ホンビノス貝を食べるだけの話
瘴気領域
オオハマグリ(ホンビノス貝)、おいしいですよ
今日は年に一度の桃の節句。ひな祭りだ。
商店街には色とりどりのつるし飾り。馴染みの和菓子屋さんには桜餅や菱餅が並んで、女の子を連れた家族客が店頭を賑わしている。魚屋さんには激安オオハマグリと称してホンビノス貝が売っていた。
ホンビノス貝は美味くて安い。見た目はハマグリそっくりだけど、本物よりもずっと大きい。原産地はアメリカ西海岸。商船のバラスト水などに紛れて、はるばる太平洋を渡ってきて東京湾で絶賛繁殖中らしい。
「おじさん、ホンビノス一袋」
「ちょっと、これはオオハマグリね」
ついつい本名を言ってしまい、魚屋のおじさんが困ったように訂正する。オオハマグリに手を伸ばしかけていた主婦がびくっと手を引っ込めていた。商売の邪魔をしてしまったか。なんだか申し訳ない。二袋買うことにする。
家に帰る。
ひな飾りのひとつもない、いつものワンルーム。シャワーを浴びて部屋着に着替えてどてらを羽織り、ホンビノス貝を一袋、フライパンにあける。酒を大さじ二杯。チューブの生姜とニンニクをちょびっと。蓋をして中火。大きな貝がぱかぱか開いたら、火を止めて一分待機。じゅうぶんに蒸らしたらフライパンのまま炬燵に置く。鍋敷きは百均のコルクマット。汚れたら気軽に使い捨てられるのがいい。
箸なんてまどろっこしい。ホンビノスの開いた上蓋をつまんで、ちゅるんと身を食べる。柔らかくて、ほどほどに弾力のある歯ごたえ。噛むたびに広がる甘い旨味と潮の香り。うん、上手い。冷蔵庫から缶ビールを取り出してぷしゅっ。ぐびぐび。ぷはー、おいしい。
ホンビノスの殻が積み上がったところで、長方形の電気七輪を取り出してテーブルに置く。Amazonで5,980円の一人用。職場のビンゴ大会で当たっちゃったやつで(幹事だったから値段を知っていた)、最初は困ったな、使い途あるかなと思ったけど(それなら最初から賞品に選ぶなって話だけど今はそういうのはいい)、意外に登板回数が多いえらいやつだ。
もう一袋のホンビノスを開けて、網の上に四つ並べる。これで一杯になる手頃なサイズがかえって便利だ。スイッチオン。ガスコンロと違ってカチカチやらなくてもいいのが地味にノンストレス。ヒーターが赤く光って、わたしの頬をぼんやり温める。
ぱかっ ぱかっ ぱかっ
ぐつぐつぐつぐつぐつぐつ
開いたホンビノスに醤油を垂らし、おつゆがこぼれないよう細心の注意を払って持ち上げて、ちゅるん。あつあつ、ほふほふ。うーん、酒蒸しとはまた違った魅力。ビールは二本空けたから、今度はチューハイ。9%の濃いやつだ。ぷしゅっ。ごくごく。合成されたレモンの酸味で頬の内側がきゅっと痛くなる。美味い。
ホンビノスのいいところは三つある。
ひとつ目は安いこと。
ふたつ目はでっかいこと。
みっつ目は砂抜きしなくていいことだ。
やったことはないけど、ひょっとしたらレンジでチンでも食べられるのかも。
すごく手軽だから、なんなら自宅で養殖したいくらい。でも海水の生き物って育てるのが大変そう。水は粗塩でも溶かせばいいのかな。でもそれじゃダメな気もする。わからない。生まれた土地の水がいいんだろうか。じゃあ、アメリカ東海岸から海水直輸入? いやいやいや。
気づいたらホンビノス貝がなくなっていた。
もう一袋買えばよかったな。
あ、ちがう。桜餅を買えばよかった。
家族連れに気後れしてしまって、和菓子屋さんに入れなかったんだ。
なんとなく寂しくなって、動画を見ながらチューハイをもう一本空けて、歯を磨いて寝た。
その日の夢で、わたしはアメリカ東海岸でホンビノス貝になっていた。
海水がおいしかった気がする。
ホンビノス貝を食べるだけの話 瘴気領域 @wantan_tabetai
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