第14話


――恋の付き合っているという話と、ホテルに入ろうとしていた姿が夢に出る。そこには手も声も届かなくて、ただそれを透明人間のように見ていることしかできなかった。

現実では、奏に恋は大学に来るようになったとか、彩夏からの現状報告があった。けれど、私はそれを他人事のように聞くことしかできなくて、夢の内容すら自分に現実を知れと言われているようにしか思えなかった。

それを勘違いだと思わせないように、恋から連絡が来ることも、いきなり私の目の前に現れることもない。ただその現実にだけは救いを求める心が打ちのめされていく感覚だった。けれどそれも、心を空っぽにすればそんなに苦しくなくて。最初は空にするまで時間がかかってけれど、少しずつ慣れて、今は息をするように行えるようになっていった。

時々、奏が心配そうに私を見ていた気がしたけれど、それにすら目を逸らして何も感じないようにした。誰かに話しかけられても、話しかけていても、笑顔を作っても。次第に心は一定に保たれていく。

それが悲しい事なんだろうと思ってはいたけれど、それ以上どうしたらいいかなんて分からなかった。



◇◇◇◇◇



――恋、聞いてる?



「………え?」


「まぁた聞いてない!人の話は聞きなさい」



私は今も、彩夏のアパートにいる。彩夏が仕事から帰ってきてから、ふたりで食事を済ませる。私は彩夏に食後の飲み物を入れ一息ついていた。



「ごめん。なんだっけ?」



ぼやけていた意識を誤魔化すように笑うと、彩夏にため息をつかれた。なにも取り繕えていない。いや、彩夏にはお見通しと言った方が正解かもしれない。

佐紀と帰ってきたあの日から、遊び歩くことをやめて、ちゃんと大学にも行っている。それでも自宅に帰ると言った私を引き止めたのは彩夏だった。彩夏は何か言いたそうにしながら、ただ『心配だから』としばらくこのままアパートで過ごしてほしいと言った。きっと彩夏は、何も解決していないこと、むしろ余計に拗れてしまったことに気づいている。そしてそれに、私たちは互いに触れないと分かっている。彩夏は友人として、私たちの関係を心配しているんだ。



「佐紀」


「っ、え?」



私はその名前だけで横隔膜がせり上がって、息が詰まった。



「佐紀がさ、普段遊ばないようなことしてるんだって」


「……へぇ、」


「もともと美人だし、佐紀がそういう遊びする性格じゃなかったから触れ合わなかっただけだし。それが変だとか言うわけじゃないけど」



彩夏の言葉が、心を揺さぶる。悲しみ、だけじゃない。苛立ちすらあった。



「……佐紀もそういう風にしたかったのかもね、」


「そうだねぇ。私も別に、佐紀がいいんならいいんだけどさ」


「………」


「奏も心配してんだよね。ふらっとどっか行っちゃうんだって。変なやつに連れてかれないかとか、襲われるんじゃないかって」


「……そう、」


「綺麗な顔で、ものかなしー顔してたらやっぱ唆るのかね。逆に、荒れて抱き潰してるとか?」



私は視線を下に向けたまま、何も感じないように思考を割り切ろうとした。

関係ない。関係ない。佐紀が、私にどれだけの行動をして。私がそれを真に受けたかなんて馬鹿みたいだ。そもそも私が、佐紀を裏切り傷つけたのに、こんな感情間違っている。

そう思うのに、指先が落ち着きなく小さく弄りはじめ、紛らわせるようにマグカップをもって一口運ぶ。


佐紀が、そんなことするはずがない。

佐紀は、そんな馬鹿なことしない。



「…………、」



ぐっと口元に力が入る。自制するように、手を握りしめた。

思い出すのは、あの夜の強くて悲しい瞳。


あの瞳に、今。誰かが映っている。

あの手が、誰かの肌に触れている。


いや、もしかしたら誰かが、あの肌に触れているのかもしれない。

私でも触れたことの無い、佐紀の肌に――



「……バカじゃん」


「え?」


「あ、ううん。」



『私でも』って何。なにを勝手に嫉妬しているんだ。

いつだったか、佐紀はきっと私が好きで、私も佐紀が好きだと、にやけていたことを思い出す。


幸せだった。傍にいられた。笑っていられた。

どうして、こうなってしまったんだろうか。



「…恋、みたいだよね。今の佐紀」


「え?」



彩夏の声が急に冷静になって、体がしびれる。顔をあげれば、真面目な彩夏の強く真っ直ぐな目が私を捉えていた。



「あの時、何があったの?」


「………」


「佐紀が今そうなってるのは、恋のせいなんじゃない?」


「、……」


「恋」



…あの時。佐紀を守りたかった。佐紀のせいじゃないって、言いたかった。

でも、もしかしたら。私の卑しい部分が出てしまったのかもしれない。私に、そして私に触れて触れられてきた他の人に、嫉妬してくれないかな、とか。あわよくば、感情に任せて告白してくれないかな、とか。

受け入れられないと自分で決めておきながら『好き』って感情をぶつけて欲しくて。大学で付き合い始めたとかいう噂を適当に聞き流したのも、多分無意識にそういう想いがあったのかもしれない。

佐紀のどこかで、存在していたい。そんな薄汚れた想いは、佐紀のことを大きく傷つけてしまった。



「……恋は、佐紀が恋のことどう思ってるのか知ってるみたいだし、恋の中でなんかの理由があってそうしてるのかもしれない。けど」



あまりにも身勝手なわがままを、貴女はただただ包み込むように受け入れる。ずっと、そうだった。



「それって、佐紀はどう思ってるんだろ」



彩夏が、咎めるように言葉を送る。私は佐紀の想いを聞いたことがない。予測して浸って、勝手に拒絶した。分かっているふりをして、理由を当てつけて逃げてきた。

『淫魔』という呼称に惑わされているのは自分だったのかもしれない。



「佐紀は頑張ったよ。頑張って恋と向き合わおうって、必死に追いかけてた。なにを言ったのかは知らないけど、恋はそれを拒否した。そんなことになったら、自分がダメなやつだったって思うでしょ?」



そんなこと、分かってる。今でも思い出せる、傷ついた佐紀の顔。必死に取り繕う、それでも溢れ出す涙。震えた声は、どれだけ泣いているのか突きつけられているようだった。

でも、それでも。謝ることも弁解することも出来なかった。



「……佐紀のこと、受け入れられない」


「……」


「ひどいことしたし、汚いことも普通に思ってる。そうやって傷つけたって自分でも分かってる。だから…もしいまも佐紀が好いてくれてても、受けいれちゃだめだって、思ってる」


「……うん、」



ぎゅう、と喉元が締めつけられる感じがして苦しくなる。けれど、そんな自分にどれだけわがままなんだと、どれだけ逃げれば気が済むのかと腹立たしくなった。



「……でも」


「…」



口にしちゃいけない。口にするべきじゃない。誰かに聞いてもらうなんて、そんなの卑怯すぎる。私はこれだけ苦しんで、悲しくて、でもこう思ってるなんて、どんな悲劇のヒロイン気取りなんだよ。



「どこかで、……っ、佐紀に会いたくて……」



あぁ、私は結局。こうやってこぼして一人じゃ立っていられないんだ。


――心の端で、貴女が来てくれないかと、私を想っててくれないかと、期待している。都合よく他力本願で。なのに貴女が好きで、だから身動きがとれない。自分勝手なわがままが、今、自分を縛り付けている……。


だけど、怖くて。『淫魔』に甘えて、夢の中でしかありのままに向き合えない。どんなに自分をさらけ出しても、貴女の中では夢だから。甘えて逃げて、向き合っては背を向けた。それに振り回される佐紀が可愛いなんて、サイテーだ。



「恋。どれだけ甘えるつもりなの」


「……っ、」


「私は何があったのか知らない。なにもわかんない。けど」



彩夏は、何があったのか深く聞いてきたりしない。けれど、誰よりも色んなことを考えて私を支えようとしてくれる。

意見の押しつけではない。ただひたすらに聞いて支えてきたからこそ、その言葉が送られている。



「こうしなきゃいけないとかこうしちゃダメとか、そんなの恋ひとりが決めることじゃないんだよ。前と今とで言ってることが変わったっていい。答えなんて変わって当然。相手に嫌われるとかどう思われるか怖いとか思うけど、それは恋しか思ってないかもしれない。それはわかんないじゃん。だからちゃんと向き合って、ちゃんと話した方がいい。その後逃げ出したっていいんだよ。傷つけあったっていいの。今、どう思ってるのか、それがすれ違うのはすごく悲しいよ」


「……さやか」


「その涙だって私じゃなくて、佐紀に見せなよ。かっこ悪くても引かれてもそんなのしょうがないじゃん、それが恋自身なんだから。もしそれで恋が泣いて帰ってきたら、酒でも贅沢な食事でもおごるよ。それで私は佐紀におごってもらうから」


「……っふふ。何それ」


「それくらい、笑ってていいんだよ」



――自分のこと大切にして。……ちゃんと好きな人とそういう、こと、…しなきゃだめだよ


佐紀の言葉が降ってくる。


佐紀。こんなに傷つけて、悲しませて。逃げて。

それでも、また、向き合って欲しいなんてわがまま、許されるかな。


私は、また貴女に笑いかけてほしい。


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