第10話 一緒にいたい

 しばらく忙しくなると、鴻巣から告げられて――


「わかった、夜遅く帰るのが続くってことね?」


 と、返す。普通に受け答えをしただけなのに、鴻巣にきつく抱きしめられ――


「約束してください、少しでも不安になったら――すぐに私に言うこと。仕事中だろうが何だろうが、すぐに、ですよ」


 と、優しく囁かれて――かえって泣きそうになる。


――どうして、あなたは――わかってしまうんだろう――本当にささやかな、心の震えですら――


「一緒に住んでるんだから、そんなに心配しなくても――」


 大体、心配するのはこっちの方でしょう、若いからって無理をすると――と、言いだすと、鴻巣は笑って「わかってます。涼香を残して死ぬわけにはいかないんで」と――

 その瞬間、かつてないほど、四条の心が揺れた――鴻巣を喪う可能性など、真剣に考えたことがなかったから――


「頼むから、無理しないで――あなたを喪ったら私は――」

「はい、無理しませんから――涼香も、無理しないと約束してください」

「――約束する――」

――これでお互い、安心ですね――


 鴻巣の甘い笑顔、甘い声――


 忙しくなる理由は、鴻巣の恩師である黒岩に、研究範囲である英語圏の文学に関する雑誌を立ち上げようという話がきたからだった。

 専門的で、書店に並ぶような類のものではないが、若手が活躍できる場所を少しでも増やしたいと、常々思っていた黒岩にとって、取り組む価値のある話だった。

 愛弟子の鴻巣も、もちろん協力することになり――とは言っても簡単ではない。

 鴻巣は校正のアルバイトをしたこともあったし、筆も早い方だったが、それでも日々の仕事にプラスアルファになるのだから、一段落するまでは、さすがに多忙な日になってしまうことは、容易に予想できた。


 どんなに遅くても、鴻巣が帰って、少しでも寝たならば、痕跡があった。

 ふと、目が覚めて、彼女が自分を抱きしめるようにして寝ていたり、四条も熟睡して気がつかなかった時でも、着替えた衣服や、食事した皿があったり――

 そんな時はまだマシで、大学から、鴻巣がまだ引き払っていないマンションの方が近いので、そちらに寝に帰って、四条の家へ帰っていない日が続くこともあったり、連絡をするのさえタイミングがなかったりする時もあって――


 そんな時に限って、ふと思い出してしまう。

 鴻巣が、ひとり暮らしをしていた時のマンションを、まだ解約していないと話した時のことを――


「そろそろ、更新の時期だから、考えなくちゃいけないんですよね」


 どうしようか――と、悩んでいる様子に、四条はなぜか悲しくなった。何で、悲しくなる?そう、自問自答していると――


「そうか、ここ以外に帰る場所が――」


 と、思わず言ってしまい、言葉を切る。鴻巣の顔を見れずに、四条はソファから立ち上がって、キッチンへ行こうと――

 腕をとられて、ソファへ座ったままの鴻巣に抱きしめられる。


「何か、誤解したんじゃないですか?ねえ?」

「誤解?」

「私が悩んでたのは、大学に近いから、仮眠をとるのに便利で、それだけです。四条さんとの同居を解消するためじゃないですよ」

「別にどんな理由だって――あなたの自由だし、かまわない――私が何か言う筋合いはないし――」

「ありますよ、だって私たちは恋人同士なんですから――」

 言いたいこと、言っていいんですから――と、鴻巣に言われて――


「一緒にいたい、ずっと――あなたと一緒に――」


 四条は、ひとり、部屋で口に出していた。その時のことを思い出して――

 鴻巣は、心底嬉しそうに笑って――私も、そう思っています――と――

 だんだん、ふたりきりでいる時間が増えて、四条は素直に、甘えられるようになって――鴻巣が初めての恋人だから、どうしていいかわからない時も、まだ多いけれど――

 お姫様と呼ばれる時もあるくらい、鴻巣は自分が甘えれば甘えるほど、嬉しいようだった。


 幸福なようだったから――


「会いたい、久実――…寂しい、一緒にいたい――…」


 呟いて、鴻巣が着替えたらしいシャツを握って、いつの間にかソファで眠っていた。


――やっと終わった、と、弾むように帰路を急ぐ。マンションの駐車場へ車をとめると、エレベーターが来るのももどかしく、ドアを開け――


「涼香――」


 と、リビングに明かりがついているのに、静かで――怪訝に思いながら、ソファの近くまで行くと――四条が自分の脱いだシャツを、ライナスの毛布のように抱えたまま眠っていた。


「嘘――涼香、え、嘘でしょ」


 にやけてしまう顔をどうにか引き締めてから「涼香、風邪ひいちゃいますよ」と、なるべく驚かさないように静かに声をかけた。

 体がビクッと震え、四条が目を覚ます。


「久実――どうしたの?え?今、何時――」

「まだ19時です。例の仕事が一段落したので、明日と明後日と、休みもらえました」

「そう、よかった――じゃあ、今日はゆっくりできる――」


 起き上がって、鴻巣のシャツを持ったままなことに気づき――瞬間、頬が熱くなって――


「あ、これは――違う、そうじゃなくて――」

「私がいるから、もういいですよね」


 優しく抱きしめられ、四条は余計に恥ずかしくなる――


「寂しい思いさせて、すみません――」


 ドラマの主人公みたいなこと、言うんじゃない、と心の中で思いながらも――ドキドキしている自分に腹が立つ。


「久実――…」


 それでも鴻巣の胸に顔を埋めて、四条は――


「寂しかった――…」


 小さい声で、恥ずかしさをこらえて――鴻巣はそれだけで胸がギュッとしめつけられ、同時に――


「ああ、私もです。ずっとこうしたかった――今日は、いっぱい甘えてください」


 あからさまに嬉しそうな鴻巣に、四条はちょっと悔しくなりながらも、言葉通りに甘えた方がいいのだと、経験則でわかっていた。

 それに――結局自分も、甘えて心地いいのだ。年下だけれど、確実に自分を愛してくれている優しい王子様に――


「じゃあ、このまま抱きしめて、キス――して、ほしい」


 お安い御用です、と、ついばむようなキスを、唇と頬と、首筋と――

 四条は彼女の顔を抑え、わざと?と思いながらも「違う、恋人同士の――キスがほしいのに」と、言った。


「ああ、そうですよね、すみません――」


 微笑んで、今度は深く、舌をからめて――

「次のお願いは、やっぱり――?」と、鴻巣が唇を離して言う。


「でも、大丈夫?疲れてるだろうし――」

「涼香のかわいさに、疲れなんか吹き飛びましたよ」


 そう言って、四条を抱きしめる。

 毎回、その腕力に驚くけれど、四条は慌てて身を引き離そうとする。


「だけど、シャワーくらい浴びて、何か食べて――」

「後で、しますから――今はとにかく涼香を犯さないともう、おかしくなりそうで――」


 後でって――いつも始めると少なくとも1時間か2時間くらい――そんな四条の言葉は、鴻巣の圧倒的な力でねじふせられ――


 結果的に、ベッドからはっきりと離れたのは、合間に食事などを挟みはしたが、翌日の午後になってからだった。

 その後も、ずっと家でふたりきりですごしたいという四条の希望通りに、ソファに移動してもなお鴻巣の膝に頭を乗せたまま、雑誌を読むともなくページをめくって――ふと、あれ、ずっと久実にくっついてない?と気づく。

 チラッと目線だけ鴻巣の顔を見るが、鴻巣も同じように雑誌を斜め読みして、眉根を寄せているけれど、それは新聞の社会面や、雑誌のそういった記事を読んでいる時の癖で――四条がベタベタしていること自体は気にしていないようだ。

――恋人同士って、そういえばこんな感じなのかな、と、今更ながら思う。

 四条が若い頃だけでなく、最近の映画やドラマの恋人の言動を思い返せば、こんな感じだったような気がする。

 そういったジャンルの作品は、同世代の若者をターゲット層にしているはずだから、実際とそんなにかけ離れてはいないだろう。


――でも、若い人はともかく――自分は、どうなんだろう……


 鴻巣は、甘えてほしいと、はっきり言ってくれたし、自分なりに、実際にそうしてみると心底嬉しそうにしてくれるが――何でもいいってわけじゃないだろう、もちろん――ただ、その境目が、自分にはわからない。

 わからない限りは、しないほうがいいのかもしれない――

 四条の心の傷――いつか、鴻巣にうんざりされるんじゃないか、という思い――こうして幸福な日々が積み重なっている今は、よりいっそう苦しくて、耐えがたい――


――今、そう思われたら、私は――


 違う、自分がどれだけ傷つこうが、そんなこと、どうでもいいと、彼女に嫌な思いを、負担をかけることだけはしたくないと、自分を律しながらも――


――限度を超えてしまったら、彼女は言ってくれるだろうか、言わないまま、離れていくのだろうか、私は、自分で気づけるのだろうか――


 表情に出さずにいられたらいいのだが、また四条は考え込んで涙が出そうになって――できるだけ静かに、起き上がって――


「涼香?」

「ちょっと、寒くなってきたから――上に何か着ようと――」

「待って、こっち見てください」


 後ろから抱きしめられる――以前もこうされたことを思い出して――


「どうしたんですか、泣きそうな顔になって――」


 顔をのぞきこまれ、返事する間もなく口づけられる。


「何もない――」


 これ以上何か言えば――涙がこぼれてしまう――こんなの、一番いやな態度だ、一番うんざりされそうじゃないか――


「本当に、大丈夫だから、自分の中で、考えすぎてしまって――ごめん――」

「その考えすぎたこと、聞きたいんですけど――」


 そう言って、また口づける。聞きたいのか、キスしたいのか、どっちなの――と、言いそうになり、少しおかしくなる。


「うん?ちょっと笑いましたね、ご機嫌直ってきました?」

「あなたは、不思議な人ね――」

「ええ?私が?」

「普通、うんざり――するでしょう?こんな、わけも言わずに――急に泣きそうになったり、不機嫌になったりする、私のことなんて――」

「全然、しません」


 きっぱりと言われ、四条は面食らう――


「即座に言いきれるって――どういうこと?」

「あれ、言ったことなかったですか?私、涼香がすねたり、不機嫌になったりするのをなだめるのが好きなんです」

「――え?そうなの?」

「そんなところも、かわいくて――かわいくてたまらないんですよ、だから、安心して甘えてください――」

「でも、限度を超えたら?今、考えてたことは――そういうことで――あなたが嫌になる境目が、私にはわからなかったら――」


 あなただって、私を嫌になる、うんざりするんじゃないかって――


「絶対になりません」

「すごい、言いきれるんだね――」

「だって、涼香が甘えるのは私だけですから――私にだから、そうなるんですから、嫌になるわけ、ないですよ」


 そんな涼香をなだめて、甘やかして、犯すのが最高にいいんだという言葉は、ひとまず鴻巣は飲み込んだ――

 飲み込んだけれども、四条にも何となく察しはついたが――鴻巣がきっぱり言い切る時は、大体、その方面のことにつながるので――


「今日、ずっとあなたに――くっついてベタベタしてたから――さすがに嫌なんじゃないかって――それでそう、考えすぎてしまったんだけど――」

「嫌なわけないでしょう、大体、涼香が言ってるのは、私のことが大好きでしょうがない、離れたくないって――そんなかわいいこと言われて、嫌になるなんてありえないですよ」

「そ、そんなこと言ってないでしょ」

「ベタベタしすぎて嫌かどうか、気になったんですよね?私が嫌じゃなかったら、ずっとくっついてたいってことですよね?」

「あ――そうか――」

「ほら、ね」


 耳から頬まで、どんどん紅潮していくその白い肌を眺めて――鴻巣はムラムラした気持ちを隠さずに舌でなぞっていく。


「また、ベッドに行きましょうか――」


 後ろからきつく抱きしめられて、四条は動けない――それでも身じろぎして「だけど――3時間くらい前まで、してたのに――」と、抗議する。


「優しくしますから、だってずいぶん寂しくさせちゃったみたいで――私も涼香ともっとくっつきたいし――」


 鴻巣のシャツを抱きしめて寝ていたのを見られたことを思い出して――余計に恥ずかしくなってきた四条は「ずるい、自分ばっかり――かっこいいこと言って――」と、涙目で睨む。


「だって、私は涼香の王子様ですからね、かっこいい恋人でいたいんです」


 笑って言われ、四条も思わず微笑んでしまう。


「私のお姫様――大事なお姫様のために――ね」


 もう一度、念入りに深く舌を絡めたキスをされて――四条は鴻巣の腕の中で陥落した――

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