を引き返した。


だが。

先ほどまであったはずのパスタ屋は忽然と消えてしまっていた。




 同じ頃。

島田拓実は数時間前に由香里と会っていたフランス料理店で川越美香と料理を堪能していた。

「二人の新しい家族に乾杯」

そう言って赤ワインのグラスを掲げた拓実に合わせて美香もグラスを持ち上げる。こういった高級レストランのワイングラスは薄くて値段が高いこともあり、カチンと音をたててグラスを合わせることはしない。

「それにしても、よく由香里は引き下がったわね」

ワインを一口飲んだ美香は、下卑た笑みを浮かべた。

「いや~、メチャメチャ焦ったよ。美香と付き合っていることくらいはさすがに知ってると思ってたからさ。それで妊娠のことをちょっと言ったら、あいつすんげぇ顔になっちゃってさ。俺、マジでやられると思ったもん」

拓実もニヤニヤしながらワインを飲んだ。

「え~、私は言うわけないじゃん。だって、言ってしまったら、由香里は拓実と別れるかもしれないでしょ。そしたら、拓実は由香里からお小遣いを貰えなくなって、うちらのデート代も出なかったかもしれないじゃん。そしたら、この子も授からなかったかもしれないのよ。ホント由香里には感謝でいっぱいだよ」

美香は軽く自分の下腹部に手を当てる。

「お前、そんな顔して本当に悪い奴だな」

「え~、そんなことないよ~」

「だってお前ら親友なんだろ?」

「あんな高飛車でいけすかない奴、親友なんかじゃないよ」

「でも、それにしたって彼氏が自分の知り合いと会っているのは嫌じゃないのか?」

「まあ、『嫌じゃない』、と言ったら嘘になるけど、拓実は私のところに絶対帰って来てくれるって信じてるからね」

美香はワインをクイッと煽ると甘えた表情で拓実を見た。

「おい、酒はそれくらいにしとけよな。俺らの大事な赤ん坊になんかあると困るからさ」

美香のその表情に気付かない振りをして、拓実はグビグビとワインを飲み続けた。

「でも、惜しかったね。もう少し由香里から巻き上げてもよかったんじゃない?」

「いや、そろそろ潮時だよ。だってあいつ結婚したいオーラがハンパなく滲み出てたからな。そ、れ、に。あいつの鞄からこれも頂いちゃったしね~」

拓実は一枚のカードをポケットから取り出すと、指に挟んでテーブルの上でヒラヒラと揺らした。

「え、すごっ。プラチナのクレジットカードじゃん」

「もちろん、暗証番号も入手済みで~す」

島田拓実のそのセリフを合図に、二人の下品な笑い声が店内に響き渡った。



 次に会う日を楽しみに、美香はレストランを後にした。今度は温泉に連れて行ってくれるとのことだった。もちろん由香里のお金で。自然と鼻歌も出てくるというものだ。

 美人でハキハキしていていつもクラスの中心にいた由香里が、陰キャの自分なんかと仲良くしてくれるのは何かおかしいとは思っていた。どうせ自分よりブスな奴を連れて歩くことで、自分の可愛さを際立たせようとしているに違いなかった。でも、それでも良かった。そのお陰でみんなの美香を見る目が変わったから。

でも。

由香里が、美香がずっと片思いをしていた純也(じゅんや)と隠れて付き合っていたことだけはどうしても許せなかった。

『いつか、絶対、復讐してやる』

二人が体育館裏でキスをしているのを見た時、そう心に誓ったのだった。

 その復讐ももう少しで完結する。プライドの高い由香里が彼氏を完全に奪われるのだ。それも長年みくびりつつも親友だと思っていた自分から。

正直、拓実のことはそこまで好きではなかった。だから他の女と遊んでいてもほとんど何とも思わなかった。拓実が由香里の彼氏であることが重要だったのだ。

でも、赤ちゃんもできたのだ。もうこれまでとは違う。それに、母性本能なのか、不思議と拓実とこの子への愛情が芽生えてきているのが分かった。

 さてと。とはいえ、まずは家に帰ってさっきのレストランでの拓実とのツーショットとお腹の赤ちゃんの写真を由香里に送り付けてやらなくちゃ。

そうだ、その後に結婚式にも招待してやろう。

どんな顔をするのか、めっちゃ楽しみだ。

スマホの写真を眺めつつ、美香はニヤリと口元だけで笑った。

瞳孔が開き気味の、何かに憑りつかれたような顔がスマホの画面に映っていた。



 美香が下北沢のマンションに帰り着いたのは、0時を少し過ぎた頃だった。

ふー、疲れた。

拓実と会うと何故だかいつもヘトヘトになる。

だが一方で変な高揚感もあり、今日はこのままではとても眠れそうになかった。

冷蔵庫から缶ビールを取り出し、ソファーにもたれかかって「愛しの親友ちゃんへ」と言いながら一人で乾杯をする。

一気に半分ほど飲み、さて、そろそろ由香里へ例の画像を送ろうかとスマホを取り出した時。

背後に人の気配を感じた。

えっ。

恐る恐る振り返る。

そこには。

ショッキングピンクのピッチリしたシャツを着て、ジーンズの短パンをはいた、17~8の金髪の若い女が立っていた。

「だ、誰よあんた! どうやって入ったのよ!」

美香が叫ぶ。

「警察を呼ぶわよ!」

「あー、もう、うるさいなあー!!」

若い女もそう叫び返しながら、両手で髪をくしゃくしゃとかきむしった。

美香は息をのんだ。

よく見るとその女は焦点が定まっておらず、口の端しからヨダレが出ていたからだ。

「あんたが悪いのよ!!」

いきなり女がまた叫んだ。

「あんたが妊娠なんて卑怯な手を使って私から拓ちゃんを奪おうとするから!!」

女はふらふらとリビングを歩き始める。

私が拓実を奪おうとしている? ということは拓実が付き合っていると言っていたもう一人の女なのか。

「拓ちゃんはね、ホントは、わ、わたしのことが、い、いちばんすきなんだから」

「その証拠に、あんたのへやの、か、かぎもくれたんだからね」

えっ!

拓実が私の部屋の合鍵をこの女に渡した?

「そんなことあるわけないじゃない!」

たまらず美香も言い返す。

きゃははははははははははは!!

女の甲高い笑い声が部屋中に響き渡る。

「オバサン。あんたはホントにマヌケだね。拓ちゃんが、あ、あんたなんかと、ホ、ホンキでけっこんするとでも思ってんの?」

「どういう意味よ!」

「たくちゃんはね、私のことがいちばんすきなの」

「何を言っ…!」

「だって、あんたのおなかのこがいなくなればわたしとけっこんしてくれる、って言ってくれたし、そ、そのために、ゆうきがでる、ま、まほうの、く、くすりもくれたんだから」

そこでまた耳をつんざくような女の甲高い笑い声が部屋中にこだました。

ひとしきり笑うと、今度は急に黙り込み、

そして。

座った暗い目をしながら

「だからね。しんで」

と呟いた。

金髪の女はバッグから大きなナイフをゆっくりと取り出した。




 その頃。

島田拓実はガールズバーでお気に入りの娘を必死に口説いていた。

別にイケメンでもなく、いたって普通の見た目なのに、この必死さもあってか、なぜだか拓実は女性にモテた。女性に言わせると「かわいい」のだそうだ。

この特長を利用しようと思ったのは大学4年生の時だった。就活で希望した会社にことごとく断られ、自暴自棄になっていたこともあったのかもしれない。

ホストのように仕事として女性と付き合えるほど器用じゃないことは分かっていたが、試しに知り合いの年上の女性に交際を匂わせて金を無心してみると、すんなり多額の援助をしてくれたのだ。

それからはヒモのような、詐欺師のような生活を続けている。

当然、美香と結婚する気なんかさらさらなかった。当初は美香にもたかるつもりでいたのだが、妊娠してしまったのは想定外だった。こうなった以上、早めに別れてしまうに越したことはない。目障りな赤ん坊は、あの名前も覚えていない若い女がなんとかしてくれるだろう。強めのクスリも渡したし、流産くらいはさせられるはずだ。

それに、あの金髪女が失敗しても、危うく殺されかけたらさすがに美香も俺にもう付きまとってはこないだろう。

あの若い女は風俗にでも送れば良い。それでまた暫くは遊んで暮らせる。

あ、そうだ。由香里のクレジットカードで金も借りなきゃ。プラチナの限度額っていったいくらなんだよ。おいおい、なんだよ。いきなり金持ちになっちまうな。

カウンターの前の可愛いだけで頭の悪そうな娘に口先だけの適当な褒め言葉を連発しながら、拓実はそんなことを考えていた。


 くそ、もう少しだったのにな。

不発に終わったガールズバーを出たのは夜中の1時過ぎだった。

その間、何度もあの若い金髪女から電話が来ていたが、全て無視していた。

一瞬今から呼びつけるか、とも思ったが、面倒になってやめた。

それに、万一のことがある。あの女が暴走して本当に美香と赤ん坊を殺めていないとも限らない。

この携帯は使い捨てのやつなので、あの女の発信履歴から足がつくことはないだろうが、念には念を入れておいた方が良い。あの女の番号は別に控えてあるからこちらから連絡を取るのは可能だ。

拓実は路地裏に入って携帯を地面に叩きつけると、粉々になるまで踏みつけた。


 仕方ない。今日は帰ろう。

そう呟いて踵を返した時。

路地の入口に、ひょろりとした背の高い男と大型犬のシルエットが見えた。

こんな時間にこんなところを散歩?

と、少し不審にも思ったが、夜の商売をしているこの辺の住人だろう、と思い直し、軽く会釈しながら通り過ぎようとした。

すると。

「返して頂けませんか」

ちょうどすれ違ったところで、背の高い男が声をかけてきた。思わず聞き惚れるような、ものすごく渋い声だ。

大きな犬も唸り声をあげている。なんだっけ、ゴールデンなんとか、っていう犬種だったような…。

「は?」

「島田拓実様ですよね」

「そうだけど。あんた誰?」

「斎藤由香里様の知り合いの者です。『斎藤様のカードをお返し願えませんか』と、うちのモクが申しております」

「失礼な。何のことだよ」

「あなたが斎藤様の鞄から抜き取ったクレジットカードのことですよ。それをお使いになると、斎藤様の銀行口座から大切なお金が引き落とされてしまいますから」

「まあ、もし使われたらそうなるだろうな」

「あのお金は斎藤様があなたとの結婚式のために必死にお貯めになったものだそうです」

「俺はカードなんて盗ってないって言ってんだろ。それに俺たちの結婚式の為の資金だって言うんなら、俺が使っても問題ねえじゃねぇか」

「私もそう申し上げたのですが、うちのモクが『あのお金は斎藤様が再スタートをお切りになるのに必要なので必ず返してもらえ』と言ってきかないものですから」

「知らねぇよ。そんなこと」

「どうしても聞き入れて頂けませんか」

「知らねぇって言ってんだろ」

「仕方ありませんね…」

背の高い男はため息をつきながら、しゃがみ込んで足元の犬に何やら話しかけ始めた。

「馬鹿らしい、俺は行くからな」

拓実がそう吐き捨てて路地を出ようとした時、

いきなり背後の大型犬が2本足で立ち上がると、路地一杯の大きさまで巨大化し、

バクっ!

と音をたてて一息に拓実を呑み込んだ。


最初は犬のほっぺた辺りが膨らんだり凹んだりして、なにやら怒鳴っているような声らしきものが聞こえていたが、しばらくして、人気のない路地裏にボリっ、ボリっという、嫌な音が響きだすと、それらの声や動きは一切無くなってしまった。


数分後、咀嚼を終えた超大型犬の影が、ペっと何かを吐き出した。と、同時にシュルシュルと犬はまた元の大きさに戻っていった。

背の高い男は犬が吐き出したものを拾い上げると、大事そうにハンカチに包んでジャケットの胸ポケットへしまい込んだ。

「モク。大変お疲れさまでした。さ、帰ろう」

そう優しく語りかけると、背の高い男と大型犬は夜の闇に消えていった。




 翌日。

う~ん…。

斎藤由香里はベッドでひとつ伸びをすると、起き上がってカーテンを開けた。

びっくりするような晴天だ。朝日が眩しい。

昨日は悪夢のような、怒涛のような一日だったが、何故だか今はスッキリしている。パスタ専門店を出た後、荻窪の友人宅には向かわず、六本木の自宅に戻って早めに寝たのが良かったのかもしれない。

それとも『飾らない自分でいよう』、とあの時心に決めたからかな。

拓実のことももうなんとも思わなかった。昨日はあれだけ悔しかったのに本当に不思議だ。

連絡先も全て削除し、向こうからの着信も拒否するよう設定した。

美香とはもう友達ではいられないだろうけれど、いつかまた分かり合えると良いと思う。時間が解決してくれるのを気長に待つことにしよう。

それもこれもあのパスタ屋さんの料理と、イケメンマスターと可愛いモクちゃんのおかげだね。

お店の名刺をもらおうと来た道を戻った時は、なぜだか場所が分からなくなってしまったけれど、多分いろいろ動揺していたからだと思う。

今度、また必ず行きたいな……。

由香里はテキパキと出社の準備を始めながらそんなことを考えていた。


出社の準備が整い、いつものようにドアの新聞受けの中身を確認すると、

あれ?

昨日パスタ屋での会計の際には見当たらなかったクレジットカードが入っていた。

どこかで落として誰かが届けてくれたのかな?

ストーカーだったら怖いけど……。

まさかパスタ屋さんかな?

いやいや、そんな訳ないよね。

まあ、どっちでもいいや。とりあえず見つかったんだから問題ないってことにしよう。

なんにしろ今日はいい日になりそうだ。

よーし、頑張るぞ!

小さく作ったガッツポーズに合わせて、由香里は腕時計に目を移した。


あ、いけない、遅刻しちゃう!


「行ってきます!」

由香里は誰もいない部屋に向かって元気よく声をかけると、勢いよく玄関の扉を開けた。




           ※※※※



エピローグ


皆様、本日のお料理のお味はいかがだったでしょうか。


あれから斎藤由香里様は今までお貯めになっていた結婚資金で六本木のお部屋を引き払い、上石神井にお引越しをされたそうです。

それで、その際に今までたくさんお持ちだった形式ばったお洋服や装飾品、化粧品の類も全て処分されたようですよ。

え、もったいない?

でもそのおかげで「飾らない」ところがお得意先から気に入られ、大口の契約をお取りになり、社内表彰を受けて、この度めでたくご昇進されたと聞きます。いや、本当に良かったですね。


そうそう。

斎藤由香里様には今、結婚を前提にお付き合いなさっている方もいらっしゃるようです。

そのままの斎藤様を愛していらっしゃる、真面目で素敵な好青年のようですよ。

末永くお幸せになって頂きたいものです。



おや、どうやら次のお客様がいらっしゃったようです。

今度のお客様は若干お年を召された男性のようですね。

何やら深刻なお顔をなさっているようですが、どうなさったんでしょうか。気になりますね……。内容次第ではうちのモクが黙っていないかと。

それに、私もあの方にぴったりのメニューを考えなくてはなりませんね……。また忙しくなりそうです。


あ、いけない。また話し込んでしまうところでした。

では、皆さま。またのご来店を看板犬のモクと一緒に心よりお待ちしております。

それまでごきげんよう。


                                   【了】

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ぱすたやさん 山広 悠 @hashiruhito96

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