第3話
早和が死んで、一年は綾と喪にふすことにしていた。
一応は連れ添った仲だ。だがそれは、早和のご両親の建前、格好だけである。早和はきっと俺との不仲を語っていたのだろう、と太一は思っていた。
ご両親とは会えば優しく接してくれるが、どこかよそよそしい態度をとられるからだ。
仕事を終え、綾のマンションの最寄り駅に着くと携帯が鳴った。
姉の沙織からだった。沙織は未だ独身である。
「ああ、姉さん。なにか用」
「素っ気ないわね。私はあんたを気遣って、電話をかけたというのに」
「腹が減っているんだよ。死にそうなくらいにね」
綾の手料理が思い浮かぶ。
「食い意地は相変わらずね。『ご飯が喉をとおらない』あんたを見たことがないわ。なら今から会わない? 美味しい料理店を知っている」
「またにしてくれ。疲れているんだ」
「まずいお弁当でも買って帰るの? 毎晩一人で寂しくない」
そういえば、沙織と早和は姉妹のように仲がよかった。早和は一人っ子で、お互い同性の姉妹が欲しかったのだそうだ。
「慣れたよ」
「なにそれ。慣れたら早和ちゃんに失礼じゃない」
「そう言われたって慣れは慣れだし」
数秒の沈黙が流れた。
「まさかあんた、既にもう他の女がいるんじゃないでしょうね」
「いますがなにか」
ぎゃあ、という声がする。
「はっぱかけただけなんだけど本当なの? なに開き直っているのよ」
「俺だって、前を向いて歩いていかなきゃならないんだよ」
「実は浮気や不倫でもしていたとか?」
なんでこうも鋭いのか。
姉の存在は、太一にとって小さい頃から脅威だった。嘘はよく見抜かれるし、悪いことをすると母親に代わって怒られた。怒りかたが母よりも乱暴で時に暴力が入り、その上で正論を言う。だからあまり逆らえないのである。
「早和が死んでから、知り合ったんだよ」
「君のお姉ちゃんはそれを信じられるほど子供じゃないの。そしてそこでふーんと流せるほど、大人でもないの」
「早和からなにか聞いていたの」
「なんにも聞いていないわよ。ただの勘。女の勘」
「男もいないくせに女の勘とか言うなよ」
「二日後の誕生日、おまえんとこ行くから首を洗って待っておけ」
電話が切れた。怒りを買ってしまったようだ。沙織は本気で怒ると、男口調になるのだ。
「くそっ」
太一は悪態をつき、携帯を内ポケットの中にしまう。
あのひびの割れた空気の漂うマンションには帰りたくない。
それよりも、生きている人間との関係である。とりあえずは目先の飯だ。今日は大好物の飯にありつけるのだ。
いつもの調子で鍵を開けると、食欲をそそられる香りが漂っていた。
部屋着に着替えた綾が出てくる。
「おかえり」
綾の顔を見るとホッとする。
「ただいま。いい匂いだ」
長い髪を撫でる。くすぐったそうにして、綾は太一の手をほどいた。
「リクエストに答えて、かぼちゃの煮つけを作りました。あとけんちんも。メインはやっぱりできたものを買ってきちゃった」
テーブルの上には、既に料理が並べられていた。
メインはカツオのタタキだ。
「お疲れさま」
「いえいえ、太一こそお疲れさま」
食卓につく。頂きますと二人で同時に声を出して、けんちん汁をすすった。天国にいる気持ちになる。
旨みとコクが絶妙なバランスだ。
「君はどうしてこんなに料理がうまいんだ」
「言ったことなかったっけ? 父親が料理教室の理事長なの。若い頃は、和食料理店に勤めていたシェフ」
「お母さんは」
「料理は下手だったから、反面教師にして父にならったの」
「じゃあこれは、おふくろの味ならず、おやじの味か」
「センスのない言い方ね。まぁでも、料理はお父さん直伝だよ」
父親に似て料理の才があるに違いない。俺は既に胃袋を掴まれていると太一は思った。やっぱり料理は上手いに限る。
カツオをわさびとしょうゆをつけて白いご飯に載せて食べる。
「あれ、リクエストのものは食べないの」
綾がちょっと冷やかすように言った。
「俺は、好物のものを最後に食べる性質なんだ」
カツオを平らげてから、では、とかぼちゃの煮つけを口に入れる。
「……美味しい」
脳が痺れた。美味しい。確かにおいしい。普通にどこかのお店に出ていても不思議のないくらいの味である。
もうひとつ口に入れる。席を立ち、我に返って座り直す。つい、歩き回りたくなってしまった。
「あれ? お気に召さなかった」
「美味しいよとても。美味しいんだけれど。俺の知っている味じゃない」
綾はとても悲しそうな顔をする。
「そりゃあ仕方がないよ。人によって味付けって違うもの」
「そうなんだけど。そうなんだけど」
繰り返した。好物の味が好物のものではなく、箸を持つ手が意思に関係なくプルプルと震えている。
まずい。綾が見ている。しかしすぐに震えを止め、今この瞬間綾をなだめ褒める術が思いつかない。
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