ウィット・ワールド
むっしゅたそ
放課後のグラウンド
転校生がやってきた。中二までは広島県に住んでいて、家庭の事情で岡山県に引っ越して、僕の中学校に三年制の頭から通い始めるようだ。黒板に荒谷光と板書して、荒谷さんはこちらを向いた。
「初めまして。荒谷光です。特技はソロバンと速記。前の学校での部活動は演劇部でした。中三だけの短い期間ですが、どうかよろしくお願いします」
荒谷さんははにかんでお辞儀をした。美人だ。周りの人間もそう思っているに違いない。白い肌とつるっとした輪郭。まっすぐ通った鼻筋と、その下にあるやけになまめかしい唇。両眼は猫のように愛くるしい。皆の歓迎ムードにより、教室は熱烈な拍手に占領された。
荒谷さんは呆気なく三年C組の人間と打ち解けて、人気者になった。成績も優秀で、かといって才色兼備をひけらかすことはなく、瞬く間に「完璧美少女現る」と噂されるようになった。
僕は美人が苦手だ。喋ると緊張するからだ。その代わり見るのは好きだ。僕は斜め後ろの席に座り、授業中の荒谷さんの顔を眺める。授業に集中している真剣な横顔と、少し気の強そうな目尻を見ながら、僕は荒谷さんの裸を想像する。他の女子生徒よりも高めの身長と、豊満で、尚且つ贅肉の少ない体。背中に傷が一カ所ある。小さい頃交通事故に遭ったときの傷だ。その傷をバイクでつけた相手は交通刑務所には行かなかった。示談交渉をして荒谷家にクッキーを持ってきた。荒谷さん本人も、警察の質疑応答に、出来るだけ加害者が不利にならないように注意深く答えた。荒谷さんは優しかった。加害者の男は、中一の荒谷さんの優しさに胸を打たれて恋をしそうになった。彼はロリータ・コンプレックスという訳ではなかったが、三十路なのに女性と性交渉をしたことが一度もない矮躯の肥満で、女性からは軽蔑と攻撃しか受けずに大人になったから、人生初の異性からの優しさに脳が混乱しているのだ。恋をしている男は統合失調症のようだ。彼は自分の「好き」という気持ちと折り合いをつけた経験が乏しかったから、より混乱した。混乱した結果、尤も愚かな結果を出した。荒谷さんをさらうことを心に決めた男は、毎日通学路を見張って、荒谷さんがどういったリズムで生活しているかを徹底的に研究した。「ひかりちゃんノート」は三冊を越えて、もう荒谷さんについての情報は、生みの親よりも沢山持っていた。荒谷さんは週に1回水曜日塾に行く。塾に行く日は家に帰らず、学校の図書室を使ったあと直接自分で塾に行くので、さらうならこのタイミングがベスト。男は水曜日荒谷さんの通学路のそばに自動車を停めて待ち伏せしている。荒谷さんは何も知らず、図書館から本を借りて、それを鞄に入れて学校から出てくる。塾に向かって歩いている荒谷さんに、男は背後からゆっくりと忍び寄る。叫ばないよう脅すために男はナイフも用意している。男は荒谷さんの方を後ろから叩いた。振り向いた瞬間刃物を突きつけた。
「動くな。おとなしくゆっくりこちらに歩いてこい」
僕はその男の後頭部を金槌でフルスイングする。鈍い感触があるが、一撃でやりそこねた。男は叫んでこちらを振り向く。僕は立て続けに二発目を男の側頭部に打ち込む。しかしこれは読まれていて男は金槌を左腕でガードする。僕はフェイントで腹に金槌を降った。男が腹をガードした瞬間、その軌道を変えて顎に一撃。男は倒れてそのまま立ち上がってくることはない。もしかしたら死んでしまったかもしれないが、そんなことは僕には関係ない。荒谷さんは震えていた。怖かったのだ。――ああ、怖かっただろう。僕が助けに来たよ。助けに来たよ荒谷さん。
授業のチャイムが鳴って僕は我に返る。――僕は馬鹿か? 典型的なヒーローズ・ジャーニーじゃないか。それも末期の。
次の授業は英語だが、教師がろくでもないのでこれは受けずに帰ってしまってもいい。僕は荒谷さんの方を向いたが、やはり授業を受けるつもりらしい。僕は自傷的な気分になって家に帰った。
家では職にはぐれた父が焼酎を飲んでいた。僕が学校を途中で抜け出して帰ってきたことに感づいたようで、グラスも使わず酒瓶を片手にこちらを睨み付けている。
「おい啓介、なんでこんな時間に家に帰ってきてるんだ。授業はどうした」
あんたに言われたくはない、という感情を押し殺して僕は歩いて自分の部屋に戻った。もちろん、荒谷さんを守るために使った金槌も父親には向けず押し殺したのだ。
私立に進学する連中は、今頃人生をかけて勉強している。運動部のエースだった奴も、自分の人生がかかったら大好きな部活動を呆気なく辞めて勉強に集中している。スポーツ推薦を貰う奴は中三になっても頑張って部活動をやっている。不良の連中は鳶職か土方か大工になることを概ね決め込んでいて、将来設計は万全だ。数人の登校拒否生徒と僕だけが、将来設計の存在しない空間に住んでいた。ああ、そんな人間に、クラスのヒロインを狙う資格が何処にあろうか? それこそ、性犯罪者予備軍を、撲殺でもしない限り、その資格は得られないのではないか。ノック音が聞こえた。「啓介酒買ってこい」
僕は近くのスーパーで二五度の芋焼酎を買って、夕焼けを眺めながら家に帰った。僕は生きるために家に帰ってくる。父親はそのことをよく知っているのだ。僕は夕食を食べなければならないし、睡眠を取らなければならない。母親は、父親と同じ家で夕食を食べなくても、睡眠を取らなくても、生きていけるから帰ってこなかった。それだけのことだ。僕は父親の読み通り、生真面目に酒瓶と夕食の惣菜を渡した。
僕は父親から使いっ走りにされているだけではない。毎回数百円ネコババしている。僕がその金を貯めていることは父親も馬鹿じゃないから気がついている。チップのようなものだ。だから父親はいつでも安心して僕を使える。空は暗くなり、陰鬱な雰囲気を醸している。初夏の暑さがアスファルトに残り、それが夜中の街を蒸す。僕はその熱を命の熱だと思っている。からっとした風を切りながら僕は学校まで歩く。もう犬の散歩をしている人やジョギングしている人もいない時間帯だ。窓から漏れた光と街灯に照らされた田舎道、前を向いて歩く。汗が噴き出すが敢えて拭かない。
学校に到着して、閉まった校門の横のブロック塀を乗り越えて、中に入ると、僕はポケットウイスキーを一口飲んだ。かっと胸が熱くなる。父親の酒を飲んでいる姿が目に浮かぶが僕はそれを消す。
グラウンドまで歩くと、見知らぬ人影があった。僕は立ち尽くして息を飲み、その光景をただ見る。
無目的に人影がぐるぐるとグラウンドを周回している。よく見るとその姿は荒谷さん。表情はなくただただグラウンドを歩き続ける。将来の夢に溢れた、才能に恵まれた、目的意意識に満ちたあのクラスの人気者、皆が憧れ一目置く荒谷さんが、意味のない徒歩を続けている。表情は怒っているわけでもなし、笑っているわけでもなし、何かしらの陰りがあるわけでもなかった。理由を考えることはナンセンスだった。それは人生という入れ物から落下した僕と、人生という入れ物に(恐らく、多分、きっと)すっぽり収まっている荒谷さんという全く違う人間が、唯一、何かの間違いで交わってしまった極めて小さな点だからだ。
僕は逃げ出してなかったことにして、次の日を初めて、また妄想の中で変質者を殴りつけたいと思ったが、そのときの荒谷さんはもはや純朴な少女ではなかった。この記憶が僕の中の荒谷さんを全く異なる人物へ作り替えた。僕はウイスキーを更に飲んだ。冷静にならなければいけないのに。
真夏の夜のグラウンドは、傷があるものだけを受け入れる。僕と、――きっと僕以外の脱線した人間全てと、そして何故か荒谷さん。
僕はリュックサックに入れていたロケット花火を取り出して、誰かが置いていった牛乳の瓶を台にした。導線にライターで着火すると、ひゅんと高い音を立てて花火は上空へ飛び、ぱちんと炸裂した。グラウンドに再び目をやると、荒谷さんは歩くのを止めた。僕は暗闇の中、ウインクをした。見えるはずがないからウインクをした。恐る恐る近づいてきた荒谷さんに、
「やあ、僕だよ。同じクラスの。時々こうやって校庭で花火するんだ。たった一人の校庭で。今まではずっとたった一人だった。そして、これからもずっと一人なんだと思っていた。君が引っ越しして転校してくるまではね。不良行為でも、反社会的なものでもない、綺麗じゃないか、花火。たったそれだけだよ。それから夜の校庭は神秘的だ。僕だけの秘密だったんだ」
何故歩いていたのかは聞かなかった。それは野暮だからだ。
「そうね、綺麗だね。私は線香花火とかのほうが好きだけど」
「次は線香花火を持ってこようか。生憎今日は、ロケット花火しかないけど」
「私もしていい? ロケット花火。やったことがないんだ。生まれてから一度も。男兄弟とかがいれば、そういうのをやる機会があったのかもしれないけど」
「いいよ。ロケット花火もいいものだよ。きっと打ち上げているうちに、線香花火より面白いって気がつくと思うんだ」
僕はライターを渡した。荒谷さんは導線に火をつけた。
「いいね」
導線が短くなり、なくなったらじゅっと音がして花火は空へ向かって飛んでいった。真っ直ぐ、夢と目的と強い意志を持って、それに向かって突き進むように。
そして弾けた。意思が弾けたのだ。
「面白いね、ロケット花火」
「僕らもこの花火のように、真っ直ぐ力強く登っていけたらよかったんだ」
「私は少なくとも、そうするつもりよ。線香花火のように、香細い力しかなくても」
僕は顔を左右に振った。
「人間は寄り道をする生き物だよ。ロケット花火のようには行かない。例えばこうやって僕が夜中に学校に忍び込んだり、校則を破ってまでロケット花火をしたりね。こうやってポケットウイスキーを未成年で飲んだりしてね。・・・・・・君もだよ」
僕はウイスキーをまた一口飲んだ。
「私は、お酒は飲んでないけどね」
「荒谷さんもどう? 無意味な世界との付き合い方の一つ」
僕がウイスキーの瓶を冗談で手渡すと、荒谷さんは躊躇なくキャップを開けてごくっと飲んだ。そして当たり前のようにむせ返った。
「か、辛すぎる……」
「そりゃそうだよ、そうやって飲むもんじゃないもん。舌の上で転がすんだ。舐めるように飲むんだ」
そう言ったら荒谷さんは再びウイスキーの瓶に唇をつけて、ゆっくりと飲み込んだ。
「――変な味」
「そりゃそうだ。安物だもん」
「酷いね、君は」
「いいや、親切だと思うよ」
「どうして?」
「警備員が来たから逃げなきゃいけないってことを、君に教えてあげたから」
「えっ?」
「逃げよう」
僕らは走って校門の外に出た。次の瞬間懐中電灯の光が三本、校舎を射した。
「警備員だよ。今日は三人」
僕は笑った。僕が暫く笑っていると、荒谷さんもつられるように声を上げて笑った。そして、
「間接キス、しちゃったね」
と言って、自分の口元をぺろっと舐めた。僕は自分を支配する酷く巨大な感情を抑え込むことは出来なかった。そして、出来なくてもいいと思っていた。
「荒谷さん。もし荒谷さんがまた、何かに疲れて、或いは何かから目を逸らしたくて、何処かで息抜きをしたり、少し羽目を外したり、無意味なことをしたくなったり、世界が無価値に見えたとき……それでいて、孤独を感じたり、少し寂しくなったときは……」
「――寂しくなったときは?」
真夏の空を見上げた。それはそれは真夏の夜の夢物語。漆黒をベースに宝石が散りばめられている。どれだけ離れていても、どれだけ小さくても、そのどれもが、美しく、力強く光っている。
「荒谷さん。僕と付き合って」
「……」
夏の大三角形。はくちょう座の尻尾のデネブが、わし座の首のアルタイルへ、そしてこと座のベガへ繋がっている。この瞬間だけは、僕に似た全ての人が、同じものを見て感動している。そして隣にいる少女も、天にかかった光を見ているのだろう。息を飲むような美しさは、誇らしげに空を覆い、そして汚しがたい。
「荒谷さん。また花火をしよう」
「――いいよ」
ウィット・ワールド むっしゅたそ @mussyutaso
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