あこがれはあこがれのまま
眞壁 暁大
第1話
一九四三年 桜の咲く頃
陸軍航空審査部にもダンピール海峡航空戦の詳報が届いた。ラエを目指した輸送船団の大半は到着し、揚陸も完了して大成功ということで陸軍中央は沸き立っていたが、その熱が福生にも及んでいる。攻勢は頓挫したものの、飛行場を整備する重機や電波探知機、それになにより増援の戦闘機隊が到着したことでニューギニア戦線の防衛体制は従前より格段に堅固なものとなった。浮かれるのも致し方ない。
いっぽうでこれに間に合わなかったことを悔しがる面々もいる。
ニューギニア防衛をさらに固めるべくラバウル進出を予定されていた飛行68戦隊の将兵はとくにそうだった。順調ならダンピール海峡航空戦に間に合う時期に進出していたはずだが、部隊の錬成が不十分であると進出を拒否してでも万全な体制を整えるべく奮闘し続けていた戦隊長の表情にも、落胆の色は隠せない。
たまたま陸軍審査部を訪れていたキ61 三式戦闘機 飛燕 の主任技師はいたたまれない思いで一杯だった。
完調ならばこれほど良い機体はないのだから、と68戦隊の誰もが慰め、激励してくれはするが、大一番に自らが手掛ける戦闘機を間に合わせることができなかった現実が重すぎる。
さらに重い事実も主任技師は抱えていたのだが、陸軍初の本格的な飛燕戦闘機隊である68戦隊の面々には知られるわけにはいかなかった。
* * * * *
キ61 三式戦闘機 飛燕は、陸軍の輿望を担って誕生した最新鋭戦闘機だった。試作機が初飛行した時、陸軍のこれまでのどの戦闘機よりも重武装で、陸軍のこれまでのどの戦闘機よりも高速で、陸軍のこれまでのどの戦闘機よりも遠くまで飛べた。
最初から20ミリ機関砲を積んでいるのは兄弟機であるキ60と飛燕だけだったし、580km/hの最高速度はキ60よりも、制式化されたばかりのキ44 二式戦闘機よりも速かった。航続距離はあわてて戦局に応じた遠距離戦闘機として採用されたキ43 一式戦闘機よりも長い。陸軍が熱狂するのもとうぜんの高性能を叩き出したのである。陸軍は即座に制式化を決め、川崎に早急に大量生産するように指示を出した。
しかし、そのエンジンがガンだった。
ドイツからライセンスを得たDB601エンジン、国産名ハ40エンジンは、なるほど優秀な水冷エンジンではあったが、川崎で量産をはじめるとトラブルが続出。燃料噴射ポンプの故障や冷却水・オイル漏れなどが頻発した。
繊細な整備・調整の必要な燃料噴射ポンプとタイトな設計の冷却水循環パイプの取り回しなどは生産工程でも頭痛の種となったが、整備するとなるとさらに困難が大きい。キ10 九五戦闘機で水冷エンジンを扱ったことのある整備兵でも戸惑う、次元の違う扱いの難しさがハ40にはあった。
このような状況では、とても実用機としては運用できない。68戦隊長がラバウルへの進出を拒否したのも宜なるかな、という状況であった。
とはいえ、ニューギニア方面が風雲急を告げる中でも新鋭機が投入できないというのは深刻な事態には変わりがない。とくに先行して配備されていたキ43が、連合軍の重爆撃機に対してまったく刃が立たないという情報が寄せられてからはキ61に対する期待と圧力とはいやが上でも大きくなる。
それでもキ61が実用段階に達するにはあと半年は必要という現実は覆しようもなく、結局のところこの時に増援に飛び立ったのはキ43の生産資源を融通して増産して、陸軍に供与された零戦だった。
これもダンピール海峡航空戦には間に合わず、本土から増援として送った中で間に合って、かろうじて戦線で活躍できたのはわずか2機の雷電だけだったのだが、その後のラバウル・ニューギニア方面の戦力増強としては順調に進出と配備が進んでいる。陳腐化しつつあるとはいえ、当面つかえないキ61に比べれば戦力化出来ているだけ陸軍零戦は遥かにマシだった。
しかも、陸軍むけ零戦は、その場しのぎの借用での運用から、本格的な採用に向けて改良も進められている。
* * * * *
そうした状況の中で、キ61の主任技師が福生を訪れていたのは陸軍次期戦闘機の協同テストのためだった。
この時に協同テストに供されたのは
キ61−Ⅱ
キ100 (陸軍仕様零戦 余っていたキ番号がこれしかなかった)
キ10−Ⅲ
の三機種だった。
それぞれ
キ61-Ⅱは調子の上がらないキ61の抜本改正型であり、もはや別機と言っていいほどの改良を加えた機体。
キ100は陸軍仕様零戦として、翼砲を陸軍の20ミリ機関砲ホ5に換装し、防弾タンク、操縦席防御を強化したもの。海軍の零戦のままでは防御力に不満が大きかったのでそこを特に重点的に改修した機体。
キ10−Ⅲは九五戦闘機の最終発展形と目される機体で、短距離離着陸性能を強化して直協支援機として整備されるほか、艦載機としての運用が決定した機体。
といったもので、とくにキ10-Ⅲは量産予定がなかったものの、ダンピール海峡航空戦において、陸軍空母「佐倉丸」より臨時に使用された機体が望外の大活躍を見せたことで急遽整備が決まった機体だった。
搭載エンジンが陸軍には馴染みの薄いイスパノ・スイザ系のイスパノスイザ12Yエンジンであったが、陸海軍の水冷エンジン生産体制の抜本的な見直しによって、供給の目処が立っていた。
陸海軍横断で水冷エンジン生産の工場を再編することにより、海軍広工廠に生産権が移管されていたイスパノ12Yについてはもともとイスパノ・スイザ系のライセンス生産・開発に携わっていた三菱の水冷エンジン部門の技師も合流して量産体制を確立することになり、川崎の水冷エンジン開発部門の一部も、ここに合流する手筈になっていた。
さらにDBエンジンについては川崎での生産は停止され、川崎に比べるとずっと規模の小さな愛知航空機で陸海軍双方に向けた量産が継続されることとなった。
川崎の水冷エンジン関連の人材の多くはここに合流し、以後のDBエンジンの改良は愛知・川崎協同で進められることになるが、陸軍は川崎の飛燕、海軍は空技廠の二式艦偵の運用実績から、今後のDBエンジンの採用は実験機や少数機、整備の手間をいくらかけても良い特殊機へと用途が限定され、主力機・量産機へのDBの搭載は以後禁止されることになった。
すなわち、日本におけるDBエンジンは、実質的に将来が断念された格好である。ゆえに、キ61-Ⅱもまた……DBエンジンを積んだままでは延命できないことが確定した。
* * * * *
高官らの見守る中で試験は順調に進む。
零戦新型であるキ100は水メタノール噴射装置のハ115Ⅱの調子がイマイチなようで、上昇中にヘタったように機首を下げる挙動が何度かあった。
急上昇の力強さに感嘆していた高官らもこれには少し期待外れという表情を見せた。彼らにしてみれば海軍のお下がりであっても今すぐに期待できる最良の飛行機が零戦新型だ。表情が曇るのもわかる。
ついで登場したキ61−Ⅱを高官らは冷めた目で見上げていた。
彼らにもDB搭載型のキ61の悪評は頻々と伝わっている(そのような熟成不足の戦闘機を、期待が先走りしすぎて早々に制式化、量産を指示したのも彼らなのだがそのことは覚えていないらしい)。
聞えよがしの皮肉を受け流しながら、主任技師はキ100の後を追うキ61−Ⅱを見上げていた。
おお、とどよめきが上がったのはキ100を追い抜いてキ61−Ⅱがさらに高度を上げたところだった。もはや誰もが双眼鏡なしには追いかけられない高度に達した二機は
前後入れ替わってから、キ100がさらに引き離されている。
高官の一人が主任技師の肩を叩く。これなら量産間違いなしだな、とも。主任技師は曖昧な笑みを浮かべながら頷いた。
(これでもまだ)
完調ではないのだけれどな。
新たな心臓を得たキ61-Ⅱが空を駆け上るのを、主任技師は見上げている。
キ61が初めて飛んだ、あの日のような高揚は湧いてこない。
そのことが寂しかった。
キ100を抜き去ったのは単純な馬力の差。
ハ112Ⅱを積んだキ61−Ⅱは最低でも1300馬力。一方のキ100は水メタノール噴射装置を起動して最大でも1200馬力。いくら元が零戦とはいえ、防弾タンク・操縦席防御で重量が増えているキ100では分が悪すぎる大きな差だった。
しかもハ112Ⅱにも水メタノール噴射装置は装備されている。それを起動すれば1500馬力も発揮できるから差はさらに広がる。
にも関わらず主任技師がテストパイロットに水メタノール噴射装置の使用を厳禁したのは、それがまだ未完成だからだった。もしも使用してキ100とおなじようなもたつきを見せてしまえば、ただでさえ元の評価の低いキ61にとっては致命傷になりかねない。
幸いというべきか、キ61−Ⅱには零戦のような鮮烈な印象がない。ゆえに前任機を超えるために優れた性能を示さなくてはならないキ100のように冒険せずとも、期待値の低いキ61−Ⅱは「ちゃんと飛べば」それだけで評価される。
茶番のように楽勝の勝負であった。
* * * * *
一九四三年盛夏。
後日。
キ61−Ⅱ(と、ついでにキ100)の制式化が決定した旨、主任技師に連絡があった。同時に内示されていたキ61の生産中止も前倒しで実施される旨、指示も伝えられる(ちなみに、この失敗作であるキ61も、先走って採用した手前失敗と認めるわけにもいかず、後付でキ61-Ⅰと番号付けされているのが、役所らしいといえばらしい)。
直ちに、と強調して指示された以上、エンジン生産の遅延で生じた多数の首無しのキ61も、急いで工場に送り返して空冷エンジンへの換装工事を始めなくてはならない。
(けっきょく、俺達にはこれだけか)
滑走路の傍にズラリと並べられた首無しのキ61、もといキ61−Ⅰ、飛燕。
その上空を航過するキ61−Ⅱ、飛燕2型の高いエンジン音――さいきんは水メタノール噴射装置の稼働も安定してきた――に圧されながら。
主任技師は深い納得と、少しの苦い諦めとを呑み込んだ。
あこがれはあこがれのまま 眞壁 暁大 @afumai
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