第3話 忘れ得ぬ果実
深閑なる森の広がり空を見失うところ、魔女の庵があると聞いたのは、国境を目指す旅の途中だっただろうか。古くから遭難者の多い森だったが、最近になっておかしな噂が流れ始めた。なんでも森には魔女がいて、人を拒むのだと。魔女が受け入れてくれるのは根無し草の旅人ばかりで、この国に由縁のあるものはみな森から追い出されてしまう。一方、行方知れずになっても誰も困らぬ、身寄りのないものは決して森から帰ってこない。恐ろしい魔女だと言うものがいる。きっと煮て食べてしまっているに違いない。優しい魔女だと言うものもいる。身寄りのあるものはみな帰されるじゃあないか。帰ってきたものは赤い苹果を土産に、森の不思議を語る。姿は見えぬが大勢の人声がして、木々がざわめき、森が一夜で姿を変えてしまう。まるで魔法だ、あれは魔女に違いない。誰にも会わなかったが魔女はいたのだと、みな興奮した様子で語るのだそうだ。
そんな話を思い出したときには、旅人はもうずいぶん森の中へ迷い込んでいた。旅人は根無し草だったし、血縁も今となってはなく、この国の出身ではない。たとえ遭難しても、歓迎されるのでは、などという甘い考えを抱いたわけではなかったが、やはりこの道を選んだのは失敗だったのかもしれない。しかしどうにも、きな臭い国なのだ。そこかしこで戦の気配が燻り、今にも燃え出しそうな気配がする。早いところ国境を抜けねば、次の旅立ちは常世の国、などと笑えない話になりかねない。とはいえ遭難しやすい森と聞いて踏み込んだのは早計すぎたのではないか。旅人は強ばった体で伸びをして、頭上を仰いだ。このまま森で生き絶えるのと、戦場で、あるいは市街地で戦禍に倒れるのと、どちらがましかといえば、まあ前者だろうか、いや死ぬことに上下前後もないのではないか。同じところを何度も歩いているような木立を行きながら、しょうもないことを考える。蓄積した疲労はもはや痛みとなって身体中を蝕んでいた。少し休もう、と付近の木に手をついた。そこから旅人の記憶は途絶えている。
頭上にささやきが満ちている。その奇妙な気配で目を覚ました。息を潜めるように声はすっと途絶え、目を開けると古ぼけた小屋にいた。古いが、汚くはない。壁や床はうす黒く光沢があって、よく手入れされている。薪の爆ぜる静かな音、煤と
「こんばんは、どなたかそこにいらっしゃいますか」
ずいぶん間抜けな問いかけのように思われたが、かつ、と火を掻く音が止んだ。わずかの沈黙。火花が弾け、遠く、鳥の声が聞こえた。
「お目覚めになりましたか」
それは掠れた、ともすれば妖艶と表してもいい声だった。けれど同時に幼さを残すほど若く、かと思えば老人の話す古い発音の語尾も伴う。なめらかな、うつくしい音だった。炎をうつすような、日差しのような、光そのもののような。このような声を、なんというのだったか。旅人は古い知識を、広い見識を思い出して探り当てた。……そう、緋色の声。どうやら疲労のまだ抜けていなかった旅人は、思考のままにそう言葉にしてしまったらしい。すると、火掻き棒がかつかつ、と神経質そうな音を立てた。
「古い言葉を、よくご存じだ」
声はざらりと赤錆のようになめらかさを失い、耳に不快な響きを残した。それでいてうつくしさを損なわぬ声に旅人は感嘆し、誘われるように再び言葉があふれだした。
「むかし、聞いたことがあるのです。どこで聞いたのだったが、人の心をいたずらに惑わしてしまった、王女がいたのだと、ああ、王女ではなく公爵の娘、いや、いや。とにかく、お姫さまのお話を」
旅人は長く旅をしていたので噂話と伝承には詳しかった。このふたつには、よく真実が紛れ込む。真実ではなくても、あるいは事実が。だからこそ聞きこそすれ話してはいけない、と常日頃気を付けていたはずだ。しかしどういうわけか旅人の舌は、酔っ払ったようになめらかになってしまった。いつもならば喉の奥で磨りつぶす言葉が、舌に乗り上げる。おかしい、これはなにか異常だぞと警鐘を鳴らすが、体は深く痺れたように動けない。そうして旅人の唇は、乗っ取られたように噂話を語り出してしまった。
「古い家に生まれついた、血筋の高貴さだけが誇れる姫さまが、富と栄誉を求めて王子を誘惑したそうです。姫さまはなんでも、王妃にはなれないと定められた御血筋で、ああ、なんだったかな、そう、旧王家の血筋、といいましたか。昔の、今は滅びた王家の血筋……、どうしてそんな家が存続していたのでしょう? 不思議です、そのときも、なんだか奇妙に思えて、ああ、はい、続きを……。姫さまは王子を誘惑して、上の王子を。そう、第三王子だったのかな、それで継承権を得るためにご兄弟を暗殺するようにと、姫さまは王子を操って。ええ、上のご兄弟は暗殺されてしまい、王子は継承権一位に。でも、姫さまは王妃にはなれない血筋だったので、お二人は離れ離れになることになって。それでも王子は姫さまを望んだようなのですが、結局は、姫さまはお隠れになられて。おかしな話でした、そう、聞いたときも不思議に思ったのです。王妃になれない血筋なのに、どうして第三王子を王位につけようなどとしたのか……」
「愚かな娘だったのかもしれません」
声が、炎のように揺らめいて告げる。旅人の唇は勝手に動く。
「愚かだったのは姫さまではないのかも」
旅人は国のことなど、どうでもよかった。ただ旅をするに安全な道筋が得られればそれで満足だ。だから噂話も、深く考えることはしてこなかった。それでよかったのに、うつくしい声で問いかけられると、どういうわけか、その声を慰めたい、と感じてしまう。どこか哀しそうなその声の主の慰めになれと、言葉はますます軽く舌を踊らせる。
「たとえば、王子が愚かにも彼女を王妃につけてやりたいと望んだのかも。あるいは、二人の回りのものたちが。本人は望まぬ幸せを、勝手に押しつけようとするものはどこにでもいるもので」
「そうですね」
「かの王子は結局、他に道はなく王となって、愚かな王と呼ばれていると。圧政を敷き、諸侯の声を聞かず、このままでは
そうだ、それは森に入る前の、村で聞いた噂話だったのではなかったか。
澄んで豊かな水源を抱え、どの国にも寄らず、栄えた国だった。かつての湖の清らかさを、誇らしげに語る漁師がいた。ずっと魚を釣って暮らしていけたのに、今は一匹も釣れやしない。水は塞き止められて淀み、泥沼になってしまった。この水の流れは誰も止めてはならぬと、何代も前の王さまが定めたはずだったのに。たった一代でこの有り様だ。泥沼にゃでっかい魚が一匹、住み着いていてさ。こいつが釣竿も、網も、全部壊してしまった。目が見えないのか、沼に入るものはなんでも壊してしまう。厄介なやつ。あいつのあだ名は王さまさ、まるで今の王さまみたいだろう? 漁師はそういって、暗い目で笑っていたのだった。未来のない国だと、旅人は思って、遭難するかもしれないと知りながら、国境へ近いこの森を行く道を選んだのだ。
そうか、これはこの国の話だったのか。旅人は今更ながらに、とんでもないことを話してしまった、と歯噛みした。その頃には旅人は、なにやら一服盛られたことに気づいて、自分の口をどうにか穏便に止める方法を模索していた。けれど体は痺れたように動かなかったし、よくよく考えてみれば、目も開いているか定かではなかった。女の姿を見たと思ったが、夢だったのか、幻だったのか。今この瞬間もまた夢なのかもしれない。それさえもわからない。淀みなく動く口は、聞いたばかりの噂話さえ水のように零してしまった。止まらない。
「誰でも好きなようにいうものです。言いたいように、悪し様に、己のままならないことを、届かない存在のせいにしたがる。じつに身勝手なものだ、王はきっと孤独でしょう、王の声は竜の声といいます、古くは緋色の声、と」
旅人は口を縫い付けてしまいたかったが、流れ出した言葉は戻らない。
「本当に、古い言葉をご存じだ。旅の人よ、あなたの見識はとても深そうだ。どうだ、私に知恵をひとつ授けてくれないか」
女がそう声をかけてくると、旅人の言葉はぴたりと魔法のように止まった。
「なんなりと」
新たな薪が投げ入れられ、音を立てて燃え残りが崩れた。炎は燃え上がり、女の横顔を夕映えのように染めた。旅人は恍惚として、女の次の声を待った。吐息にほどけて消えてしまいそうなささやきも、静寂のうちにはよく響いた。
「王は狂ってしまったと、皆はいうのだろう。たしかに狂っていた。だがそれは、今ではなく、初めからだ。わたしが生まれる前から全ては始まっていた」
裏切りが父を殺してしまったのだと、女はそう言った。
十八年前、旧王家の細い血筋は静かに途絶えた。現王家よりはるかに古い歴史を持つ統貴の血は貴く、三代に一度、新旧が交わり血を深めるのが現王家の伝統であった。第三王子として生を受けた現王は、生まれながらに旧王家に婿入りし、王位継承権を放棄することが定められていた。後ろ楯の弱く、片方の血がいちばん遠い。もはや実権もなく、豊かでもない名ばかりの旧王家と繋がり、継承権も失う道筋。もし第三王子が野心家であったなら、下克上を企んだだろう。けれど王子は、初めて会った旧王家の姫と、一目で恋に落ちた。ふたりは継承権を巡って争う陰謀渦巻く王城で、静かに手を取り合い、ひっそりと永久の愛を誓い合った。
後ろ楯こそ乏しいが、第三王子は人心を集める男だった。一言話せば好ましいと思わせ、彼のために何かしてあげたい、支えたいと望ませる、不思議な魅力があった。本人がそのように振る舞っているのではなく、どうにも天性のもので、彼の長所であり、そして最大の短所でもあった。なにせ彼は、人心は集めるが掌握は出来なかったのである。臣下とくだるのが定められていた王子は、人の上にたち、命じ、操ることが何より下手だった。そして彼がその方法をよく学ばぬうちに、事件は起きてしまった。第一、第二王子が暗殺されてしまったのだ。これがまったく王子の望まぬ展開であったことは、そのときでも明らかであった。彼は己の姿に、相手の望むものを写させてしまう、歪んだ鏡のようなものだった。
旧王家の姫は王妃に娶れぬ理ゆえに、二人は別離を余儀なくされた。それでも彼女を望み奮闘する王子を他所に、姫は罪を捏造され、服毒死を命じられた。王子は姫を連れ出して逃げた。そして深い森の奥へと逃がした。旧王家に連なるものたちが彼女の世話のために森へ残った。そうして、姫は森のなかで赤子を産み落として死んだ。
「父の、第三王子の持っていたのがこの声だ。人心を集め惑わせ、その姿に相手の望むものを重ねさせる。魔性の声」
光そのもののようにうたうのに、響きはどこかもの哀しく、胸の底が焼けつくような心地がする。旅人はどこか遠い物語を聞くように納得した。なるほどたしかに魔性の声なのかもしれない。心をふるえさせ、我が身を奮い立たせる、その声は。
「だが、この声は、本来は旧王家が持っていたものなのだ。あなたは、どうして古い王家など残しておいたのかと疑っていたね。まったくそのとおり、根絶やしにすればよかったものを、残しておいたのはこの声のためだ。この声に惑わされて、血筋だけでもと残してしまった」
その声が命乞いをするのなら、どんな大罪を犯したとしても逃がすだろう。逃がしてしまうだろうと旅人は思った。しかし、女は続けて言う。
「悲劇しか呼ばぬ声なのだ。なあ、誰がわたしが王になりたいと言った? わたしはただ平穏に暮らしたかった。わたしのことなど忘れ去ってくれればよかった。もし、王が狂わなければそうなっていた。たとえわたしのもとに人が集まり、国を倒そうと望んでも、恋の実に過ぎぬわたしを誰も認めはしない。ただ逆賊として殺されるのみ。それでよかったのに。王が、父が狂うからわたしは国を倒せてしまう。望まれてしまう。この声など残らず滅びてしまえばいいと、父こそが望んでいたのに! 父までもが、わたしに望まぬ姿を見るのだ」
旅人は、無意識に女を慰めようとして、けれどそのための言葉を持たなかった。かわりに、先ほど止められる前に語ろうとしていた言葉を紡いだ。
「王はきっと孤独でしょう、王の声は竜の声といいます、古くは緋色の声、と。緋色の声が朝といえば緋色は朝のいろとなり、夕といえば夕のいろとなる。けれど、どちらも同じ緋色ならば、それほど問題はありません。だからこそ、緋色の声、というそうです。どちらでもいいことしか語れぬ声。弱音を吐くものもなく、冗談をいうこともなく。その音声のひとつひとつが重たく、とてつもない。――なんという孤独でしょう」
女は相槌を打たなかった。すると旅人は、大きく息が出来た。この声は真実、まじないのような声なのだと理解した。だからこそおぼろげながらも告げようとしていた言葉に、旅人は力を込めた。
「もししがらみを捨てて、何もかもから逃げたいと望むのであれば、沈黙を宝となさい。旅人はみな、先達からそう教わります。何も語らず、何も残さず。跡ひとつ残さずに消えることが、旅人の定め。私たちは、運び手になることはあっても、己のかたちは刻んではならない。刻んだときこそが、旅を終えるときと心せよ、そう言います」
「あなたと同じ、旅人になれと?」
女の声はふるえ、沈黙し、それから弾けた。楽しそうに。笑い、笑い、笑い、そして疲れはてたように、それでも笑い混じりに言った。
「ああ、でもわたしは旅人にはなれない」
「またひとつ、望まぬ姿を押しつけてしまいましたね」
「望みなど、なかったのだ。望めばそのとおりになるのが、おそろしくて。望まずとも、なってしまうのに」
自嘲するように女はささやき、後には火の燃える音だけが聞こえた。旅人はひっそりと息を吐いた。
沈黙を宝としなさい、そして雄弁は鍵――旅人の先達はこう言ったのだ。どうせ言葉が止まらないのならと、誘導する先を考えていてよかった。ほっと息をついて、目を閉じる。たとえこのまま殺されたとて、これ以上の結果を出すことは己には不可能だった。ならば今はもう、疲れはてて眠りたかった。
翌朝、めざめた旅人は見えない何かに導かれて無事、森を抜けることができた。見えない何かについては、詳細を語らぬことにする。見ていないことにするのが、正しいのだ。これから起ころうとする、戦禍の狼煙を、それを担うものたちの姿などは、沈黙すべきなのだ。
やがて国境を超えて旅を続ける旅人の耳に、隣国に新たな王が立ったことが伝わる。その頃には旅人は、森のことなどすっかり忘れたことにしていた。落ち着いた頃に、またあの国を訪れることにしよう。そのときには全てを忘れて楽しむのが、旅の醍醐味というものだ。忘却はときにして、人生の贈り物なのだから。
彷徨する旅人の記 塩 @highkyo
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