第6話 砂漠のオアシス
「おはよーッ!」
凌は、勢いよく扉をあけた。
ドアに取りつけられたカウベルが、カラコロと心地よい音をあげる。
ここは洋食屋『うさぎ』。
JR中央線の三鷹駅前から、道を一本へだてたところにある、なんの変哲もない学生むけのキッチン。
凌が店内に入ると、カウンターでコップを拭いていた女が、ちいさくコクリと肯く。
店はまだ開店前で、客は一人もいない。
女は物静かで目だたない。まるで店の調度品のようだ。
「変わりない?」
わざと声を弾ませて聞く。
その表情は、歌舞伎町にいるときとはまるで違う、歳相応の少年そのものだ。
狼のようだった漆黒の髪も、いまは真ん中から二つにわけられ、あっさりとム-スがかけられている。
そして驚いたことに、銀縁の丸っぽい眼鏡をかけている。
頬の陰りもふくらみ、一見するとただの『甘ちゃん』にしか見えなかった。
凌の声に呼応するように、店の主人――月読雛子が、もう一度、小さく肯いた。
『うさぎ』は雛子の店だ。
だが開店資金も運転資金も、じつは凌が提供している。
かといって凌は、パトロンになれるほど金持ちではない。
ただ、以前に大物の芸能人から心霊治療の依頼をうけ、口止め料コミで、かなりの額を受けとった。
それが開店資金に化けたのだ。
運転資金は、雛子の努力でほとんど必要ない。
とはいえ、雛子は凌の愛人とかいうたぐいの女ではない。
凌にその方面の趣味はないし、だいいちまだ十八歳だ。
雛子のように成熟した女性を囲うほど、ギンギンのエロ坊やではなかった。
雛子とは数年前、裏稼業を通じて知りあった。
凌がまだ、義務教育の世話になっていたころのことだ。
もっとも、まっとうに登校していたとはいえないが。
彼女は盲目だった。
生まれついての暗闇の住人で、それが災いしてか、かぎりなく存在感のない女に育った。
いつも物静かで、人によっては『暗い』と表現するかもしれない。
だが凌は、その不幸と悲しみを背負ったような端整な顔を、美しいとすら思う。
雛子は失った視覚のかわりに、『特殊な霊視能力』を体得した。
肉眼による景色は見えなくとも、生物や物体の発する精神位相エネルギー――『オーラ』を感知して、そこいらの連中より、よっぽどものの真実を見ぬく力を持っている。
凌は、この店の二階を、裏稼業の連絡事務所にしている。
そして暇なときには、アルバイターに化けて店を手伝っている。
いまの風貌も、そのための変装だ。
そして凌が裏稼業をするときには、必要に応じて雛子の力をかりる。
つまり雛子は、仕事の上での対等な、ギブ・アンド・テイクのパートナーというわけだ。
雛子はいつも、ふせ目がちの視線を崩さない。
脳の障害で視力を失っているだけで、眼球運動は正常。
なので、ふつうにしていれば気づかれることはない。
だが雛子は、けっして他人とは視線をあわせようとしなかった。
「なにもないわ」
落ち着いた声。
感情を抑えこみ、自分を見せない喋りかた。
つやのある細い黒髪をポニーテールにまとめ、すそは自然にたらしている。
見ようによっては、巫女のイメージを惹起させる。
声には神秘的な静寂が同居し、色白の顔は、いつもさびしそうな微笑みをたたえている。
いかに、はやりのキッチン・エプロンをはめていようと、全体からうける印象は、しっとりとした和服姿の女を思いおこさずにはいられない。
歳も、すでに二四を越えている。
雛子は『なにもない』と言った。
そう答えるときは、店にも裏稼業にも異常なしという意味だ。
もし店に異常があれば、前置きなしで具体的な報告にはいる。
また、裏稼業の連絡口であるここに、電話秘書システムを通して依頼があれば、一件ならば『ひとつ』、二件であれば『ふたつ』と報告する。
凌はそれを聞いて、あらためて電話秘書にかけなおす手筈になっていた。
「そうだよな。そうそう毎日が仕事じゃ、こっちの身がもたないもん」
こっちの凌は、限りなくチャラい。
そう見せるように全力で演技している。
なぜなら、いつ客が入ってくるか判らないからだ。
「あの子、いつまで置くつもりです?」
凌の動きが、ほんの一瞬とまった。
ちらりと、夜の表情が頬をよぎる。
すぐに狼狽した自分を隠すように、うっすらと苦笑いをうかべた。
「まいったね。見てたの?」
「あなたが仕事をしているあいだ、目を離さず監視するのが私の役目です」
「そりゃそうだが……霊視で見られてるって思うと、なんだか息がつまる。それに夜通し監視してたんじゃ、寝るヒマもなくなっちまうだろ?」
「それじゃ、やめます」
雛子の表情は、まるでかわらない。コップをふく手すら止まらない。
しかし凌は、雛子の感じている深い悲しみが、手にとるようにわかった。
「悪かった。冗談のつもりだった」
「では続けます」
愛想ねえなあ……。
そうつぶやこうとして、凌はあわてて口を閉じた。
雛子は、もともと重度の自閉症児だった。
そして、ときたま漏らす言葉がすべて霊的なものだったために、不幸な運命を背負うこととなった。
稀代の霊感少女――。
そのレッテルは、裏の世界では黄金より価値がある。
そのため雛子は物のように売り買いされ、裏の世界を転々としていた。
自閉症のせいでまともな自己主張ができないため、所有者となった悪党どもは、雛子のすべてをいいようにもて遊んだのだ。
そして当時の保護者だった男から、雛子の心霊治療を頼まれた。
ちょうど三年前のことだ。
雛子は重度の自閉症におちいっていて、霊言すらもできない廃人と化していた。
だが連れの男は、金の卵を生む雌鳥を失うことばかりを気にしていた。
そのころの雛子は、無抵抗かつ無気力なのをいいことに、裏ポルノビデオの、それも最も変態じみたサドマゾ・スカトロ物と呼ばれる、唾棄すべき作品群のモデルをやらされていた。
凌は、軽い気持ちで雛子の治療を引きうけた。
歌舞伎町では、この程度の依頼はいつものことでしかない。
患者の身の上を気にしていたら、とても裏稼業などやっていけない。
機械的に治療して金をもらう。それが唯一のモラルであった。
しかし診断してみたところ、雛子は精神エネルギーの減弱などおこしていなかった。
自閉症は、精神エネルギーの枯渇もしくは閉塞により、自分の意思を外部に放射できなくなって起こることが多い。
それを治療するためには、まず自己の内面に強力な発電機をすえつける必要がある。
つまり、自発的な意思の発動をうながすのである。
発電機は、きちんとあった。
それも初めて見るような、超特大原子力発電所ぐらいのスペシャル版だ。
だがそこには、なにかの封印が施されていた。
それはきわめて精妙かつ重層的な、心理バリアーのようなものだった。
それによって雛子の意識と外界は隔絶され、見た目には自閉症と診断されていたのだった。
それがなにかは、今もってわからない。
ただ凌は、その一部を引っぺがすことに成功した。
するとそこから、雛子の自意識が浮かびあがってきた。
そして表面に現れた雛子の精神は、完全な孤独であったにもかかわらず、まるで赤子のように傷ついていなかった。
凌は雛子を、宝石でもさわるように扱った。
いつ何時、また殻が閉じてしまうかもしれない。
原因がわからないため、根治療法は不可能だ。
根治しなければ治療したとはいえない。
それゆえに、闇医者としての義務感とプライドから、凌は雛子を引きとった。
保護者の男は、ことあるごとに雛子を返せといってきた。
凌は、ありったけの札束で横面を引っぱたくと、その男を歌舞伎町からたたき出した。
闇医者には、それなりに味方も多い。
千草を飼っていた雷門組ですら、時と場合によっては味方となる。
ただしその場合には、あとで何倍もの見返りが必要だが。
自意識を回復した雛子に、凌は生い立ちをたずねてみた。
しかし雛子は、殻に閉じこもっていたころのことは、なにも覚えていないと答えた。
しかたなしに雛子に店を与え、自分のパートナーとして仕事を手伝ってもらうことにした。いまだに、凌の治療は完了していないのである。
「あの女……千草っていうんだけど、しばらくは置いとくつもりだよ。ただの蠱虫憑きだったけど、なんか変な感じがする。新宿に住む陰陽術師のプロは全員知っているが、あんな下品な術はだれも使わないし、呪いをかける依頼をした奴もわからない。これじゃ完治させたとは言えない」
「あいかわらず、やさしいのね」
「どうせ誉めるなら、仕事熱心といってくれ」
雛子の、凌を見る目はガラスのように冷たい。
しかしそれは、そこになにも映してないためだ。
真のまなざしは、暖かい春の陽射しのような感覚を伝えている。
それがオーラーのゆらぎとなって見えるだけに、凌は本気で照れた。
「ともかくだ。そのうち、ここの手伝いをさせるかも知れんから、そんときゃ遠慮なくコキ使ってくれ。まっとうな仕事で金を稼ぐことを体にたたき込んでからじゃないと、またすぐもとの古巣にもどっちまう。俺の忍耐にも限度があるしな」
凌は照れを隠すために、わざと伝法な口調になった。
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