第16話 人外の襲撃者たち
黒影は疾風に似た速さで、屋根から屋根へと飛翔していく。
とても、並みの人間にできる所業ではない。
たとえオリンピック級の選手であっても、通常の肉体能力だけでは不可能な技だ。
それを可能にするためには、精神の発する物理的なパワーが不可欠のはず。
街灯のそばを跳躍したとき、その姿が瞬間的にうかびあがった。
それはチンピラが言ったとおり、黒装束の僧衣に身をくるんだ一人の男だった。
凌の運動能力は、常人のそれを、はるかに凌いでいる。
普段はあえてセーブしているが、霊力を加味したそれは、オリンピック金メダリストの技が子どもの遊戯に見えるほどだ。
その凌が全力を出して追跡しても、坊主との差はいっこうに縮まらない。
相手もまた、人外の魔にほかならなかった。
二人は石神井川をひとっ飛びで越え、環七の高架を二度の着地で渡りきった。
やがて前方に、城北中央公園の黒々とした森が現われてくる。
坊主は一目散に、そこへと逃げこんだ。
城北中央公園は、豊島園に匹敵する広さをもった、ここらあたりでは最大の公園である。
まだ恋人たちが睦みあう時間には早く、かといって子どもの時間はとうに過ぎている。
ほとんど人影のない園内。
そこを、ふたつの影が駆けぬけていく。
グラウンドを横ぎったところで、相手はいきなり立ち止まった。
凌もまた、二十メートルほど間をおいて停止する。
芝生の地面に、まばらに樹々が生えている。
忘れ去られたように、ベンチがぽつんと置かれている。
あちこちにある照明のせいで、視界は完全に確保されていた。
「何者だ」
もう一度、同じ誰何を発した。
凌は息切れひとつしていない。
落ち着いた声で、街灯に照らし出されている坊主にむかって尋ねている。
慎重に防御の間合いをとる。
いつ何時、攻撃を喰らっても防げるように、濃密な霊波障壁をはりめぐらせた。
「見事な追跡だ。出雲凌!」
どっしりした、中年の男の声が返ってきた。
「なぜ、ぼくの名を?」
いまさら擬態を使う必要もないが、日々の癖で、凌は昼間の言葉遣いをした。
「おまえを待っていた」
「なぜ?」
「警告するためだ。おまえは立ち入ってはならぬ領域に、知らず知らず身を投じようとしている」
「ぼくが知りたいのは、千草の行方だけだ。彼女を返すのなら、このまま帰ってもいい」
「それは出来ぬ」
「たのむ。無用な戦いはしたくない!」
凌の懇願に、男は高笑いで答えた。
「腰抜けめが。出雲凌といえば、我らの中でも一目置く存在に見られていたが、やはり見掛け倒しであったか」
「しかたない。では、ちょっと無理をするぞ」
坊主は、なおも小さくふくみ笑いをしている。
その表情の端々に、自分の能力に対する自信が満ち溢れていた。
「出雲、おまえの潜在能力は優れている。だがその能力を活かしきる修行が、まだ充分ではない、まことに残念なことだ」
「ごたくは沢山だ!」
答えるかわりに、坊主はゆっくりと片手をあげた。
凌は手刀を胸前にかかげ、防御の態勢にはいった。
ザッ――。
周囲の樹々がゆれた。
たちまち、五人の僧侶が姿を現した。
「我らは、奇襲をかけることもできたぞ。それすら察知できなかったのか?」
凌は唇を噛んだ。
坊主の言うとおりだ。
凌は、新手の敵が周囲に潜んでいる、その気配すら察知できなかった。
むろん追跡の途中から、敵の待ち伏せを警戒して探査霊波を送りつづけていた。
なのに、それがまるで役にたっていなかった。
「わざと、わしの気配だけを明かしておいた。おぬしは、それさえ気づかぬほどの未熟者なのだ」
「貴様……何者だ」
「わしは
「なぜ、千草をさらう」
「知る必要はない。早く帰って、いつものとおり、心霊医師のアルバイトにでも精をだすことだ。そうしていれば、わしらとも出あうことはない」
「ふざけるな」
相手は、自分のすべてを知っているらしい。
それに気づいた凌は、もはや避戦は不可能と判断した。
データ漏洩を防ぐためには、相手を肉体的かつ精神的に破壊しなければならない。
それが新宿に住む闇の掟であり、自分のテリトリーを守る唯一の方法だ。
凌は、一気に跳躍した。
「
野槌と名乗った坊主が、仲間の一人に声をかけた。
空中にいる凌にむかって、まっしぐらに指名された僧侶が飛びかかる。
凌の手刀が、蠱部の首筋に叩きつけられた。
「がはッ!」
すれ違いざまに、蠱部の口から粘液にまみれた物体が飛びだす。
物体は凌の胸に取りつき、もぞり、とうごめき始める。
二人は、ほぼ同時に着地した。
――ゴトッ。
蠱部の頭部が、着地の衝撃で転がり落ちる。
凌の手刀は、剃刀の鋭さで敵の首を切断した。
首を失った胴体は、どす黒い血潮を噴出させながら、ゆっくりと倒れていく。
歌舞伎町の住人である凌にとって、あらゆる意味で禁忌はない。
殺人ですらも、必要ならばためらわずに行なう。
そうでなければ、生きのびられない世界に住んでいる。
「蠱虫使いは、おまえだったのか」
凌は、胸元でうごめく物体を見下ろした。
千草に取りついていた蠱虫と同じものが、胸壁を食い破ろうともがいている。
無造作に引きはがし、念をこめて消滅させた。
「見事だ」
野槌の、落ち着いた声がした。
「まだ、俺を未熟と言うか」
「蠱部は、自分の役目に失敗した。おまえに殺られるのは、我らの言う
「つまり、俺に処刑させたわけか」
「そのとおり。蠱部もそれを自覚していた。そうでなければ、貴様とて簡単には倒せぬ。では本気でいくぞ。
二人の僧侶が進みでた。
飛頭と呼ばれた僧が、まっしぐらに接近してくる。
幻鬼の方は、その場で両掌をあわせ、なにごとか祈りはじめた。
飛頭は、凌の直前で蹴りを放った。
ブンと唸りをあげて、右サイドから上段のまわし蹴りが襲いかかる。
凌はそれを受けなかった。
空気が焦げつきそうな勢いをもった必殺の蹴りだ。
腕で防御すれば、受けたとたんに腕ごと引きちぎられてしまう。
受けるかわりに、凌は地面に這いつくばった。
その上に、肘打ちが逆落としに襲ってくる。
みごとな連続攻撃だった。
「はッ!」
凌は合掌した両手を、ふり降ろされてくる左肘に突き出した。
――ザッ!
飛頭の肘関節と、そのうしろにある胸部が一瞬でたち切られた。
凌の左脇に、飛頭の寸断された上半身が。
そして右脇に下半身と前腕がごろりと転がった。
「まだ、やるか!」
凌は飛び起きざま、大声をあげた。
もう、人殺しはうんざりだ。
だが襲ってくる以上、自分の身は守らなければならない。
手加減できるほど生易しい相手ではない。
だが人を殺せば、その人間が死ぬ間際に放射する精神エネルギーをもろにかぶり、しばらくは、感情の制御が難しくなるほどのダメージを食らう。
それが、凌は嫌だった。
「うん……?」
凌の目に異常が生じていた。
立ちあがった時、たしかに自分は、僧侶たちのいる方向を見ていたはずだ。
しかしいま、前方に人影はない。
あわててふり返る。
そこにも、ふり返る前と同じ光景が広がっている。
右を見た。
左も見た。
「くそっ」
凌は舌打ちした。
そこにもまた、同じ光景がひろがっていたのだ。
小刻みに視線を動かしてみる。
すると周囲の景色は、絵の具を流すように、どろりと視線の動く方向へ流れていく。
考えられることはひとつ。
敵の心理攻撃が、凌の霊波障壁を打ち破り、視覚中枢に奇妙な幻覚をみせているのだ。
「おぬしの精神防御なぞ、児戯にひとしいわ」
四方から、笑いを含んだ声がふりかかってくる。
現実の正面には、間違いなく敵がいるはず。
しかしそれが四方のどこなのか、まるでわからない。
足もとで、もぞっ、とうごめくものがある。
先ほど倒したはずの、飛頭の亡骸。
凌の目の前で、飛頭の死体がゆっくりと立ちあがった。
切り落とされた胸部を脇にかかえ、前腕を口に咥えている。
その首が、くぐもった声をあげた。
「殺してやる」
凌はそれを無視した。
いまは、心理攻撃の真っ最中だ。
敵は、幻覚をおこしている僧侶――幻鬼にほかならない。
飛頭は、のろのろと胸から上の部分を胴体にくっつけた。
咥えている腕を、もとの場所につなげた。
それが終わると、ふたたび蹴りを放ってきた。
凌は、飛頭とは正反対の方角に全神経を集中した。
飛頭の動作は、幻覚が産み出したものだ。
とすれば攻撃は、まったく別の方向から仕掛けられるはず。
――ドッ!
凌の目が、信じられないといったふうに見開かれた。
幻覚のはずの飛頭の蹴りが、深々と脇腹にめり込んでいた。
たちまち、数メートル後方にふっ飛ばされる。
油断していた代償は大きい。
肋骨の数本は持っていかれたらしい。
「愚かよのう。幻影と実体の区別もつかぬとは」
同時に、いくつもの笑い声が巻きおこった。
凌の前に、五体満足な飛頭が立ちふさがった。
「名は体をあらわす。飛頭とは、たとえ関節部分から五体を寸断されようとも、ふたたび復活できる者という意味なのだ」
ふたたび、蹴りを放ってきた。
凌はそれを、右腕で受けた。
――ミシッ。
いやな音をたてて、右腕はとんでもない方向へ折れ曲がった。
全身を、寒気のする激痛が走り抜ける。
複数の骨折部分から、精神エネルギーの漏洩が起こっている。
それが気力を萎えさせ、自律神経を失調させていた。
「飛頭、殺すな。捕らえよ」
野槌の声が、余裕たっぷりに聞こえてきた。
凌の顔に、はじめて苦渋の表情がきざまれる。
想像以上に手強い相手だった。
ゆっくりと、飛頭の手のひらが頭部に近づいてくる。
凌は首をふって逃れようとした。掴まれたらおしまいだ。
その時。
ふわっ、と周囲が明るくなった。
「ぐわッ――」
遠くで悲鳴があがった。
飛頭が、驚いた様子でふりかえる。
――バウッ!
その頭部が、西瓜をたたき潰すように炸裂する。
バラバラと、肉と骨片がふりかかってくる。
その瞬間を逃さず、凌は懸命に転がった。
「これだったら、復活しようがねえだろ」
楽しそうな声がした。
それと同時に、もうひとつの戦闘が始まっていた。
トレーニング・スーツに身を固めた男が、サウスポー・スタイルで幻鬼と戦っている。
彼我の距離が数メートルも離れているにもかかわらず、男は小刻みにジャブをくりだしていた。
驚いたことに、そのことごとくが幻鬼の顔面にヒットしている。
たちまち顔じゅうが血まみれになった。
この男、ボクサーのパンチに念動力をのせることができるらしい。
「退却しましょう」
野槌のとなりにいた、小柄な僧侶がはじめて口をひらいた。
「
「野槌様。新手のやからは、
「そうか。では退散するとしよう」
二人は、瞬時にかき消えた。
わずかに遅れて、幻鬼もまた垂直にジャンプする。
「逃げ足だけは、いつも速えな」
そうつぶやくと、ひとり残された男は、何事もなかったように凌の方へと近づいてきた。
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