裂かれた花【KAC20252】
冬野ゆな
第1話
屋敷の本邸から少し離れた竹藪に紛れて、離れの間はあった。
二部屋ほどしかない小さな家屋は、誰も好き好んで近づかない。特に、母様がそこへ向かう時には。
そこにいる沙絵を――義妹の姿を夢想する。額を擦り切れそうなほどに畳につけ、可哀想なほど震えあがって、縮こまっている姿を。怒り狂った母様にハイと応える以外のことを赦されず、少しでも機嫌を損ねようものなら、その足で頭を踏みつけられる姿を。指先の丸みがわかるほど髪にねじ入り、後ろで結んだ黒髪が雑草のように踏みつけられる姿を。
母様は妾の子である沙絵を忌み嫌っていた。妾であった女は産後の肥立ちが悪く、直ぐに亡くなった。父様は沙絵の世話を母様に押し付けた。母様が何を思ったのかは想像に難くない。母様は父様の言いつけ通りにしたが、沙絵に物心がつくと、何かというと、出来が悪い、物覚えが悪い、器量が悪いと理由をつけ、離れの間で待っているよう言いつけた。寒い離れの間で平伏する以外を赦さず、金切り声をあげて叱りつける。やがて手足を縄できつく縛り上げると、裸に剥いた沙絵の肌を竹の物差しや枝で強かに打ち付けた。子供の白い柔肌に、今日はどれほどの傷がつけられているのか、思いを馳せる。
折檻は母様の気が済むまで行われ、そんなときには誰も離れには近づかなかった。微かに響く沙絵の悲鳴と懇願する声に竦み上がるのは、まだ歳若い下女と下男だけ。ほとんどの使用人たちは何も聞いていないふりをして嘲笑うか、無視を決め込むかだ。
母様の折檻が終わるのを待って、私は薬箱と氷嚢を持って離れへ向かう。
途中で母様とすれ違う。母様は私をちらりとだけ見ると、足早に戻っていく。
――あまり甘やかさぬように。
かつては何度も口酸っぱく言った。けれども最近では、得体の知れぬものを見るような目をする。日常生活においてもそうなっていた。明らかに私を避けていた。
離れの引き戸を開け、中に入る。
――沙絵。
奥から、しくしくと小さなすすり泣きが聞こえてくる。少しだけ開いた襖を開けると、畳に転がった沙絵の姿が見えた。薄汚れた着物の裾がめくれあがり、白い太腿に刻まれた赤い痕が見えている。じっとりとした汗に、薄くなった血が滲んでいる。座って刃物で縄を切ってやると、沙絵はうっとりとするような、縋るような目で見上げてくる。
――ねえさま。
沙絵の小さな身体に刻み込まれた赤い痕を、指先でなぞる。雪に散る赤い花。薄い皮膚は破れてめくれあがり、その下まで抉れて血が滲んでいるものもある。少しだけ力をこめると、苦痛に顔を少し歪める沙絵。
――まだ痛い、紗絵。
――はい、痛いです。
――そう。
――ねえさま、ねえさま……。
涙を零す沙絵に、私は微笑みを返す。
私の膝に縋ってくる小さな姿に、ひどく満たされた気持ちと、欠落とを同時に覚える。
――わたしも、いつか、ねえさまのようになれるでしょうか。
――ええ、きっとね。
頭を撫でてやると、その瞳に敬愛と思慕が浮かんでいるのがわかった。
彼女にとって私は愛すべき義姉であり唯一の味方である。
嗚呼、いつか。
その眼差しが、軽蔑に変わる時を心から待ち望んでいる。私がいもうとへの慈愛ではなく、沙絵から鞭打たれることに焦がれていると知れたら、彼女はどんな顔をするだろう。足首に残る蛇のごとく絡みついた縄の痕が、私の足にあればいいと、何度憧れとともに記憶に刻み込んだことだろう。自分がされたように、手足だけでなく全員を蝕むように縛り上げ、吊されることを望んでいると知ったら――。
彼女の手をとる。
手首にも蛇のように縄の痕が赤く絡みついているが、その痕は乱雑だ。やはり母様では駄目だ。あの人には美を見る眼というものが欠けている。せっかく縄を使うよう進言したというのに。痛みに暴れて顔に痕が残っては事です、少し可哀想ではありますが、と縄を使うことを進言したとき、母様は目を見開いて、私をまじまじと見つめた。まるで何か違う生き物を見たように、私を見た。
あの頃から、母様は私を恐れているように見える。母様への躾が足りなかっただろうか。
――ねえさま?
ふと、沙絵が怯えたように手を引いた。
いつか真実に気がついたとき、沙絵は裏切られた悲しみにその目を潤ませるのだろうか。この阿婆擦れが、よくも騙したなと罵倒してくれるだろうか。それとも、恐怖に駆られたまま私を鞭打ってくれるだろうか。
あなたはきっと、そうしてくれると心から信じている。
だから私は、その日が来るまで彼女の憧れのままでいよう。
からからに乾いた唇を舐め取り、縄の痕へそっと指を這わせる。
裂かれた花弁を愛でるように、血の滲む肌へ顔を寄せると、ひとつ、息を落とす。
唇を伝わる血の味に、ゆっくりと目を閉じた。
裂かれた花【KAC20252】 冬野ゆな @unknown_winter
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