将来



「うん、流星くんとなら付き合いたい」


 僕は全身から湧き出る肯定の二文字を必死に抑えて、息をんだ。菖蒲は、僕が受験に落ちた時の事をまだ知らない。壁を作っていたことも、恐らく気づいていない。理性が夕焼けを噛み砕いて、真夏の熱気すらも洗い流した。このまま菖蒲の支えになって良いのかと。しかし、もう引き返すことはできないし、選択肢は単純で進むべき道は明らかだ。過去の事を話せば、もう二度と戻れない。ここで断ってしまえば、もう二度と戻れない。そして、同じ一歩なら前に進むべきだ。たとえ将来が短命となっても。僕は胸に手を当て、強く決心した。


「その前に話しておきたいことがある」


「何?」


「実は受験に落ちたあの日、菖蒲も落ちていてほしいと思ったんだ。その時から、連絡することも関わろうとすることもできなくなって、消極的になってる自分がいた。そんな状態で僕は、逃げるように他の女性と恋愛をした。だから今度こそは、許されるのであれば、ちゃんと罪と向き合って、ちゃんと謝りたい。……本当にごめんなさい」


 しかし、菖蒲は驚くこともせず、平静としたたたずまいで僕に言った。


「なんだ、そんなことか。それなら私も謝る事がある」


「えっ」


「さっき私、信頼できる人が流星くんしかいないって言ったけど、本当は、流星くんなら心にできた空洞を満たしてくれるんじゃないかって思って誘ったの。だから、私は新しい男と付き合うために彼氏と別れた悪い女と言っても過言ではない」


「いやいや、浮気されてるのに悪いとかないでしょ」


 一緒になって緊張から解放されたようにクスクスと笑った。二人の涙は、既にこの瞬間を記憶する瓶から溢れ出ていたけれど、さらに押し詰めようと言わんばかりに、ひたすら笑った。


「こんな僕でよければよろしくお願いします」


「こちらこそ、こんな私でよければ!」


 よくある言葉だったけど、それが一番、この場に似合っていた。菖蒲の背後では雲の隙間から夕焼けが輝いていて、菖蒲も赤く照らされていた。そして、雨上がりの蒸し暑い空には虹がかかっていた。その光はまるで幸運の兆しを指し示すように空へと立ちのぼっている。この光景に心を奪われていると、不意に菖蒲が話し始めた。


「アヤメの花が持つ意味知ってる?」


「意味って花言葉のこと?」


「そう」


「わからないや、心意気とかかな」


「それ菖蒲あやめじゃなくて菖蒲しょうぶね。わざとやってるでしょ!」


「いやいや、ほんとに知らないって」


「まぁ花言葉は菖蒲しょうぶとほとん変わらないからいいんだけどさ、アヤメ科の植物って西洋ではアイリスって呼ばれてて、イリスっていう女神の侍女が、虹の女神に生まれ変わった時、一緒に誕生した花なんだって。だから、私もたった今あの虹と一緒に生まれた存在なのかなって思った」


「突然すごいこと言うね。でも確かに面白いかも」


 その後も、たわいもない会話を続けながら土手沿いを戻り、駅で解散した。まだ手は痙攣けいれんしていて、心臓は父さんの貧乏揺すりのように小刻みに鳴り響いた。太陽が沈んで、空は藍色になったけれど、スマホケースの中にあるプリクラの写真が、太陽をまだ記憶している。以前の恋人が本当の意味で僕の天使であるように、菖蒲は本当の意味で恒星のような虹の光になった。


 そして最後に、僕らは一つ約束をした。


「もし同じ大学に行けたら、また中学のときのように、窓際でたくさんお喋りしよう」


 こうして僕らは、かなり遅れて受験期に入った。連絡や会うことは最小限にして、受験が終わったらやりたい事や行きたい場所の話ばかりしていた。僕は過去問を解いて、中学ではあまりできなかったアウトプットをする練習を重ねた。菖蒲も、復習をするところから頑張っているらしい。


 将来の事を考えるのは楽しかった。今が苦しいからこそ、岐阜で過去に浸るのも良かったけれど、菖蒲との将来を考えることの方がずっと良かった。記念日には入場制限付きの遊園地へ行って、天気の良い日には自然に囲まれた場所でチルい気分になって、雨の日にはいつもの喫茶店で雑談をする。恋人なら当然やってる事だけど、大切なのは、何をするかじゃなくて誰とするかだ。菖蒲と恋人として過ごせる日々は、紛れもない僕だけができることだ。


 十月になって、母さんが退院することになった。少し迷ったけれど、僕も病院へ迎えに行くことにした。父さんが受付で、自身の名前と退院の迎えという旨を伝えると、母さんのいる病棟に案内された。病室には母さんが横になっていて、相変わらず浮かない顔をしていた。それでも、父さんは笑顔で話しかけた。


裕子ゆうこ、今日は流星も来てるぞ」


 それを聞いた母さんは僕の方を向いて、異形でも見るかのようにまぶたを開いた。


「少し見ないうちにまるっきり変わったわね」


 身長も体重も変わっていないし、髪型だって変えていない。それでも母さんは僕が変わったと言う。


「どこら辺が変わったの?」


 母さんは心の底から安堵した様子で言った。


「あんたずっと苦しそうだった。何かを抱えて辛そうだった。でも今は、明るい顔をしてる」


 それを聞いて、すかさず僕も言い返した。


「母さんこそ、さっき僕を見てから、人が変わったように明るい顔をしてるよ」


 その後、父さんは医師の先生に挨拶をして、母さんを車に乗せて家へ運んだ。髪は乱れて、目元に染み付いたクマが、まだ完治していないことを物語っている。それでも、誰も心配することは無かった。むしろ、病室に起こったあの笑顔が、母さんと一緒に家まで運ばれているように感じた。


 三月になって、あっという間に大学受験が終わった。僕の結果は「合格」だった。そして、彼女からの結果の報告は「不合格」だった。二人で東京へ行って、半同棲はんどうせいをするつもりだったので、僕もかなり落ち込み、どう返事をするか悩んでいた。しかし、彼女は僕が返事に困ることを見越していたのだろう。実は、その大学の近くの専門学校を受けていて、そこには合格したという報告がきた。


「知らないうちにそんなことしてたの」


「リスクヘッジ、これ社会人の基本ね」


 彼女は勉強時間が短かっただけで、僕なんかよりも余程賢いらしい。学歴なんてものは当てにならないと証明された気分だ。


 それからまた、かなりの時間が流れて、再び八月がやってきた。今、僕は長良川の土手で鵜匠と雑談をしている。もちろん、菖蒲も一緒に。

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鵜飼の記憶 飴。 @Candy_3

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