第11話 「お待たせ、るーちゃん」
月曜日の放課後。私はひとり、南校舎の廊下を歩いていた。特別教室が多く振り分けられたこの校舎は、放課後は人もまばらだ。昼下がりの陽光が目に染みるのを感じながら、私は階下は続く階段を目指す。徹夜は久しぶりだった。いつも練習で疲れていて、すぐに眠ってしまうから。
階段を降りると、すぐ先に職員室がある。提出物を手にして遠慮がちにうろつく生徒や、進路相談とおぼしき先輩など、数人の出入りが見受けられたが、ここにも生徒はほとんどいなかった。
私は職員室の座席表の掲示を見て、
「宥下先生」
少し気が引けたが、私はそう呼びかけた。もともとこの時間に呼ばれていたのだ。遠慮することはないだろう。
「結島さん。ちょっと待ってね……」
先生はパソコンをスリープ状態にすると、ファイル棚からいくつかの書類を抜き取って、こちらへ歩いてきた。着いてくるように言われて、先生のあとから隣に並んだ部屋のひとつに入る。『面談室2』という表札がかかっていた。
白いな、というのが第一印象だった。たぶん、壁が近いからそう思うのだろう。普通の教室に比べるとかなり手狭で、横長のデスクひとつに、それを挟む椅子をふたつで、この部屋はほとんどいっぱいだった。うながされて、私は一方の席に腰掛ける。
「結島さん、ね。はい。まず、退部届のほうは担任の先生から預かっています。別に、無理に引き止めたりはしないけど、どうして辞めようと思ったのかとか、いま結島さんがどういう状況なのかとか、これからのこととか……そういうことを、ちょっとお話してもらうことになってるので、まあ、よろしくお願いします」
お願いします、と私は繰り返して、頭を下げる。宥下先生は中等部の吹部の顧問だった。低い身長と顔立ちの穏やかさに反して、かなりのスパルタで知られている。名前は随分と可愛らしい感じなのだけれど、誰もが「宥下先生」と名字のほうで呼ぶのは、そういう理由からだった。
先生はファイルからなにかの書類を取り出して、眺めた。ふんふんと何度か頷く。
「結島さん、成績いいねえ。吹部の中じゃ、けっこう上のほうじゃない?」
「わかりません」
私は答える。打っても響かないにもほどがあるが、わからないものはわからないとしか言えない。
「そっか。となると別に、勉強のために辞めたい、ってわけでもないんだ。わりと多いんだけどね、そういう人」
「いえ……別に、そこまで勉強が得意なわけではないので。これからは、もっと頑張らなきゃなと」
「なるほど……でも、直接の理由ってわけでも、なさそうかな。じゃあ、なんで辞めようと思ったのかって、教えてもらえる?」
「……その、これと言って、というのはあんまり無いんですけど。まあ、練習とか、人間関係とか」
私は思いつくままを口にする。別に、真面目に答える必要はない。どうせ生徒の意志に反して部活を続けさせるなんてことはできないのだし、口八丁のその場しのぎは普段から繰り返していることだ。
「人間関係ね。それはその、例えばいじめとかではなく。そういうことがあるんだったら、辞める辞めないとは別に相談してもらいたいんだけど」
「違います」
「そっか。結島さんはトロンボーン……
「……普通でしょうか」
人間関係が原因で辞めたいというのに、普通とはどういうことか。自分でもそう思うが、案の定、先生は追求してこない。
「なるほどね。じゃあ、逆にみんな引き止められたりはしないの。もちろん、だから残れっていう話じゃなくてね。それでまた人間関係が悪くなっちゃうことも、あるからさ」
「………………」
私は思わず言葉に詰まった。末結。末結はきっと引き止めるだろう。有朱のこともある以上、彼女は必ずなにがあったのか知りたがる。自分の周りで、自分の知らないままに関係が破綻していくことを、彼女は決してよしとはしないはずだ。
関係ないけど。
「止められるかもしれませんが、わかってもらいます。友だちなので」
「そう。ご両親は、なにか言ってたかな」
「そちらも特には。あまりそういうことには干渉しない親なので。部活も、勝手に入りましたし、辞めるときも勝手にさせてもらいました」
嘘ではない。保護者のサインと印鑑が必要な部分は自分で代筆したので、勝手と言うならこの上ない勝手だ。
「なるほどねえ。オーケー、オーケー。さっき、人間関係以外にも、練習とかって言ってたけど、そっちはどうだった?」
「どう、と言うのは」
「身体的に負担になってとか、伸び悩んでたとか、そういうの。もしそういう理由なら、相談してもらえれば、解決するかもしれないじゃない」
「いえ、そういうわけでは……。ただ、いくら練習が楽だったところで、辞めたほうが一番楽なのは確かですし」
「そうねえ」
宥下先生は書類をかざしたまま、椅子にもたれるようにした。私は少し不安になる。さすがに当を得ない回答がすぎただろうか。でも、これは本当に本音なのに。
「トロンボーンか。結島さんは経験者だっけ」
「はい。初等部のブラバンから」
「ああ、じゃあけっこう歴は長いね。その辺は大丈夫なの。たぶんこの先、ちゃんと楽器触れる期間とか、あんまりないと思うけど」
「はい」
私の答えに、先生は何度か頷いた。
「うん。じゃあ、結島さんが辞めるにあたって、特に問題はなさそうと。了解しました……じゃあ、退部届を受理します。もし部活絡みでまたなにかあったら、言いに来てもらっていいから」
「はい。ありがとうございました」
頭を下げて私は立ち上がる。先生のあとに面談室を出て、職員室とは逆方向に歩を進める。別に、これ以上職員室に用はなかった。
―――――
なんとなく拍子抜けな気分になりながら、私は校内を歩いていた。もっと引き止められるかと思った……と言ってしまえばうぬぼれがすぎるかもしれないが、しかし言葉にすればそういうことだった。
まあ、あえて言うまでも裏を返すまでもなく、それはいいことなのだけれど。
結局、本当に私を求めていたのは、本当に私を必要としていたのは、流愛だけだったということなのだろう。もしも流愛が吹部の部員だったなら、私はなにを置いてもその立場を守り続けたに違いない。あるいは、そう。私に、みんなから必要とされるだけのなにかがあったなら。流愛がそうしてくれるくらい、強く私を必要とする人が、ほかにいれば。
とか、なんとか。
未練がましい思考だけれど、一年と少しの間、私のアイデンティティのひとつだったのだ。それも仕方のないことだろう。つつがなく退部できた旨を流愛に報告し、部員たちのSNSをざっとブロックして、それも共有する。すぐに既読がつき、返信が届いた。
『よかった! これでずっと一緒だね。校門のところで待ってます』
例によって絵文字の混ざった、テンションの高い文面だった。私はスタンプで返信し、足早に昇降口へと向かう。知り合いに見咎められないか心配で、SNSのブロックは帰ってからやるべきだったかと少し後悔したが、しかし誰にも会うことなく靴を履き替え校門前までたどり着くことができた。自意識過剰だったようだ。
「お待たせ、るーちゃん」
「とこ。よかった、お疲れさま」
流愛は花が咲くような笑顔を浮かべて、私をねぎらった。その顔に疲れは見えない。昨日は私と一緒に徹夜したはずなのに、なんなら流愛のほうが泣いたり喚いたりで体力を使ったはずなのに、彼女は生気に満ち満ちて見えた。
不思議だ。
どう考えても、彼女の生き方は不健康だ。精神的にも肉体的にも、めちゃくちゃな状態になっていておかしくない――いや、現にそうなっているはずなのだ。
なのに、彼女はこんなにも快活に笑う。足取りも軽く、体つきも綺麗で、髪も艷やかで――誰よりも美しく見えた。
末結や有朱でなくても、彼女より堕落した少女はいないはずなのに。
私は、ずっと綺麗なものを知っているはずなのに。
並んで歩きながら、流愛の手が私の袖を軽く引いた。
「ねえ、とこ」
「ん?」
「今日、どこか寄ってこ?」
どこか。どこがいいだろう。私は少し考えて、すぐにやめた。
「うん。るーちゃんが行きたいところにしよう」
「ほんと? じゃあね、あのカフェ……あ、でも混んでるかな? どうしよう、ファミレスもいいし、カラオケも――」
忙しなく動く流愛の口元を眺めながら、私はなんだか夢を見ているような気持ちになった。私のほかには、誰も見ていないもの。知るよしもないもの。そういうものを眺めているような気持ちになった。
流愛の声が耳に心地よく響く。少し笑いながら、私は答えた。
「じゃあ、カフェにしよっか」
――――――
なんだかすっかり常連のような感じになってしまっているけれど、中学生が入り浸れるようなお店では本来ないのだろう。ブレンドコーヒーを片手に高価格帯のメニューを眺めながら、そんなことを思った。
幸いにして、私の家はこの学校の生徒としては平均的なくらいには裕福だったので、コーヒーくらいならたまには飲みに行けそうだ。まあ、それだけならもっと安いところがあるだろうけど……。
「ねえ、とこもなにか頼みなよ。これまで頑張ったご褒美にさ。奢るよ」
流愛は嬉しそうに言いながら、メニュー表を覗き込む。
「いいの? じゃあ……まあ、安いやつから……」
「もう、とこっていっつもそうだよね。私が選んであげる」
流愛は私からメニュー表をひったくった。そのすぐあとに、流愛が頼んだ件のマカロンセットが運ばれてくる。
「あ、すみません。追加で桜のシフォンケーキもください」
流愛はメニューのトップにあったケーキを注文した。
「……るーちゃん」
「とこはもっと贅沢しないと。甘やかされ慣れてないと、損するよ」
そういうものだろうか。私はコーヒーをひとくち含む。徹夜明けの頭脳によく沁みた。
「とこは、いつも頑張りすぎだと思うの。いつも難しそうな顔してるし、いつ休んでるのかわかんないし、あんまり笑わないし……」
流愛は寂しそうに微笑んで、机の下で私の手を握った。なめらかな感触。大きな瞳が濡れて見える。泣きそうなのではなく、もともと水気の多い目をしているのだろう。
「だからさ。余計なこと考えなくてもいいように、私と一緒にいようよ。私にできることなんて全然だけど、とこに変な思いはさせないから。ほかの人のことなんて忘れて? とこが、自分のことを一番大事にしてくれたら、嬉しいよ」
「そっか……ありがと、るーちゃん」
ケーキはすぐに届いた。流愛の言葉を頭の中で反芻する。そうだ。これが、私のほしかったものなんだ。私は甘いケーキを口に含んで、そう思った。
「そういうことなら、このあと、るーちゃんの家に寄っていってもいいかな。なんかもう、なんにも考えたくない感じ」
「それでいいんだよ。そうしよう」
流愛の甘ったるい声に、私はまた安堵する。随分と遠回りして、自分も他人も傷つけて、しなくてもいいような苦労をたくさん背負い込んだけれど、私たちはようやく、掛け値なしの友だちになれたのだ。もう怯えることはない。そう思うだけで、指先までじんわりと温かくなるような気分だった。
私はもうひとくち、ケーキを口にする。
ちゃんと味がした。
――――――
「――もう、課題はちゃんとやるんだね。真面目なんだから」
流愛はつまらなさそうに頬杖をついて、横目で私を見た。不機嫌そうな顔も、笑顔に引けを取らないくらい様になる。やはり美人は違うなあ……と、視界の隅に目の保養を入れつつ、私は小テストの予習に励んでいた。
「まあ……確かに、これでどうにかなるわけでもないんだけどね。別に受験もないし」
この学校は初等部から高等部までのエスカレーター式だ。あまり成績が悪ければ進級できないこともあるそうだけれど、私の場合はこれまでの貯金があるので、理解の面でも成績の面でも、これ以上頑張る必要をあまり感じていなかった。
「そうだよ。とこって頭いいんだから、なんとかなるって」
言いながら、流愛は立ち上がって、部屋着のワンピースを手に取った。着替えるつもりらしい。私はテキストを構えながら、その様子を見るともなく見ていた。
ホックを外してスカートを脱ぐ。暑かったのか忘れたのか、今日はスパッツを履いていなかったようで、黒い綿の生地が急に目に入ってどきりとした。
そのままブラウスを脱ぎ始める。後ろから見る限りだと、どうやら色は揃っているようだった。左腕の蚯蚓腫れには、いくつも新しい傷が刻まれている。昨日の昼間から夜にかけて、ひとりで、あるいは私の前で、さらには電話越しに、何度も何度も切りつけたものだ。
「とこも着替える?」
流愛は振り向いて私を見下ろすと、いたずらっぽく笑った。
「なんでよ。着替えとか、持ってきてないし」
「だから、私の服を着てみない? ってこと」
私だけ脱いでて、不公平だし。そう言って、流愛はクローゼットを開き、「これとか」、と凝った装飾のブラウスと吊りスカートを並べてみせた。
可愛い。
「……うん。着てみても、いいかな」
考えるよりさきに、ぼんやりとそう言った。流愛は鬼の首を取ったような笑みを浮かべる。
「じゃあ、脱がしてあげる」
「いや、自分で脱がせてよ」
文脈を無視すればいかにも変態じみたことを言いながら、私は流愛の後ろに回る。
流愛のは見たのに自分のは隠すというのも卑怯な気がするけれど、流愛のルックスの良さを目の当たりにしている手前、ここはさすがに気まずかった。
「脱いだ?」
「うん。服、もらえる?」
「いーよ」
言いながら、流愛はブラウスを持ってそのまま振り向いた。私はあわてて手を前に出す。
「ちょ、ちょっと……!」
「これボタンの位置がめんどくさいんだよね。着せてあげる」
にやにやと笑いながら流愛は私の背後に回った。やけにあっさり引き下がると思ったら、これが狙いか……! こんなことになるなら、言われるがまま脱がされておいたほうがダメージが少なかったかもしれない。
「はい、ばんざーい」
「………………」
中学生にもなって屈辱的な限りだったが、意地を張っても流愛の家に下着姿でいる時間が延びるだけなので、私は大人しく手を上げた。流愛の服が被せられて、一瞬、視界が塞がる。頭を出して、袖を通す。流愛の所有物が肌にべったりと触れていると思うと、かなり妙な気分になった。
流愛はそのまま背中の布を寄せて、ボタンを留めた。位置が面倒というのは嘘ではなかったようで、手が届かないというほどではないけれど、確かに手間取りそうだ。
「……スカートは自分で履くよ」
「え~別にいいのに」
よくない。
ひょっとして吊りスカートに苦戦してまたも流愛に辱められる展開になるのではないかと少し不安だったけれど、初等部のころからの慣れもあってか、意外なほどすんなり着ることができた。ウエストの調整ができず少しゆるかったが、まあ、自分で見る分には案外ちゃんと着れてるのではないかと思える。
いや、流愛の服を身にまとっているという、不思議な高揚感に酔っているところもあるので、あまり信用できた評価ではないけれど。
「とこ、とこ。ほら、見てみてよ」
流愛は私も姿見の前に引っ張り出す。一瞬、流愛がふたりいるのかと思った。
彼女は衣装持ちなほうだけれど、その私服は大体見慣れている。だからだろうか。一度流愛の服として認識してしまうと、それを着ているだけで、自分まで流愛と重なってしまう。
「ほら、可愛い。とこ、やっぱりこういうのも似合うって」
「………………うん」
流愛は私を抱き寄せて、髪を梳くように頭を撫でた。鏡を見ながら、私はどくどくと心臓が妙なものを全身に送り出すのを感じていた。
「……たまにさ、私の服でお出かけとか、しよっか。絶対楽しいよ。二人で着れる服とか、見に行きたいよね」
「そうだね」
鏡から視線を外すと、流愛が目の前にいる。ゆるい襟元からは鎖骨が覗いていて、白い肌のなかでも一際目立って見えた。視線を上に向けると、形のいい唇が、大きく澄んだ瞳が見える。
私は衝動的に、けれどできるだけ手加減して、流愛を抱きしめた。
「とこ? どうしたの」
耳元で、困ったよう流愛の声がする。昨日の電話が思い出されて私は流愛を抱く腕にさらに力を込める。
「るーちゃん」
「なあに?」
「大好きだよ」
「……うん、私も」
腕ごと抱きしめてしまっているので、流愛のほうから私を抱き返すことはできない。その代わりに、顎を肩に乗せるようにして、流愛は私に応えた。もう、いやだ。いやだいやだいやだ。なにもかもいやだ。
私は目を閉じて少し顔を起こして、流愛の唇に自分のそれを軽く合わせた。
目を開く。
流愛の目は呆然と見開かれていた。
友だちの「ち」 国木田椢 @AIA_001
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