旗里塚市役所職員・枯塚語句郎のゼロガイ奇譚
上山流季
相談者・定井百合絵①相談
思い出すだけでゾッとする。
朝起きるとリビングで夫が死んでいた。
八月十二日火曜日。三連休明けの平日だった。
この三連休、夫は出張に出るとかなんとかで家にはいなかった。昨晩、どうやら帰ってきたらしい気配は感じていたが、私は半分夢の中にいたので出迎えもしなかった。
そうしたら翌朝、リビングで死んでいたのだ。
起きてすぐ、夫の姿が寝室にないことに気が付いた。
時計を確認すると朝七時。出勤にしては早すぎる。
ダブルベッドから身体を起こし、夫婦の寝室を出る。
階段を降りようとして、一瞬、嫌な予感に足を止めた。
しかし降りないわけにもいかず、夜のうちに充電されたスマートフォンを握りしめ、一歩ずつ階段を降りていく。
ぎし、ぎしと下るにしたがって、もったりとした重い瘴気が一階から立ち上ってくる。同時に、不快な臭いも。連日の暑さの中で放置された生ごみのような、肉と脂の酸化したような……なにより強く感じたのは、強烈な血生臭さ。生き物の死の臭い。
一階の廊下に降り立つ。リビングへ通じる扉がうっすらと開いている。
私はおそるおそる、中を覗いた。
リビングは血の海だった。
中央に位置するテーブルが原因だとすぐに理解する。
正確には、テーブルの上と、周囲に散らばった夫からの出血だと。
夫の席に、手足の千切れた胴体が座っていた。
テーブルの上には首から千切れた頭部と両腕が。
テーブルの下には両足が落ちている。
頭部に目はなく、抉り出された眼球は床に飛び散っている。恐怖で歪んだ顔に生前の面影はない。
ああ、夫が死んでいる。
私はしばらく呆然と立ち尽くしていた。
「一八九番の人!」
ハッとして意識を現実に引き戻す。
手元に配布された整理券の番号を確認する。
一八九番。
「あ、は、はい……!」
慌てて立ち上がり、窓口へ向かう。
八月十八日月曜日。私は市役所を訪れていた。
夫が死んだ後始末――
「どォも~。本日窓口で対応させていただきます、
大きな丸眼鏡に黒い天然パーマの二十代中盤と思しき青年が、名札を示しながら自己紹介する。
狐のように目を細めた、ニコニコと、場違いなほどの笑顔。シャツのボタンは上まで止められておらず、ネクタイも派手で、緩んでいる
名札に記された名前は『
対応が悪かった場合……つまり、市役所に苦情を入れる場合に備えて、私は彼の名前をしっかりと記憶した。
「はあ、あの……
こちらも名乗って、頭を軽く下げておく。
枯塚は左手に持ったペンで、手元に広げた手帳に『サダイ』と書いた。
「早速ですが、ご説明させていただきまァす。本日はゼロガイ申請ということで、こちらの申請、初めてですかァ?」
「ゼロガイ?」
「あァ、霊障被害のことです。
「はあ」
「それに! ゼロガイのほうが音がカッコイイ! いかにも例外的ですよォ、
したり顔の枯塚。
これ以上空気を悪くしてはいけないと、なんとか苦笑する私。
枯塚は「話を戻しますねェ」と言って左手のペンを回す。
「改めて、ゼロガイ申請は初めてですかァ?」
「ええ、はい……」
「オッケェイ! では、一応ご説明しておきましょう。
霊障とは、霊によって引き起こされる不調や現象のことです。
三十年前、日本では公的に霊の存在が認められました。
霊に苦しむ人々を救う法律もできました。
たとえば除霊ェ! 国が養成し派遣する除霊師の活躍で、空き家に憑いた霊を祓って、特定空き家の除去や修繕が可能になりました。
たとえば診断ン! 原因不明の不調を訴える患者、霊視すると、なんと! その人を恨んだり妬んだりしている人の生霊が憑いている! 除霊師にお清めしてもらうと、患者の不調は改善!
そして除霊師による治療には、もちろん保険が適用されます。これも一種のゼロガイですので。
たとえばお守りィ! 霊媒体質――霊に憑かれやすい体質のことですねェ――専用のお守りが発売されて話題になりました。定期的な交換は必要ですが、霊による怪我の絶えなかった一定層が大絶賛! 一般層にまで普及して、生産が追い付かない事態にまでなりました。
あァ、言っておきますが、ちゃんと国が認定するお守りがいいですよ、絶対! パチモン業者のお守りなんか、なにが入ってるかわかったもんじゃないですからねェ~。
とォにかく! 霊の存在が認められたことで、霊による被害事案――霊障被害という新しい概念が生まれました。人を呪えば殺せる時代の到来です。
まァ、今回の申請に関して言うと『被害者の救済や補償について国が法律で一定の基準を定めている』くらいの認識で大丈夫です」
枯塚はここまで、立て板に水でも流すようにスラスラと話した。資料を確認しようともしない。おそらく、生まれたときから霊が認知されている世代だ。私とは感覚が違うのだろう。
「それで、定井サン。本日はゼロガイの申請に来られたんですよねェ。警察への相談はもう終わられてます?」
「ええ……その……」
私はためらいがちに俯く。
「発見時に……もう、通報していて……警察の人が捜査した結果、その、霊障被害だろうということで……」
「ははァ~」
枯塚はなにかを察知した様子で細い目をさらに細め、眼鏡の位置を直しながら笑う。
「なにがあったんですかァ?」
楽しそうに、左手でペンを回す。
私は、この男に霊障被害について話すことを躊躇った。
私と夫の身に起きた悲劇を、こんなに楽しそうに。こんなに嬉しそうに。こんなに喜ばしそうに。
溢れる好奇心を隠そうともしない。
こんな男に、私と夫のプライベートを話さなくてはならないのか。
膝の上、両手を強く握る。
今からでも、担当者を変更してもらおうか。
口を開こうとしたとき、枯塚が右手の人差し指をスッと立てた。
「定井サン、僕があンまり褒められた職員でないことは認めます。しかし、アナタだってそんなに大層な人間じゃないでしょう」
眉根が寄るのを感じた。
「……どういう意味ですか?」
「言葉どォりの意味です。人間は、醜い。でも僕ァ
枯塚は右手の指を振る。
「僕ァね、定井サン、アナタの醜さを責めません。弱くて、脆くて、とびきり危ういその感情を、僕ァ、決して否定しない」
窓口に向かい合う男は意味深長に続ける。
「でも……僕以外の担当者は、どうかなァ」
私は、額から汗が伝うのを感じていた。
この男は、なにを言っている?
気付いているのか?
そんなはずはない、まだ、なにも話していないのに。
「もう一度聞きますね、定井サン。なにがあったんですかァ?」
枯塚が笑みを崩さないまま繰り返す。
私は、唾と一緒に躊躇いをも呑み込んでいた。
「夫が……バラバラになって死んだんです」
私は俯き、組んだ両手と、荒れた指と、欠けた短い爪とを見つめながら、話し始めた。
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