第6話



 今回の留守は二カ月近くに及んだから、シザは自分の家に入った瞬間からもう歯止めが利かなくなっていた。

 言葉で会いたかったなどと、分かり切っていることを重ねることすら億劫だ。

 ユラの姿を一日でも見ないことなど彼には耐えられず、各国でピアニストとして行われる彼のツアーの様子は、配信されるものならば全て目を通す。

 

 ファンと家族に感謝します。


 ツアーの最中に、きちんと毎日更新される彼のSNSの最後の言葉に、優れたピアニストであるわりに口下手なユラはいつもシザに愛情を示してくれた。


『僕の家族は、おにいちゃんだけだよ』


 幼い頃ユラは泣いているシザをいつもそう言って抱きしめて、撫でてくれた。

 ユラが口にする『家族』という言葉には、この世でシザ以外は含まれてはいない。

 それはシザの口にする『家族』にも『恋人』にもユラ以外の可能性が一ミリたりとも含まれていないのと全く一緒のこと。

 二人は全く同じ感性を、二人だけの世界で共有して来た。


 会いたい。

 会って抱きしめたい。


 貴方の身体を感じたいと、メールで打ってしまうことは簡単だ。

 それでもその一言を言えば、必ずユラは自分の元に戻って来てしまうだろう。

 それが分かるからツアー中は、家族として収まる程度の、愛しているという事実以外は口にしないと心に決めている。


 今の不自由を選んだのは自分で、ユラに選ばせたのも自分だ。


 シザ自身は、それ以外選ぶ可能性を考えられなかったとは思っていたが、ユラがシザに付き合って同じ道を歩むことはないと、そのことは強く思っている。

 ユラは四歳の頃からずっとピアノをしていて、今ではプロのピアニストとして活動をしている。

 

『言葉にしなくても 伝わるから』


 ユラが音楽を愛するのは、たったそれだけの純粋な事実。

 彼は幼い頃から……いや、生まれた瞬間から何一つ、自分の気持ちを言葉に出来なかったのだろうと思う。

 


『たすけて』



 そのユラがたった一度だけ、シザに願ってくれたこと。

 その願いを聞こえないふりをしてまで、平穏に暮らしたいなどと思ったことはない。

 いや平穏な暮らしなど、最初から望むべくもなかったのだ。

 だからユラは今でも時々、自分がシザを巻き込んでしまったということを言うけど、それは全く違うのだ。


 あの一言で、ユラはシザに勇気を与えてくれた。

 自分一人の為では決して逃れられなかった、あの運命からもがき出す勇気を。

 同じ光や未来を望んでくれる人間がいるから、人は、あれほど強くなれるのだとシザは思うのだ。


 だからユラの強さも弱さも……それは全ていつだって、シザを救ってくれる。

 

 シザに首筋を唇で探られ、感じて首を反らしたその拍子に、ユラの耳に取り付けられたピアス型特別IDが眼に入った。

【グレーター・アルテミス】は独自の法で動くため、その居住者が他の州や国に行った時に問題を起こさないよう、常にGPS機能を所持して動くことを義務付けられていた。

 ユラは国際法に基づいて国境越えを許された音楽家なので、それを示すための特別IDチップがはめ込まれたピアスなのだ。彼はこれに、GPS機能も内蔵させている。


(ああ、忘れてた……)


 アポクリファだから管理されるという、不自由と。

 世界各国どこにでも行けるという自由。


 そのどちらも強く望んだことのないユラにとって、これは枷のようなものだ。

【グレーター・アルテミス】に戻ったら、入国した瞬間に装着義務の消えるこれをシザの手で取ってやることが二人の間の決まりだったのに、初めてそれを忘れた。

 どうせ枷なら貴方につけられたいとユラが望んだピアスを、シザが抜き取ってやる。

 そういう約束になっているのだ。

 サイドテーブルに軽く投げてようやく、いつも通りになった。


(段々余裕が無くなっていくな)


 自分は。

 強請るように彼の首元に顔を埋めると、髪がそっと撫でられて、ユラがシザの耳朶に唇を寄せて来た。


 自分からは手を伸ばさない。

 この手はもう血に汚れたから、大切な人に伸ばせばその人を汚すことになる。


 だからシザはユラの優しい手に撫でてもらうと、この世で一番安心するのだ。

 そして人間だとかアポクリファだとか関係なく、一番大好きな人に自分の中の何もかもを許してもらったような気持ちになる。

 彼は防衛本能から、普段の暮らしの中で自分自身の率直な思いを十分の一も表現していない。

 でもユラが優しい手や言葉で語り掛けてくれると、少しだけ素直に言葉に出せるようになる。



「……もう、こんなに離れてるのはいやだ」



 キスの合間にどこか遠く聞こえて来たシザの声に、ユラは感じながら唇を微かに微笑ませる。

 シザは――これは少年時代からだったが――、あまり自分から何か強く願うということがないひとだった。

 きっと彼にも望みや願いがたくさんあるはずなのに、彼はあまりにもそれを口に出すことがないし、「そんなにやりたいことはないんだ」とさえ口にする。

 同時に、ユラの望みや願いは聞きたがって、いつもそれを叶えようとしてくれる。


 ……彼は、昔からそういう兄だった。



(うれしい)



 珍しくシザが願ってくれた。

 この世の誰に必要とされなくてもいい。

 世界が自分をいらないといっても構わない。

 シザだけが自分を欲しい、必要だと言ってくれれば、それでユラは堪らないほど幸せになれるのだ。


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