赤い靴の少女

わんし

赤い靴の少女

 健太けんたは毎朝、決まった時間に決まった電車に乗り、会社へ向かっていた。


 通勤路はほとんど同じ顔ぶれのサラリーマンたちで賑わっており、彼もその中に埋もれるようにして歩くのが日常となっていた。


 だが、ある日から、彼の目にある異様な存在が映るようになった。


 その少女は、駅の改札口から数分歩いた先の、いつもの歩道に立っていた。赤い靴を履き、無表情でただ立ち尽くしている。誰とも目を合わせず、目の前を通り過ぎる人々をただ無感情に見送っているようだった。


 最初は「気のせいか」と思っていたが、何日も連続して見かけるその少女の姿に、次第に不安を覚え始めた。赤い靴が不気味に目立ち、少女の存在感がどんどん強くなっていった。


「気味が悪いな…」


 健太は心の中で呟く。普段、こうした不安や違和感には無関心でいる彼だが、この少女だけは、どこか違っていた。何かを引き寄せるような、または避けられないような力が感じられるのだ。


 だが、特に何も言うことなく、無視して通り過ぎることにした。それからも彼女は、毎朝その場所に立っている。


 ただ立っているだけなのに、どこかその存在に引き寄せられるような気がして、足が重く感じられた。


 その日はいつもと少し違った。健太が会社の最寄りのビル前に着くと、そこにもその少女が現れていた。


 彼女は、まるで彼を待っていたかのように、じっとビルの前で立ち尽くしていた。見間違いだろうか。健太の足は、少しだけすくんだ。


 思わず目をそらし、そのまま建物に足を踏み入れた。


 帰宅後、いつものようにSNSを開いた健太は、つい面白半分で「毎朝赤い靴の少女を見かける」という内容を投稿した。


 すぐに、数人の反応があった。その中の一人から、「それ、ヤバいぞ」というコメントがついていた。


 最初は冗談だろうと考えた健太だったが、何か胸の奥に引っかかるものがあった。これが本当に何かの兆しだという気がして、彼の心は急にざわついた。冗談では済まされない、そんな予感が彼を包み込んでいた。


 健太はそのコメントを見た後、しばらく黙ったままスマホを眺めていた。


[ヤバいぞ]


 その一言が何か不吉な予感を呼び起こす。誰かが冗談で言っているだけだろうか? それとも、彼自身の心の中で、何かが膨らんでいるのだろうか?


 しかし、気になった健太は、しばらくしてその「赤い靴の少女」について調べ始めた。


 ネットで検索してみると、驚くべきことがわかった。「赤い靴の少女」とは、都市伝説のような存在だった。何年も前から、似たような話が囁かれていたという。


「彼女を見かけた人間は、やがて不審死を遂げる」と。


 健太はその情報を目の前にして、言葉が出なかった。こんなもの、ただの噂だと思っていたが、どうしてもその言葉が頭から離れない。まさか自分がその伝説に巻き込まれるなんて…。


 次の日から、健太の生活には妙な出来事が続くようになった。夜、家に帰ると、ドアをノックする音がすることがあった。


 しかし、ドアを開けても誰もいない。最初は気のせいか、風の音だと思っていた。


 しかし、それは日を追うごとに頻繁になり、健太は完全に不安を覚えるようになった。


 さらに、ある日彼のスマホに、見覚えのない写真が保存されているのを発見した。それは、明らかに「赤い靴の少女」の写真だった。少女が無表情で立っているその写真が、彼のカメラロールに不意に現れていたのだ。もちろん、健太が撮った覚えはない。


「どうして…」


 健太は息を呑んだ。何かが確実におかしい。だが、それだけでは終わらなかった。


 ある晩、部屋に帰った健太は、ふと何かに気づいた。部屋の隅に、何かが置かれている。目を凝らして見てみると、それは赤い靴だった。いつの間にか、そこにポツンと置かれていたのだ。


「嘘だろ…」


 健太は声を漏らした。どうして赤い靴が、こんなところに…。彼はその靴を手に取ることなく、その場から後ずさりした。


 そして、その瞬間、全身に寒気が走った。


 彼の目の前に、何もないはずの空間が揺らめくように感じた。あの少女が、どこかから自分を見ているような気配がした。どこからか、彼女の気配が入り込んでいる気がして、息が詰まりそうだった。


 夜が更け、健太は布団に入っても眠れなかった。何かが常に背後にいて、見守られているような気がしてならなかった。その夜もまた、ドアのノック音が響く。


 しかし、今度はそれが現実なのか、夢なのか、区別がつかないほどに鮮明に感じられた。


 そして翌朝、健太は出勤前に鏡を見た。だが、鏡の中で見た自分の顔に、何か異常があった。目の下に、ひどく濃いクマができていたのだ。


 昨夜は寝ていないわけではないし、昨晩の疲れがこんなに顔に出るとは考えにくかった。彼は鏡の前でしばらく立ち尽くし、首をかしげた。


「どうして…」


 健太はつぶやいた。その顔の異常が、どこか怖さを引き立てるようだった。


 日々が過ぎるごとに、健太の不安は募るばかりだった。


 そして、ついに彼は決心した。このままでは何か悪いことが起きる。あの少女を見かけたら、どうにかしなければならない。


 そんな思いが強くなった矢先、彼はついに「彼女を見かけたら決して話しかけてはいけない」という噂を破り、思わず声をかけてしまったのだ。


 健太はついにその決心を固めた。


 もう、この恐怖に耐えきれない。毎朝通勤するたびに、あの赤い靴を履いた少女が気になり、何か自分を見つめているような錯覚に陥る。毎晩、あの靴が自分の部屋に現れるたび、目を閉じてもその姿が焼き付いている。


 もはや、その恐怖から逃げることはできないと感じていた。


 ある朝、通勤途中で再びあの少女に出くわした。健太は、通り過ぎる人々の中で無表情に立っている彼女の姿を見つけると、心の中で葛藤が始まった。


「話しかけない方がいい」


 という噂を心の中で繰り返しながらも、足は自然と少女に近づいていった。


 そして、ついに健太は彼女の前に立ち、深呼吸をした。目の前に立つ少女は、無表情のままで、まるで何も言うことを期待していないかのようにじっとしている。


 健太は息を呑み、ついに口を開いた。


「お前は、誰だ?」


 その瞬間、少女の顔が急にぐにゃりと歪み、目の前で不自然に動き出した。まるで顔の皮膚が引き裂かれ、内部から不気味に笑顔が浮かんできた。


 健太は、目の前の光景に圧倒され、身体が硬直して動けなくなった。少女の顔が歪んだまま、次第に彼の周りの空気が重く、冷たくなっていった。


 その異変を感じ取った瞬間、健太は頭の中で何かが弾けるような音を聞いたような気がした。そして、彼の周りの空気が一気に凍りつくような感覚が襲い、その場から動けなくなった。


 次の日、会社に出社した健太は、同僚たちに「目の下、ひどいクマができてるぞ」と言われた。鏡を見ても、クマは確かに深くなっていたが、それ以上に自分の顔が何かおかしいような気がしてならなかった。目を凝らしても、何も異常は見当たらない。


 だが、どうしてもその異変を否定できない自分がいた。


 日々が過ぎ、健太はますますその異変を感じるようになった。仕事中も、集中力が欠け、周りの音や話し声が遠く感じる。頭の中に、あの少女の顔が繰り返し浮かんでくる。


 彼女の笑顔が、夜の暗闇の中で彼を見つめているような錯覚に陥り、常に何かに監視されているような感覚にさいなまれた。


 そして、ある晩、健太が帰宅すると、家の中に不気味な気配が漂っているのを感じた。ドアを開けた瞬間、部屋の中の空気が冷たく、ひんやりとした感覚が体を包んだ。


 まるで何かがいる。


 彼はゆっくりと足を進めながら、部屋を見渡す。


 そして、目の前に何かが見えた。


 部屋の隅に、あの赤い靴だけがひとつ、ポツンと置かれていた。


「…まただ」


 健太は心の中で呟いた。彼はその靴を見つめることなく、すぐに部屋を出ようとした。


 だが、その時、背後で何かがひそやかに動く音がした。振り向くと、そこには少女の姿がなく、その代わりに不気味な影が部屋の中に広がっていった。


 目の前に何かが現れる気配がした。


 健太は恐怖に震え、足がすくんだ。その瞬間、彼の視界が一瞬、暗くなった。視覚がぼやけ、耳に奇妙な音が響く。彼の足元がふらつき、頭の中がグラグラと揺れるような感覚に襲われた。


 そのとき、健太の背後で声がした。


「逃げられないよ。」


 その声は、あの少女のものだった。


 その言葉が響いた瞬間、健太の体は冷たく硬直し、足元が震え始めた。まるで何かが彼の体を掴み、動けなくさせているかのようだった。


 視界は暗闇に包まれ、意識が遠のいていく。


「逃げられないよ。」


 その声が、今度はもっと近くで耳元に響く。


 健太は必死で振り向こうとするが、体が動かない。視界の端に少女の姿がぼんやりと現れ、赤い靴がゆっくりと近づいてくるのが見えた。


 彼女の顔は歪んだ笑顔を浮かべ、目はまるで空虚な闇のように深く沈んでいる。


 健太は何度も体を動かそうとするが、身体の自由が効かない。彼の脳裏には、あの都市伝説の言葉が浮かんでいた。


「赤い靴の少女を見かけた者は、必ず不審死を遂げる」と。


 彼はその意味をようやく理解した。


「お願いだ、助けてくれ…」


 声を出してみたが、その声は空気に吸い込まれていくようだった。背後から少女の足音が近づき、健太の背中に冷たい風が触れた。


 その瞬間、彼は体中に電流が走ったかのような激しい痺れを感じ、意識がふわりと遠ざかっていく。


 そして、健太の視界が完全に暗くなった。


 翌朝、いつも通りの通勤ラッシュの時間がやってきた。


 健太の姿は、もうその街にはなかった。


 彼の部屋には何も残らなかったが、街の人々が口々に「新しく赤い靴の男の子が増えている」と噂していた。


 誰もその意味に気づくことはなかったが、街のどこかで、今度は赤い靴を履いた男が、また無表情で立ち尽くしているのだった。


 その赤い靴の存在は、今後、また新たな目撃者を求めて街に現れることになる。


 都市伝説は、こうして無限に続いていくのだろう。

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赤い靴の少女 わんし @wansi

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