一日目 佐賀、唐津、晴れのち雨
福岡県福岡市のとある町。カーキ色のバイクに跨った女が一人赤い屋根の一軒家に降り立った。フルフェイスのヘルメットを脱ぎ、右手で抱える。女は庭に停められた水色のバイクを見て薄ら笑いをした。遠慮なしに玄関を通り抜け、階段を上がっていく。『まわり』と書かれるネームプレートがかけられた扉を開け、薄暗い部屋に足を踏み入れた。
「よっ! まわり! 日本一周しに行こう!」
「へ? い、いちか?」
ベッドで縮こまっていた女は驚きのあまり奇声を上げたのだった。
朝。九時過ぎ。まわりはキョロキョロと辺りを見渡す。約束の時間は九時。集合場所は公園の前で、メッセージにはもうすぐ着くと送られていた。まわりの額からは汗が流れていた。九月の下旬だというのに夏が終わる気配はまだない。麦茶を飲みながら、いちかの到着を待つ。遠くからバイク音が聞こえる。ようやく来たかとまわりは顔を上げた。
「まわり〜! ごめーん、遅れた〜」
元気よく手を振って現れたいちかに遅れたことへの反省の色は見えない。まわりはため息をついて首を振る。
「いいよ、いつものことだし」
「へへっ! ごめんって、反省してる。荷物がさ想定以上に多くて入らなかったんだよね」
いちかのバイクに積んでいる黒いボックス。大きくてたくさん入りそうだが、これ以上に物を積んでいたらしい。
「何入れようと思ってたの」
「えーと、冬服とか今後必要だし、お菓子とゲームと……」
「分かった、それで置いてきたの?」
「冬が来たら送って貰えばいいしと思って置いてきた!」
「お菓子は?」
「今日のおやつ分は持ってきた!」
「あ、そうなの……」
「ふふっ、大丈夫だよ、まわり。いらないものはいつかなくなるし、必要なものはいつか買えるから。そんな堅苦しく考えなくてさ」
「それは……そうだろうけど……」
「それより、早く行こう! ね?」
いちかの言葉にまわりは頷いた。二人はインカムを繋ぐ。バイカーにとっての必需品であるインカム。一人のときはスマホを繋いでナビや音楽、ラジオを聴く。二人でいるときは基本通話機能として使用している。道の共有や危険察知などを行うこともあるが、基本は雑談のために繋いでいる。互いのインカムを繋ぎ、音の調整を行う。
「いちか、聞こえてる?」
「うん! 問題ないよ。じゃ、出発しようか」
「うん、分かった」
互いにバイクに跨る。エンジンをかけ、音が鳴り響く。右手で前輪ブレーキをかけながら、左足でギアを変えた。いちかが後ろを振り返ると、まわりも準備が出来たと頷いた。
「じゃ、今日も安全運転で行こう!」
日本一周初日、正真正銘一番目の目的地は佐賀県神埼郡にある吉野ヶ里歴史公園だ。
「初日にしては渋いところが目的地になっちゃったね〜」
「いちかが行きたいって言ったからでしょ」
「そうだけどさ〜、あっ、次の信号右ね」
「吉野ヶ里遺跡か、私行ったことない」
「あれ、小学生の頃行かなかったの? あたしはほら、小さい頃は海外に住んでたから知らないけど、あたしの友達は昔行ったことあるって言ってたよ」
「学校によってって感じだと思う。私の友達も行ったことあるって言ってたし。ああ、でも、その子は最近行ったって言ってた気がする。楽しかったみたいだよ」
「なら、最初の目的地としては最適だね。それに、随分と歴史のある地でしょ。戦国時代よりも幾分も昔。日本を作り上げた歴史もある。始まりにはいい土地だと思うけど?」
前を走るいちかの表情はまわりには分からない。けれど、いつものように飄々と笑っていることは顔を見なくても分かる。
「あっ、そうそうまわり」
「なに?」
「道中大変なことになるかも」
「大変なこと?」
「大変なこと」
三十分後、いちかの言葉通り大変なことが起きた。山道は峠を越えなくとも少しヒヤヒヤするもの。急なカーブやスピードマックスで走る車、狭い道。多くの危険がついてくる。その中でも263号線はデッドストリートなんて名前をつけたくなるくらい急カーブが多い。180度のカーブがいくつも続く道は、急カーブ狂なら大満足の道路に違いない。まわりの運転技術はそこそこである。基本街乗りが主なまわりの魂が抜け切ってしまうのは仕方のないことだろう。
「まわり〜! 生きてるぅ?」
「生きてない、死にそう! 何これ、カーブ多すぎだよ」
「あはは、あたしもこれはキツイな」
その割には楽しそうな声が響く。急カーブでは体の重心は外側にし、バイクだけを倒して運転する。カーブが大きければ大きいほどバイクを横に倒して操作をする。自ずとバイクの制御が難しくなり、白線を超えないようにスピードを落としながら進まなければならなくなる。三十キロ以下での走行はもはや仕方がない。下道を通る車が多くないこと、そもそも車自体も制御が難しいこともあり、背後からの気配がないことだけは有り難い。
「ほら、さっき道譲ったバイクも苦戦してる。大型だし大変そう」
まわり達が乗っているバイクは小型のバイク。どちらも形は違うが110ccで高速は乗れない。けれど、燃費がよく、ギア替えのできる人気車種だ。
「小型は小回りきくからいいよね。Uターンとかも割と簡単に出来るし」
「確かにこの道だとほぼUターンしてるみたいなものだよね」
大型のバイクは圧倒的なパワーがある。極端に言えばスピードが出せる。小型はスピードがあまり出ない。馬力が足りないともいう。特に山道では前に進まないことが多い。そういうときのギアの変更だが、大型に比べてしまえば弱い。
「長距離なら大型だけど、こんな狭い道のクネクネなら小型の方がいいかも」
「でも、直線は強いね、もう見えなくなったよ」
「あっ、ならもうすぐ山道も終わりかも」
道が開け、漸くデッドストリートを抜けたようだ。まわりはふぅとため息をついて、グイッと曲がっていた背中を正す。風が心地いい。
「もう二度と通りたくない……」
「はははっ! あたしは結構楽しかったけど」
「なら、一人で行ってよ……、私はもうお腹いっぱい」
「え〜、いけずだなぁ。でも、ほらこれが今回の難所だったわけだし、あとは楽だよ、たぶんね」
いちかの言った通り、その後に極端な急カーブもなく、あっという間に吉野ヶ里歴史公園にたどり着いた。
「受付の人対応良かったね〜」
いちかの言う受付の人とは、駐車場入口で対応してくれた女性のことだ。駐輪場の場所もしっかりと教えてくれた。
「バイク置き場あって良かった〜」
「ないところはないもんね」
「有名な観光地ならあるにはあるけど、ないところは本当にないからねぇ。もっとバイカーに優しい世界を!」
「ふふっ、何それ」
「まわりだって思うでしょ〜」
「まぁ? 確かに思うことはあるけど……」
バイク置き場に困ることなんてザラだ。特に民営のバイク置き場はないに等しい。車専用だったり、あってもバイク小型はダメだったり、駐輪場はあっても自転車か原付だけだったりと散々だ。
「取り敢えずついたんだし、行こう! 予定の三十分は遅れてるんだしさ」
「それはいちかが遅れてきたからでしょ」
文句を言いながら、入口を目指す。大きい広場を抜け、階段を登る。発券機を見つけたいちかは走り出す。子供のような姿に呆れながら、まわりもその後を追いかけた。
「大人二人と」
「意外とハイテクだね」
「観光地だからでしょ」
「それもそうだね」
スタッフの人の誘導に従い、前に進む。大きな橋の向こうに吉野ヶ里遺跡があるのだという。吹流しが風の強さを伝えてくる。広くて大きな橋は勉強に来た子供達が暴れても大丈夫そうだ。
「なんか大きな橋ってワクワクするね」
「いちかは小さい橋でもワクワクしそうだけど」
「まわりは怖がって震えてそう」
図星を突かれたまわりはふいっと顔を背け、誤魔化すように写真を撮る。ニタニタ笑ういちかの手を引っ張って入口を目指した。日差しが眩しい中、はじめに目に入ったのは木でできた門と外壁、そして地面に刺さる木を鋭く尖らせた杭だった。村同士の争いが起きていたことがこの外壁でよく分かる。
「うひゃー、はじめっから物騒だなぁ」
「今も昔も争いがあるのは変わらないね」
「今はここまで露骨じゃないけどね。いい意味でも悪い意味でも。あっ、見て! あそこに猪がいる!」
本物の猪かと思いまわりは驚いて辺りを見渡す。いちかの指差す方向には稾で出来た猪家族がいた。
「ホンモノかと思った?」
「……」
「ごめんごめん、ほら猪家族だよ」
「でもなんで猪なんだろ」
「うーん……、吉野ヶ里遺跡だし、弥生時代でしょ? 自然を表してるとか?」
「猪捕まえて食べてたのかも」
「あっ、あそこにもいる。何体いるか数えるの面白そう」
「絶対数えるの忘れるでしょ」
「確かに、間違いない!」
キャラキャラと笑ういちかに呆れながら、入口でもらったマップを開く。どこから行くのが正解なのかよくわからない。自由に散策するのが一番なのだろう。
「どこから回る? 特に道順とかなさそう」
「まわりが決めていいよ」
「えっ! あ……、えと……、いちかが決めてよ。私はいちかの行きたい通りに行くから」
「……そう? なら南の村からぐるっと回ろう」
「うん、それでいいよ」
南の村と書かれた看板の方へ足を向ける。歩いてすぐ南の村の住居が見えてきた。ベッタリと地面についている住居と少し高さのある住居がある。
「見てみて! 中覗けるよ!」
「ああ、いちか待って!」
いちかが住居の中を覗く。狭い空間には壺や寝床のようなものがあった。いちかはくるりと一回転してから言った。
「結構狭いねぇ! でもちょっと不思議な感覚がする」
「懐かしい感じ?」
「流石にそれはない」
「でも、見た目の割に広いね。それに涼しい」
「これも昔の人の知恵ってやつだ。まわり、他のところも見よーよ」
「うん」
二人は南の村の住居をじっくり観察した後、南内郭へと移動した。南の村は所謂一般住居である。南内郭はそれよりも位の高い人々の住居だ。
「あれ登ろうよ!」
いちかが指差したのは物見櫓だ。南内郭の中にあるそれは見張り台のような役割の建物であり、登れば南内郭を一望できる。
「へー、こんな感じなんだね」
「へーって興味なさそうな声」
「涼しいね」
「そういうことじゃない。いちかは本当にしょうがないんだから。私は案外この景色好きだよ。何がどこにあるか見渡せるし、昔の人たちの知恵って感じがする。こういうので敵の出方とか見てたんだろうなって。今に通じるものもある気がするし」
「いい子ちゃん発言ありがとう」
「いちか、その言い方」
「ごめんごめんって! ほら、まわりちゃん。グルッと回ってあの涼しそうな建物に入ろうよ」
二人はサラッと南内郭内を見て回ってから隣の展示室に入った。
「うひゃー、涼しい!」
「外暑かったもんね。あっ、いちか、色々置いてるよ」
「あたし、ちょっと涼んでから見るから先見てて〜」
「はぁ、分かったからゆっくりね」
いちかをおいてまわりは展示をじっくりと見る。昔の人の風貌からはじまり、日用品や武器など幅広く展示されていた。その中で、猪の牙が置かれているのを見つけたまわりは、出入口付近の藁で出来た猪を思い出した。いちかに伝えようと振り返ると、スタッフと思われるおじいさんと話をしていた。
「い、いちか」
「あはは〜! まわり聞いて! このおじいちゃん色々と知ってるから教えてくれた」
「そんなおじいちゃんなんて……」
「よかよか、なんでも聞いて」
「えー、なら昔の人って、夫婦別居してたんですか? さっき妻の家ってのを見たんです。それでまわり……、その子と夫婦別居じゃんって笑ってたんです」
ケラケラと笑ういちかにまわりは頭を抱える。まるでバカ丸出しのようだ。しかしスタッフのおじいさんはそんないちかをバカにするでもなく真剣に答えていた。
「昔のことやけよう分かってないちゅうのもあるけどね、一つの説として妻が何人もいたってのがあるよ。ただ、何人妻がいたとか、どうやって暮らしてたかとかまだ分かってなかとこもあるんです」
「ほへー、すごいね、まわり」
「そこのお姉ちゃんも聞きたかことある?」
「えっ、私ですか? あの……、それじゃあ、あの猪の牙は……」
「ああ、昔はね、猪飼っとったって説がある。その証拠として、猪の歯にな歯周病の痕跡があったらしい。人間が柔らかいものばっか与えたからかもしれんって」
「昔の人は猪を飼ってたんですね」
まわりはそういえばと思い出す。テレビで昔は猪を飼っていたが、飼育や繁殖など難しい部分が多く、結果その文化が無くなったのだと。線と線が繋がったような感覚にまわりは目を輝かせる。それに入口の藁の猪はただ自然を生きる人々を再現するためだけに表したものではなかった。一緒に過ごしていたことを暗示させていたのだ。きっとこの園内の装飾品に様々な意味や想いが込められているに違いない。
「ふふっ、まわり楽しそう。そういえば、歴史好きだったね」
「弥生時代とかサラッと流れるし、高校は世界史とってたから日本史は詳しくないんだけど、でも面白いね。全部繋がってるみたいで」
「みたいじゃなくて繋がってるんだよ。点線なんかじゃない、意味がない一日でもちゃんと繋がってる」
いちかの言葉にまわりはポーッとしてからただ無言で頷いた。それからスタッフのおじいさんに付き合ってもらい、説明を聞いてから展示室を出た。次行くのは北内郭だ。
「でか」
「大きい……」
吉野ヶ里遺跡。当然の如く、復元された建物である。二人が目にしたのは主祭殿。復元されたものとはいえ、何千年のもの昔の人々が今でいう三階建ての建物を建築できたという事実に驚くばかりだ。見上げるのも大変なくらい立派な建物である。行きゆく人々も唖然している様子だ。いちかは興奮のあまり自然と体が前に進んでいく。まわりも置いていかれまいと二階へと続く階段を登った。
「うわっ! ビックリした」
そう声を発したのはいちかだ。二階には何体もの人形が置かれていた。偉い人々が集まっている様子を表しているらしい。一番偉い人が真ん中に座り、左右に向き合う形で人形が置かれていた。
「人形びっくりするね」
「さっきの南内郭もだけど予告なしに人形置かれると心臓に悪い」
「予告されてもって感じはするけど」
「確かに」
その場でクスクス笑って、上に繋がる階段を登る。しかし、三階には二階とはまた違う異次元の光景が目に映った。二階に置かれた人形の数は二十を越えていたが、光が差し込み、恐ろしい雰囲気はなかった。それに反して三階は人形の数はわずか五体。皆同じく白の衣装を着ており、光は遮断された物々しい雰囲気。皆一様に一方向を向いている。一番前に立つのは巫女だろうか。祈りを捧げていた。まわりもいちかも押し黙る。圧倒されてしまったのだ。まさかこんな光景がいきなり目に飛び込んでくるとは思うまい。二人は無意識に目を合わせてこくりと頷いて、その場を後にした。
「いやぁ、ちょっと怖かったね、雰囲気」
「祈りを捧げてるんだろうけど、特別な感じがした。人形であの雰囲気なら本来ならもっと重々しい雰囲気なのかな」
二人が階段を降りて外に出た。眩しい日差しに目を細める。入口付近に立っていたスタッフのおじいさんが二人に気づくと声を掛けてくれた。
「どうだったね」
「なんかちょっと怖かったです。三階」
「へー、そう。あの巫女はどっち向いてたか覚えてる?」
いちかは悩むそぶりをする。ぶっちゃけあまり覚えていない。階段を上り下りしたせいなのもあり方向感覚はぐちゃぐちゃだ。いちかは適当に指を指す。
「えー、本当にそっち?」
「違いましたっけ?」
「違うよ。そっちの子は分かる?」
まわりは戸惑いながらも北を指差した。
「そう、そっちね。君たち今まで南から来たでしょ? 北に上がってる感じでしょ? 南の村は村人、南内郭は王様の家でしょ、どんどん偉い人になっとるのよ。そんで、ここでは巫女さん北を向いてたでしょ。北はね、死者の国て言われとる。遠くのあの棒見える? あそこから死者の国って言われてるから。見ておいで」
「あっ、そういうことだったんだ! 全然気づかなかったし、気にも留めてなかった。意味がある建物配置だったんだ。なるほど、面白いですね! 行ってみます! まわり行くよ」
「えっ、うん! あの、ありがとうございました」
「うん、気をつけてね」
思った以上にコンセプトがしっかりしていた。分かりやすいし面白い。いちかもまわりもワクワクが止まらない。予想以上の楽しさに浮き足立っていた。
先ほど伝えられた木の棒を通り抜け、真っ直ぐ行くと、人一人入れそうな壺が並んでいた。それを横目に歩いていくと、北墳丘墓がある。室内で少し独特の匂いがした。この中にも大きな壺のようなものが土に埋められている。そう、これこそがお墓である。
「足を畳んで壺の中に入るんだね」
「なんでこんな形なんだろ」
「あそこに書いてるよ」
まず、土を掘ります。深く掘ってから横穴を掘ります。そして、棺桶を横穴にいれ、死体をいれます。蓋をします。埋めます。
「なんで横穴掘るの? そのまま埋めればいいのに」
「それは説明書いてないね」
「書いてないのか、なら仕方ないね」
「仕方ないって……、まぁいいか」
全てが分かるわけではない。それを想像するのも楽しいし、諦めて帰るのもまた一興というものだ。
「あっ、まわり下」
「え?」
まわりが床を見ると棺桶が剥き出しに見えた。驚いて跳ねる。どうやら床がガラス張りになっていたようだ。まわりは震えながら心を落ち着かせる。
「び、ビックリした。ガラス張りになってるなんて聞いてないよ」
「上から見た姿を見よう的な?」
「それにしても急だよ! 東京タワーみたいにしなくていいのに」
「ガラス張りはスカイツリーの方でしょ」
「どっちでもいいよ!」
まわりは涙目になりながら外に出た。園内見ながら歩き回ってもう一時間半が経とうとしている。なんだか、一時間半とは思えない程の量と質だった。それから二人は倉と市という物置小屋を見てから吉野ヶ里歴史公園を後にした。
バイクに乗り次の地へ。次は環境芸術の森だ。
「いやぁ、それにしても最後帰る時迷っちゃったね」
「思ったより広かったもんね。奥の方行かなかったし」
「おじいちゃん達に大事なのは北墳丘墓までって言われてたからね。いいんじゃない? それに時間ちょっと押してるし」
「それはいちかが遅刻してきたからでしょ」
「え? なんのこと」
惚けるいちかを叱りたいがバイクに乗っているため睨みつけることも軽く触れることも出来ない。まわりはわざと大きな声でため息をついた。
「あはは、怒らないでよ。それより昼ご飯は本当に大丈夫? あたしはほら、さっき吉野ヶ里でちょっと食べたけどまわりは何も食べてないでしょ?」
「胸がいっぱいでお腹空いてないんだ。あと、朝ご飯やたら多くて」
「おばさん張り切ってたんでしょ、どうせ」
「まぁ、うん、そうかも」
まわりの朝ご飯はそれはもう豪勢だった。銀鱈に卵焼き、めんたいご飯と豆腐のブラウニー。ホテルの朝食並のラインナップは昼を過ぎても腹を満たしている。それに反して一人暮らしかつ旅慣れしているいちかは菓子パンを一つ含むだけだった。
「まっ、暫く会えないしそうなるよねー」
「いちかも鹿児島行ったら歓迎されるでしょ」
「うちのお母様はわりと淡白よ? まぁ、まわりと一緒なら多少は豪華になるとは思うけど」
「私の家もいちかがいたらもっと豪勢だったよ。それよりほら見ていちか! 川が見えるよ」
「ははっ、川なんて走ってたら見れるよ」
「涼しいね、いちか」
「空気が美味しいよね。すーはーすーはー」
川の流れが心地いい。マイナスイオンが感じられる空間だ。
「やっぱりツーリングはこうじゃなくちゃ。空気って美味しい〜!」
「でも、いちかって秋でも花粉症になるんじゃなかった」
「あっ……。ペッペッ」
「空気を吐き捨てる人初めて見た……」
「ま、まだ九月だから、まだギリギリ夏だから、だからきっと大丈夫だからーーー!」
いちかの叫び声はインカムを通してまわりをダウンさせる。鳥達が飛び、空高く消えていった。
環境芸術の森。そう呼ばれている佐賀の隠れスポット。映え写真が撮れることで有名なそこは紅葉の季節になると多くの人々が美しい景色に酔いしれるのだという。なお、まだ緑輝く季節の今、観光客は見られない。
「うわっ、新札通らない」
そう嘆いたのはいちかだった。チケット販売機で、新しく発行されたばかりの千円札を通すと、無情にも跳ね返ってきた。どうやら野口さんしか受け付けていないらしい。
「お札新しくなったばっかりだもんね。私まだ五千円札の新しいの持ってない」
「AAが続くと値段高騰するかもみたいな噂あるよね」
「ああ、お札の番号でしょ? ガセって聞いたけど」
「そうなの?」
「珍しい数字じゃないとなかなかみたいだよ。それで野口さんの方のお札はあるの?」
「うーん……、小銭出すから大丈夫」
いちかはそういうとじゃらじゃらと小銭を取り出し、チケット販売機に投入した。そのすぐ隣に山荘がある。その山荘で入口に猫がドーンと寝そべっていた。二人が近づいても全く動く気配はない。「なんやわれ」と言うように睨んでくるだけだ。
「ねこねこだー! かわいいねー」
猫はクワァと大きなあくびをする。急にテンションが上がったのは、意外なことにまわりの方だった。
「かわいい〜。いちかも……って、何してんの」
「あたし、動物は遠くから見る派」
「なにその謎の派は」
「だって動物触ったら壊れそうで怖いんだもん」
「赤ちゃん抱いたパパの感想だよ、それ」
まわりは仕方なく猫の頭を撫でてから立ち上がった。
「あれでもいちか犬飼ってなかった?」
「うん。あれはうちの子だから大丈夫」
「他所の子じゃなければいいのね」
まわりは猫をもう一度見た。やっぱり猫はここの家主顔で欠伸をしていた。そんな山荘の写真スポットはその二階にあるようだ。二人はそのまま二階に上がった。中に入ると質素なお座敷があった。大きな机、それと窓際に椅子とデーブル。外は池のある庭。申し訳ないがあまりに質素で無機質だった。反射した光景が綺麗だと言われていたが、池に反射するのだろうか。時期か天気が悪かったのか、ガッカリする。
「まぁ、こういうこともあるよね」
そう諦めようとした時、奥の方から女性のスタッフが現れた。優しく笑みを浮かべて、二人は持っていたチケットを慌てて渡した。
「ありがとうございます。写真の撮り方でございますが、こちらの机の方にカメラを置いて撮ってもらいます。一度カメラを預かってもいいですか?」
まわりは頷いて、手に持っていたスマホを渡した。スタッフは二人に説明しながら大きな机にスマホを置き、そこから写真を撮った。まわりはその写真を見て唖然とした。
「え……、嘘……」
「なになに、まわり見せて見せてって……、うわっ! すごい!」
それは机に反射し、幻想的な写真となって現れた。美しい森のコントラストが机に反射し、鏡の世界を机に描いたのだ。つまり、外の風景が反転して机に写っている。それが写真となることで、緑が広がるように写ったのだ。
「綺麗……」
「このように撮りましたら、サイトなどで見られる写真になりますので、よろしくお願いします」
説明をしてくれた女性のスタッフは好きに撮影するようにだけ言うと、遠慮をしてか、奥の方へ戻って行った。まわりといちかは事前に調べることをせず、ただ諦めてしまったことに後悔した。見方を少し変えただけで百八十度景色が変わったからだ。そしてテンションが上がる。紅葉や新緑の時期が綺麗ですと言われたが十分今でも美しい。感動できる。二人は無我夢中で写真を撮った。目に見える景色と写真で撮る景色。写真の方が見劣りするのが常なのに、ここは違う。面白い。こんなこともあるのだ。人が少ないからこそゆっくり写真が撮れる。時期じゃないから諦めるのはなんて野暮なことか。綺麗で美しいものは素晴らしい。
「どう? まわり撮れた?」
「うん……、うっとりする綺麗」
「ほら見てー、擬似秋」
まわりはいちかの言葉に意味が分からず写真を覗き込む。その写真は加工をされ色付く世界へと変えられていた。
「緑も綺麗なのに」
「まぁまぁ、現在の技術の発展で緑をいろんな色に変えてみたっていいじゃないの」
「そういうこと言うんだから。いちかも満足したなら帰ろう」
「待って待って! ちょっとお庭見て周ろうよ」
「うん」
いちかとまわりは部屋を出て、屋敷の周りをぐるりと散歩する。彼岸花が咲き、綺麗に整えられた池もある。自然豊かな森だ。
「なんだかゆったりするね。川の音と葉が揺れる音」
「まわりは結構ポエミーだ」
「なにポエミーって」
「ジョーダンジョーダン。秋にもう一回来たいな。紅葉狩り絶対いいじゃん」
「散歩道、十五分と三十分のコースがあるって書いてたもんね。きっと紅葉狩りにたくさん人が集まりそう。……そういえばいちか昔紅葉狩りのこと紅葉を刈り取ることだと勘違いしてたよね」
「あっ! さっきのお返し? あたしの恥ずかしい過去の勘違いを!」
「ふふっ、ごめんごめん」
「ほら帰ろう! 今日はこれで最後でしょ?」
「うーん……、お腹すいた」
「確かに私もお腹すいてきたかも」
「なら、むふふハンバーガー食べに行こう」
「ハンバーガー?」
環境芸術の森は佐賀県唐津市に存在する。今日の宿は唐津市に位置するドミトリー。所謂カプセルホテルよりさらに簡易的にした宿。一部屋にベッドが複数並んでおり、場合によってはカーテンで仕切られるだけの場所。若者の利用率も多く、安いことが売りの場所が多い。そんな宿が最終目的地というわけだ。そして唐津市といえば有名な唐津バーガーである。二人はその唐津バーガーを目当てに唐津うまかもん市場に訪れた。駐輪場の横に置かれたキッチンカー。まだ四時だというのに、ハンバーガーを求める人の姿が何人かいた。
「まわり、何バーガーにする? なんか色々あるけど」
「なにが美味しいんだろ……」
「あたしは王道のスペシャルバーガーで」
スペシャルバーガーとは、キャベツ、パティに加え、卵、チーズ、ハムも挟んだ贅沢ハンバーガーだ。すべての具材を合わせたハンバーガーのため、値段もメニューの中では一番高額だ。スペシャルバーガーの他にはエッグバーガー、チーズバーガー、ハムバーガーがある。
「……いちかはリッチだ」
「リッチって……、そんな高くないでしょ」
「私はエッグバーガーにする」
「いいの?」
「うん、エッグバーガーも美味しそうだから」
数分待ち、出来上がったハンバーガーをベンチに座って食べる。熱々のハンバーガーからいい香りが漂う。今更ながら腹が鳴る。まわりは昼に何も食べていない。朝ご飯を食べすぎたとはいえ、もう夕方。ハンバーガーを目の前に我慢できず齧り付いた。シャキッとしたキャベツの甘みを感じた。その後黒胡椒がよくきいたパティが口の中を占拠する。バンズは焼かれておりサクサクで、パティとの相性も良い。
「美味しい!」
そう叫んだのはいちかだ。いちかのハンバーガーは既に半分も無くなっていた。特別大きなハンバーガーではないためか、すぐに無くなってしまう。
「もう一個食べれるかも」
「確かにそのくらい美味しかったね」
「男子高校生なら十個は余裕だな」
「今時男子高校生ならって偏見は言わない方がいいよ」
「なら、食欲旺盛な若者!」
「あ、うん、そうだね」
本物の大食いの人なら百個行けたりして。今度はまわりが心の中で考える。さすがに無理かと頭を振り、いつの間にか無くなったハンバーガーの袋を折り畳んだ。ソースが手につかないようにしながら、いちかの袋ももらい、ゴミ箱に捨てる。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした」
手を合わせて二人はそのままバイクに乗った。
長いようで短い一日目の最終目的地佐賀県唐津市。福岡から一時間半程度で行ける距離感だが、随分と遠くまで来た気分になる。ドミトリーの部屋を選択した二人は寝室では話すことはできないため、飲食スペースでゆっくりと過ごす。
「どうだった? 今日は」
いちかは頬杖をつきながら聞いた。けれどまわりの顔を見たら、その答えはすぐに分かる。
「楽しかった。すぐに行ける距離なのにどこも知らなかった。楽しいことも多くて、ワクワクもたくさんで、なんだろう……、たった一日なのに、旅に出て良かったって思った」
「今日はわりと運が良かったのもあるね。旅してたらあー、失敗したなーってこととかもあるし。でも、あたしもまわり連れ出して良かったって思うよ。そんな幸せそうな顔見せてくれたからさ」
「……いちか。うん、そう、私楽しいんだ。だから、明日も明後日も私の知らない場所に知識に巡り会えたらいいなって思うんだ」
「そっか。うん、明日もたくさん見て回ろう。とりあえず、明日は呼子と長崎ね。朝は軽めにして、イカを食べるぞー」
「お、おー!」
明日は二日目。どんな旅が待ち受けているのだろう
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この物語は実際の人物・場所を参考にしたフィクションです。あくまで参考であり、一部脚色、事実と異なる点が含まれています。登場する場所は実際に存在しますが、訪れる際は事前に調べることをお勧めします。
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