第12話
遠くないはずの距離がもどかしい。足の速さには自信があったのに、もっと早くと苛立ちが募る。周りの視線が背中に刺さる気がして、なんで、恋にだけ届かないのか不思議でしょうがなかった。
君がどうしたいのかなんて、知らない。私の声が届かないのなら、今は言葉なんていらない。
私は今、何も考えていなくて。ただ、恋と話がしたくて、全力で走り、手を伸ばした。
◇◇◇◇
佐紀の声が、聞こえた気がした。でも、思考を放棄し続けた頭は夢現の中で。それが幻想なのか、現実なのか分からなくて、それを探ろうともしなかった。ただ、自分の中にまだ佐紀がいて、それだけで少し安心してしまった気がする。
私の腕を引いていた手が止まり、私の体も進むのを止める。それだけ。引かれるがまま、流されるまま。ここ数日はそればかりで。止めた思考を再開させる気は全くなかった。
なのに。荒い呼吸とともに、愛しい声が脳を叩き起す。
「恋!」
「…え、?」
目の前に佐紀。こんな場所に、なんで。瞬間、今の状況に一気に嫌悪感が走る。佐紀に知られたくなかった。そんな感情は、とうに失くしたと思っていたのに。
「恋。話がしたくて…迷惑だったらごめん。でも、時間が欲しい。今から」
「…話なんてない。帰ってよ。こんな場所に来る人じゃないでしょ」
「恋と話がしたくて来たんだ。恋だって、こんなところに来る人じゃなかったでしょ」
「私のことなんて知らないでしょ」
その言葉に、感情が走り出す。心のどこかでは、間違いなく佐紀に会えて嬉しいのに。私はそれより、こんなところ見てほしくなくて、早くどこかに行ってほしかった。
「お願い。話がしたいの」
「やめてよ。帰って」
『お姉さん、邪魔しないでよ。恋だって帰れって言ってるじゃん。警察呼ぶよ』
私の腕を離さないその人は、一見私の味方。
「ごめんなさい。邪魔してるのは分かってるんですけど、この子の友人も心配してて。少し時間もらえませんか」
『だめ。恋だって嫌がってるでしょ。その友人には後で恋に連絡させるから』
「お願いします。二人で話させてください」
『こっちが悪者みたいな言い方だね。嫌がってる恋に無理を通そうとしてるのはそっちだよ』
「分かってます。…恋。少しでいいの、時間がほしい。話がしたい。それができたら、もう近寄らないから」
『ちょっと、無視しないで』
「…恋」
なに、急に。なんでそんな強く私の前に立つの。今までちょっとでも手を伸ばせば逃げてきたくせに。私が、佐紀を誘惑したから? 淫魔として接したから?だから、佐紀は。私に手を伸ばすの?
『じゃあ、お姉さんも一緒に来たら?一緒にホテル入ろうよ』
「は?」
「…もういいから。この子、そういうんじゃないから放っといて」
『でも恋と話がしたいって。中で話せばいいじゃん、お金なら出すよ』
「やめて。いいから行こ」
相手の言葉に悪寒が走る。気持ち悪い。早く、佐紀から離れたくて、相手の腕を引いてホテルに足を進める。聞かないでほしい。見ないでほしい。もう、関わらないで。
佐紀に見せるには汚い私は、早く彼女の視界から消えたかった。
「恋、待って」
佐紀の声が私の名前を紡ぐ。それだけで、泣きそうになる。馬鹿正直な私の心が、逃げようとする私を突く。
探しに来てくれたんだ。守ろうとしてくれているのかもしれない。
どこまでも優しい、佐紀。でもそれは、私に充てられただけなんだと思うと、悲しい。
貴女を、こんなことに巻き込めない。
「恋っ」
「関係ないでしょ、帰って」
「――っ」
「!!??」
「走って!恋!!」
『っ、おい!』
心の中で別れを告げた瞬間、私の体は衝撃が走って、思わない方向に腕が引かれる。体は転ばないように必死に足を出し、そのまま腕を引かれるままに走り出した。
後ろから苛立ったような声が聞こえる。なのに佐紀は、振り返ることなく、私の腕を強くつかんだまま走り続けた。
相手は自分の追いつけない速さで走り去っていく私たち追いかけるほどの感情はなかったようだった。それでも、それは後から気づいたことだった。
息が切れるほどに走り続けて、少しだけ見慣れた景色が目に入る。後ろを数回確認してから、走るペースを落とし佐紀がスマホを見る。
「っは、はぁ……、結構、走ったね…は、」
「さきっ、手離して、っ、」
「っやだ、…はぁ、」
「……逃げない、から。腕、いたい、」
お互い息を切らせたまま、途切れ途切れの会話をする。私の言葉に、佐紀ははっとした表情をした。私の動向に注意しながら、ゆっくりと腕を離される。私は目を逸らしたまま、開放された腕を反対の手で摩った。その力強さが、心の隅で歓喜していたけれど知らないふりをした。
でもきっと、この行動の根底はあの夜に私に充てられたからなんだと言い聞かせる。
私は佐紀が好きだけれど、結局淫魔としてしか関われない。惑わすことしかできない。想いはきっと、私がサキュバスで彼女を惑わし、その欲に恋をしているんだと勘違いさせているだけなんだ。
私に近づく人はずっとそうだった。手を伸ばす人は、そういう人だった。
ずっとそれでいいと思っていた。私は美味しく満たされるし、そもそもそうしなければ生きていけないのだから、そうやって惑わして、お互いに性欲に塗れられればいいって。
でも、佐紀だけは。それで触れたくなかった。触れられたくなかった。なのに、結局私がそうしてしまった。彼女を性に浸し、私に手を、伸ばさせたんだ。
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