憧憬の調べ

ぽんぽこ5/16コミカライズ開始!

残響

 夏川なつかわかなでは、小さな町で生まれ育った。家ではほとんどひとりで過ごすことが多かった。父は無口で仕事に追われ、母は優しかったが忙しく、家庭は静かだった。


 学校では、静かな彼女の存在は徐々に薄れ、気づけばいじめの標的になっていた。最初は、教科書がなくなる程度の悪戯だった。しかし、次第に無視され、机には落書きが増え、ついにはロッカーに押し込められたこともあった。


 ある日、体育の時間に水をかけられた奏は、びしょ濡れのまま廊下を歩いた。教室に戻ると、椅子を引くたびにギシギシと嫌な音が鳴る。誰かがネジを緩めたのかもしれない。クスクスと笑う声が、彼女の耳を突き刺した。


 授業中、わざと机を揺らす音、鉛筆を転がす音、何気ないノイズすら、彼女を追い詰めた。音が怖くなった。誰も助けてくれない。先生に相談しても、「気にしすぎじゃないか」と軽く流されるだけだった。


 夜、眠ろうとしても、あの笑い声や、軋む椅子の音が頭から離れなかった。


 でも——音楽だけは違った。


 雨の降る夜、学校の屋上でひとり泣いていた。もう消えてしまいたい——そう思ったその瞬間、イヤホンの奥から流れてきたのは、雨宮れいの歌だった。


「世界が君を捨てても、僕がここにいるよ」


 金属のフェンスを叩く雨音にかき消されそうになりながらも、その声だけは鮮明に届いた。彼の歌が、自分を抱きしめてくれるように感じた。


 まるで、心の奥で揺れていた音叉が共鳴するように——


 ふいに涙が溢れた。


 ——こんな歌を歌いたい。


 その日から、奏は必死に努力した。アルバイトでギターを買い、歌詞を書き、ライブハウスで歌い続けた。いつか、玲に届くように。


 そして、ついに夢が叶う日がきた。玲の代表曲『灯火』のアンサーソングとして彼女が書いた『あこがれ』が認められ、メジャーデビューが決まった。


 初めて玲と会った日、心は震えた。


「君の歌、聴いたよ。僕の歌に返事をくれて、ありがとう」


 優しい声。ずっと聴いていたはずなのに、直接耳にすると心の奥が震えた。


 ああ、私は——この人を好きになってしまったのかもしれない。


 彼女は思い切って気持ちを伝えた。


「玲さん、私はあなたの歌に救われました。そして、あなたを——」


 玲は微笑んだ。


「ありがとう。でも、ごめんね。僕には大切な人がいるんだ」


 彼の左手には、指輪が光っていた。


 胸が締めつけられた。でも、後悔はなかった。


「私の気持ちは、ただの憧れだったんですね」


 その夜、彼女はずっとそばにいてくれたバンド仲間の真司しんじにプロポーズした。


「私はあなたと一緒に、新しい音楽を作りたい」


 二人は夫婦となり、新たな音楽の道を歩み始めた。


 しかし、運命は残酷だった。


 彼女は喉の病気を患い、手術を受けた。成功したものの、声を取り戻すことはできなかった。


 どんなに口を開いても、声は出ない。喉が震えない。ただ空気が漏れるだけ——それはまるで、存在を否定されるような感覚だった。


「歌えない私に、価値はあるの?」


 彼女の心は、深く沈んでいった。


「歌えなくても、奏は奏だよ」


 真司は励まし続けたが、彼女の心は空っぽだった。


「愛してる?」


「もちろん」


「……私はあなたを愛しているのか、分からない」


 自分が本当に愛したのは、歌だったのかもしれない。


「あの人から借りた音は返した。だから、もういいよね?」


 それは恩赦を求めるような呟きだった。


 そう言い残し、彼女は静かにこの世を去った。




 奏を失った真司は、深い悲しみに沈んだ。


 そして気づいた。


 彼女が言っていた「借りた音」とは、玲の歌のことだった。


 玲の歌がなければ、奏はあのとき生き延びなかった。でも——玲の歌があったからこそ、彼女は絶望した。


「もしも玲がいなければ……」


 愛する人を奪ったのは、玲の存在だったのかもしれない。


 いや、違う。玲が奪ったのではない。玲の歌が、彼女を狂わせたのだ。


 真司は決意した。


 玲に、自分の痛みを伝えなければならない。


 そのためには、


「玲も、大事な人を喪ってもらわないと――」

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憧憬の調べ ぽんぽこ5/16コミカライズ開始! @tanuki_no_hara

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