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売買契約通り一度きりのセックスが終わり、男はシャワーを浴びに行った。どんなに真央の身体を手ひどく扱ったとしても、男が二度目のセックスにもつれ込もうとしたことはない。いつも、行為は一万五千円分だ。
貴子と寝たことはない。今後寝ることだってない。
それが鬼を追い払う魔法の言葉だと真央は知っている。口にすれば男は、二度と真央の前に現れない。それなのに、真央は姑息に口をつぐんでいる。
いっそ貴子に、弟と寝ていると打ち明けてしまおうか、と、思わないわけではない。貴子はきっと、ひどいショックを受ける。真央を追い出しもするだろう。そしてきっと、弟と話し合おうとする。そうしたら、あの男はどうするのだろう。話し合いが密室で行われたら、多分貴子の肉体を奪う。けれどもし、密室ではなかったら? あの男は、どうするのだろう。貴子の前から完全に姿を消すのかもしれない。そうすることで、自分という存在が、貴子の中に死ぬまで刻まれると分かっていて。
ぼんやりと、真央は煙草に火をつける。男と寝るたびに煙草を吸うので、どこだかの喫茶店でもらったマッチはこれまでにない速度で本数を減らしていた。
いつも烏の行水の男が、シャワーから出てくる。真央が煙草を吸っていることを見とがめて大股に歩み寄って来て、灰皿を乱暴な動作で押付けてくる。真央は、黙って煙草の火を消す。
「貴子は、」
「貴子さんのことは、なにも知らないって言ったでしょ。」
「一緒に住んではいるんだろう。」
「だからなに? あんただって貴子さんと住んでたこと、あるんでしょ。」
「ない。」
「は?」
「記憶には、ない。物心ついたら、周りには大勢ひとがいた。貴子も、その中のひとりだった。」
同情してはいけない、と、自分に言い聞かせる。多分この男は、貴子が大勢の内のひとりだと認識した時点で、歪みはじめたのだろう。そしてそれは、この男の責任ではない。
「……そう。」
それ以上なにも聞きたくなくて、真央は紫煙の残滓を肺の奥から吐き出し、シャワールームに向かった。男は追ってはこない。真央がシャワーを浴びている間にいつも先にホテルを出ていく。
それでいい。もしもシャワーを浴びた後も男が部屋に残っていて、なにか会話なんかしてしまったら、それが万が一、貴子以外の話題であったとしたら、真央は余計に苦しい。
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