第4話 心折設計

 沼地を歩きながら、分かったことがあった。

 ボクはこのゲーム内では、犬のような尻尾と、そして耳があるということ。そして、たぶんそのせいで、聴覚が鋭くなっていること。

 そのお蔭で、次の泡立ちを見つけるのに苦労はしなかった。


 こぽっ、こぷり。


 その特徴的な音はすぐに見つけられた。

 近寄ってみると、前と同じように泡立ちが激しくなり、だんだんスライムの形が出来上がっていく。

 深呼吸をして気持ちを落ち着ける。前の戦いを思い出し、気持ちを入れる。


 ──準備OK。いざ。


 そう思って身構えると、視界の端で何かが動いた。

 視線を向けと、そこには黒い泡がひとつ浮いていた。

 目の前と、向こう。合計2ヶ所。

 出てくるスライムは恐らく2体。


 ──複数出てくることもあるのね。

  それにしても2体同時か。戦えるかな。


 その答えが出る前に、状況はボクを置き去りにして加速的に変わっていった。

 すぐ横の足元から、こぷりと音が聞こえた。

 その近さに思わず身体を引いてしまう。


「ウソでしょ」


 予想外の事態に、おもわず声が漏れる。

 3体目。

 そして3体目の出現は、その先の最悪の事態を容易に想像させた。


 2度あることは、3度ある。

 3度あることは、当たり前になる。


 嫌な考えに応えるように、そこらじゅうで泡立ちが起こり始めた。

 5ヶ所、7ヶ所、11ヶ所……。


 ──無理だ!


 そう思うと同時に、足が動いていた。泡立ちの間を、縫うように避けて走った。この危険な場所から、少しでも遠く離れられるように。

 でも、走っても走っても泡立ちは振り切れなかった。逃げれば逃げた先で、新たな泡立ちが起こる。

 どこまでも続く泡立ちの中で呼吸が荒くなる。呼吸の度に危機感と恐怖感が、血液と一緒に全身にまわっていく。急き立てられるように、必死に足を動かし続けた。そんな焦りを知って弄ぶように、泥の沼はボクの足を絡め取る。

 地面につけたはずの足は、泥を蹴り滑ってしまう。走っていた勢いそのままに転んでしまう。肩から泥に突っ込み、地面と空が回り、回る。右ひじを思いきり振って、無理矢理に地面に肘をつく。それでなんとか止まった。

 体中の色々な場所が、痛みの代わりに熱くなった。でもそんなことに構ってはいられない。立ち上がろうと沼地に手をついて、そうして気がついた。


 地面が揺れている。


 それも並みの揺れじゃない。比喩なんかじゃなく、本当に地面が波打っていた。立ち上がることなんてできないほどだ、両手をついてやっと体を支えた。

 大きな揺れと周囲に浮かび続ける泡立ち。そして、視界に飛び込んできた光景に、体から温度が引いていくのが分かった。


 地面から泥が、空に向かって噴き上がっていた。

 スライムなんてサイズじゃない。

 一帯の泥という泥を全てかき集めているような、巨大な噴水だった。

 その巨大な噴き上がりから這い出るように、得体のしれない物が、ゆっくりと形を作り出している。


 人のような形。


 何もないのっぺりとした頭部。太く長い、両腕。細長いミミズのようなものが無数に集まって出来ている体。その一匹一匹が、ねっとりとした泥を滴らせうごめいていた。

 怪物が完全に形をつくると、そこでやっと揺れが収まった。

気が付けばボクは上を見上げていた。でも、そこにあるはずの空はなかった。

 気持悪い怪物が空を覆い隠すように立っていた。


 のっぺらぼうの顔に、横に線が入り、口ができる。その口から、目覚めて最初の欠伸でもするように咆哮をあげた。

 あまりに大きな音は、不可視の力でボクの体を泥沼に押し付けた。身動きが取れなくなったボクに、怪物が顔を向ける。


 目も耳も鼻もない。

 醜悪な無貌の怪物。


 その怪物は間違いなくこちらを

 右腕を大きく振りかぶって、それからボクに向かって勢いよく伸ばした。

立ち上がる暇なんて無かった。


 ボクは地面を蹴って、転がるように横に移動した。

 半呼吸。

 それから爆風と爆音。

 吹き飛ばされ、転がされ、視界がめちゃくちゃになった。

 視界が戻ると、仰向けになって空を見あげていた。

 衝撃で宙に舞いあがった泥が戻って来て、土砂降りの泥雨になって地面を叩く。

 その雨に全身を濡らしながら、ボクはただ茫然としてしまった。


 大人と子供なんてレベルじゃない。ゾウとアリほどもあるサイズ差。

 あまりにも大きなものに出会った時、それが何であれ、ただただ、膝を折るしかないのだと分かった。


 ──こんなの無理だ。絶対に勝てない。


 怪物が突き出した腕を引き戻た頃に、やっと体が動き始めた。目の前の怪物から逃げようと、背を向けて走り出した。

 泥沼の足の悪さで、何度も足を取られる。泥の地面は、粘っこい音を立てて、ボクの体を泥の中に引き戻す。それの繰り返しで、先に進むことが出来ない。後ろを見ると、怪物がこちらに顔を向けていた。


 腕を振るい上げる。こちらに向けて勢いよく伸ばす。トラック程もある腕が、真っ直ぐにボクに迫って来ていた。

 

──避けないと。

 

 そう思い、地面を蹴った瞬間。

 ずるり、と足は泥を蹴った。体が泥の中に音を立てて沈んだ。

 危機感で感覚がおかしくなったのだろうか。攻撃が届くまでのわずかな時間が、やけに長く感じられた。


 向ってくる巨大な腕。

 その先にいる怪物。

 目がない顔がボクを見据えている。

 微風そよかぜがボクの前髪を揺らす。

 その風に乗って、何かがボクの背後を通り過ぎる。

 襟首を掴まれ、そのまま引っ張られる。

 怪物の腕が地面に突き刺さる。

 大きな音を立てて周囲を抉り、泥のしぶきが上がった。


 時間が戻った。

 襟首を離され、放り出された。

 泥水の中を転がった。

 全身泥まみれになりながら、ボクはすぐに体を起こした。

 視線を上げる。


 その向こうには怪物が見えた。

 そして。

 その怪物からボクをかばうように、目の前には凛とした背中があった。

 飛び散った飛沫が、土砂降りの雨になって泥沼を叩く。

 その雨音の中でも、その声ははっきりとボクの耳に届いた。


「大丈夫か?」


 よく響く、強い声。

 その声に背中を叩かれたような気がした。

 急に電源が入ったように頭が動き始める。


「はいっ」

「それは良かった。今のお前にコイツは倒せない。今はここを離れることだけ考えろ」


「はい」ボクの返事に、声は「ハハ」と笑った。


「良い返事だ。後ろを見ろ。遠くに一本だけ背の高い樹があるな」


 後ろを見る。一面に黒い平らな泥沼が広がっている。そのずっと向こうに、一本だけ大きな樹が見えた。


「はい。見えます」

「詳しいことはそこで話すよ。コイツは私が預かる。お前は全力で、そこへ向かってくれ。──さぁ、行けっ!」


 ボクはその声に突き動かされるように走り出した。

 ただ目的地だけをみて。ひたすら走った。

 怪物の咆哮が聞こえた。それから空気が、地面が震えた。

 足を取られながら、転びながら、それでも走り続けた。

 はるか向こうに見える目的地を目指して、ボクはひたすら走った。

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