菖蒲



 僕はすぐにその意味が分かった。恋愛で別れを経験するというのはそういうことだ。勉強なんてする暇は、作らなければ全くないし、別れた後もそんなことをする心の余裕はない。僕自身も単語帳を開く度に、感情が込み上げる時期があった。


 あの瞬間だけは片思いをしていた方が、ずっと楽だったかもしれない、ずっと一緒にいられたかもしれない、と本気で思う。


「そうなんだ」


 反応に困って、当たり障りのない相槌あいづちを打った。菖蒲はどうしたいのかと訊きたくなったけれど、恐らくどうしようもないから、こうして僕と会ったんだと思う。


「菖蒲、前よりずっと可愛くなったよ。別人かもしれないって思って、話しかけるの躊躇ためらってたもん」


「ありがとう。流星くんに言われるほど嬉しいことはないね!」


 そのとき僕は、長良川の土手で知り合ったおばあちゃんのことを思い出した。


「菖蒲は僕なんかよりも長い間付き合ってたから、苦しみはずっと大きいものなのかもしれない。けど、ほんの少しでもその記憶を大切にしたいと思えるなら、心に留めてもいいと思う。過去の楽しかった日々は紛れもない本物なんだから」


 普通なら話を聞いて共感するべきなんだと思う。でも、それだけでは一生苦しみから抜け出せない人だっていることを僕は知っている。そして、菖蒲は少し微笑んだ。


「なんでわかったの、忘れられないって」


「言ったじゃん、僕も恋愛したって」


「そうでした」


 その場の空気を変えるように、飲み物が運ばれてきた。


「こちらアイスティーとホットコーヒーになります。ミルク等はご自身で調節してください」


「ありがとうございます」


 僕はその空気の変化に合わせて質問をした。


「どんな人だったの? 彼氏さん」


「んーっとね、優しい人だったよ。流星くんみたいに寄り添ってくれるような人だった。でも、浮気されてたみたいで、問い詰めてみたの。そしたらごめんって言うからさ……」


「そっか、誰も信じられなくなるね」


「うん、だから唯一信頼できる人と会いたい気分になっちゃって」


 菖蒲の何気ない一言が僕の心を掴んで離さない。僕が今どんな顔をしているのかと考えると、表情筋が強張こわばる。


「話してくれてありがと。それこそ大正解だよ」


 その時、テーブルにフレンチトーストとカヌレがやってきた。


「そういえばなんでカヌレにしたの?」


「あぁ、実はさ、流星くんと来なくなった後も、一人で勉強しに通ってたんだよね。それで、何を注文するか悩んだ結果、色々試してみようってなって、カヌレとコーヒーが最高にチルいことに気がついた」


 彼女は中学校時代から、「チルい」という言葉をよく使っていた。落ち着くっていう意味らしいけど、大麻を吸うという意味もあるらしく、汎用性は高めだ。


「いつも同じの頼んでたから驚いたよ」


「紅茶じゃカフェインが足りないんだよ、カフェインが」


「カフェイン中毒かな?」


「そうかもしれない。どうしよう」


 約二年分の隔たりが崩れてきたのを感じた。それからは、長良川に落ちた話や、僕の元恋人の話、菖蒲の二年間であった出来事などを話しているうちに、三時間が経っていた。もちろん追加でアイスなどを注文して、お店側にも気を配った。


「じゃあつまり、私たちは結局、同じような高校生活を歩んできたんだね」


「僕は勉強してるけどね?」


「うるさいなぁ」


 菖蒲は窓の方に顔を逸らすと、その状態のまま言う。


「お、雨止んでるね。一回お店出て、散歩でもしながら話そうよ」


「あり」


 僕らは会計を済ませてから、入口のドアを押して、鈴の音と共に外の空気を吸った。


「なんか天気も良くなってない?」


「ほんとだ」


 菖蒲に言われて空を見上げると、日光が雲の隙間から神々しく天使の梯子を下ろしていた。


「どこ行こっか」


 菖蒲は行き場を委ねたい様子で僕に訊いた。


「土手だね。ここから一番近いのって田川たがわだよね」


「やっぱりそうなると思ったよ」


 こうして僕らは土手沿いを散歩しながらお喋りを続けた。店内では言いずらかったことも、土手ならお構い無しに言えるので、より深い話もするようになった。途中に日陰のベンチを見つけて、僕らはそこに座って、太陽が赤く染るまで雑談を続けた。


「これからも、辛いことがあったらなんでも話してよ。僕はいつでも味方するから」


「どうしたの急に」


父さんの血が混ざっているからか、あるいは夕焼けに心惹かれてしまったからか、突然これまでの話とは関係の無い事を言ってしまった。


「僕は恋人とずっと愛し合えるって本気で信じてた。けど、突然いなくなって、孤立感に囚われて、それから人を信じることもできなくなって……。それでも、菖蒲だけは昔からずっと僕の光になってくれて、それで……」


 溢れ出す言葉に溺れて、溢れ出す感情に支配されて、まるで時が止まったように、長い静寂が訪れた。


「分かるよ。私もずっと同じだった。一人だったらこんな人生有り得なかったって本気で思う。流星くんがいてくれたから、私の思い出は幸せで詰められていたんだと思う」


「ありがとう」


 菖蒲も親友である以前に一人の女性だ。強い人に見えても、抱えているものは同じだ。能天気に見えても、苦難を生きているのは同じだ。だけどもう、菖蒲の心の支えは無い。大学に行く理由も勉強をする理由も気づけば曖昧だ。そんな状況で成長を試みるのは、恐らく無謀な挑戦だろう。だから少しでも菖蒲を支えたいと思って、僕は「味方をする」なんて言ったんだろう。


 少し沈黙が続いたけれど、菖蒲が何か言葉に詰まっているように感じて、何も言わなかった。すると、ようやく口を開いて、僕に伝えた。


「……だからさ、今度は私たちで、支え合ってみたいなって」


「え、それって……」


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