【創作百合SF】そして新たなる星の下へと

雨伽詩音

第1話そして新たなる星の下へと

 そうして、抹消されてしまう。この記憶も、データの破片となってネットの辺境で蓄積してゆくゴミのひとかけらとなってうずもれてしまう。

言葉を紡いだところでなんぴとにも届かないまま、忘失され、AIの中の養分のひとかけらとなって溶けてしまう。オリジナルは存在し得ず、有象無象の言葉の渦に飲まれて、消える。

 わたしという記憶を、わたしがもう二度と踏むことのない故郷の土に堆積した記憶を、刻みつけたかった、この海の底に。

 しかし言葉は降りしきっては消えるマリンスノウでしかなかったのだ、と気づいた時には、すでにわたしの言葉は平凡な言葉に置き換えられ、一般化されるために抽出されて、収集してきた故郷にまつわるレポートも、ガタついた文体も、ふるえる指で記した単語も、呑まれてしまう。渦の中の中心に欲望の塊があり、それをAIと人は呼ぶ。

 そしてそのAIが統括する都市、それがここ、防衛都市ネーロディアだった。世界各地で火の手が上がる今にあって、唯一の緩衝地帯でもあり、多くの都市機能が備わった土地で、市民の多くはAIによってあらゆる情報を握られている。私の型落ちのPCはもはや骨董品とも呼べる代物で、ネーロディアには正式に登録されていないジャンク品だった。

 ミキサーによって粉々になったオレンジや林檎が混じったクレンズジュースを干して、その代物がほとんど人体にとって意味をなさないことを知りながら、私はグラスを手にしたまま膝を抱える。あなたが好むヘルシーな食事は、この都市にあっては模範的とされるものでもあった。

 そろそろ潮時だろう。わたし自身のIDを同期させないように、PCのアップデートを拒んできた影響で、もはや起動させるだけで相当の時間を要するようになってしまっている。ボディが熱くなるのを手のひらで感じなら、私はなおも文字列を入力しつづける。

 そもそも人体への内蔵型端末が主流となった現在において、PCにかじりついて古いネットワークに侵入し、そこからデータを収奪しているわたしのような人間は、ほとんど絶滅危惧種と言っていい。

 AIによって構成されたネットワーク・メテラには、おおよそ多くの人間が必要とする情報が備わっている。戦争の影響を無化するために無菌化された状態で。旧ネットワーク世界には多くのバグやウイルス、あらゆる争いに人々を駆り立てるための誤情報が跋扈しており、それらを避けるためのワクチンソフトももうとっくに生産終了となってしまっている。私はそれを辺境のルートで手に入れて、この今にも壊れそうな愛機にインストールしって使っているのだった。

「ミュメール、入るわよ」

 あなたはノックもなしにわたしの部屋に侵入してくる。わたしのからだの奥も、あなたは知っている。いつだって脅かされている、このわたしという肉体と精神は。越境してくる他者に対してあまりに無防備で、すぐにその境界は揺らいでしまう。

 そうした侵入から身を守るために得た手段は忘却を置いて他になかった。

 有毒な旧ネットワークの海にダイブしている間、わたしは常に危機に晒されているし、現実世界にあっては、役所からのIDを更新せよとの督促のメールを無視し続けて八度の警告を受け、あなたからは再三にわたる肉体的な干渉を受けている。あなたとひとつに溶け合うことでしかなぐさめられない夜がまた来る。あと三時間後には。

「リアン、夜が来る前に言っておきたいことがある」

「なあに?」

「すべて消去してほしいの。私のPCに埋まっているテキストデータを」

「どういう風の吹き回し? ミニマリストなんて旧時代の遺物でもう流行らないけど」

「そうね……あなたの手で奪ってほしいの。最後まで」

「それはまた熱烈な告白ね。辺境から来たあなたは、デルメイド戦争によって故郷と両親と、発症したPTSDによって記憶を失った。その記憶の代替物として、あなたはただひたすら旧ネットワーク上のデータを漁り、自身の断片的な記憶をメモに記して、そのログをPCに残しつづけた。それを奪うということは、あなたの魂を殺めるにも等しい行為、というわけだけど」

「もう、わたしのデータがメテラに呑まれるのも時間の問題なの」

「泣き言なんて珍しいわね」

「督促が九度目になったら強制的にIDが更新される。この子は多分もう保たない」

「じゃあ、せめて最後に名前ぐらいつけてあげたら?」

 リアンは命名癖があり、あらゆる家電道具一式に名前をつけるのが趣味だった。果てには枕にまで名前をつけようとするので、ムードが壊れるからやめて、と伝えたのだったが、結局彼女はメメルという名前をつけた。わたしの名によく似た名前で、そういう趣味はないからやめてと伝えても、私たちの子供みたいね、とあなたは笑うのだった。

「名前はつけない。製品名と型番だけで十分だわ」

「そう、残念。それで明日だっけ、役人が来るのって。随分とアナログよね」

「仕方がないでしょう。形ばかりでもそういう証が必要だということだから。未だに人間に仕事は残されているということよ。そうして非合法なネットワークに接続してデータを漁っていることがバレたらここにはいられない」

「それでいいの? あなたは。らしくもないわ」

 リアンは卓上のPCを覗き込み、これまたもはや骨董品店でもお目にかかれないようなメモリを差し込んだ。わたしがかつてお守りとして渡したことがあった品だった。中身はすでに抜き去っていて空になっていたはずだ。

「何を……」

「もらうわ、あなたのデータのすべてをね。さあ、荷造りをして。あなたとはいい時間を過ごせて楽しかったわ」

「でもそのデータのコピーは、アクセスするにはパスが必要で……」

「メメル、でしょ。それぐらいわかるわ。さあ、行って。安全な場所なんてここ以外にないのかもしれないけれど、あなたの旧ネットワーク経由の連絡先には匿ってくれる人がいるはずでしょ」

「見たの?」

「恋人の連絡先ぐらい、大抵の女は把握しているものよ」

「リアンが『すべて消して』だなんて突っかかってくる女の子じゃなくてよかったわ」

「そういう一途なのが好み?」

「まさか」

 わたしは笑ってリアンの頬に頬を寄せる。やわらかな感触が触れ合って、すぐに形の良いあなたの唇がわたしの耳を軽く食む。

「じゃあね、ミュメール。あなたの命、確かに預かったわ」

「さようなら、リアン。またどこかで」

 わたしは手早くワンピースを脱ぎ捨てて旅装に着替えはじめる。死地をゆく旅のはじまりに贈られたキスの感触を耳に残して、データに変換され得ないあなたの声を、壊れかけた胸のうちにとどめて、わたしは夜空の星を見上げた。

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