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「貴子は、俺と寝ないから。」
男は平気な顔で、そう付け加えた。
貴子は俺と寝ない。
嘘か本当か、ぎりぎりのラインだと思った。本当に貴子がこの男と寝ていないのか、そんなことは、真央には分かりはしない。
「……もう、来ないで。」
自分を覆うどんよりとしたなにもかもを振り払いたくて、真央がそう吐き捨てると、男は薄い唇を微かに歪めた。それが笑みと分かるのに、数秒を要した。
「来てもいいだろ。あんたが断ればいいだけだ。」
男の言うことは確かに正しくて、真央は咄嗟に言葉が出なかった。嫌いな客には、いくら金を積まれてもついてはいかない。真央はそんなタイプの気まぐれな男娼だった。
「姉ちゃんだって、嫌がるよ。」
逃げ腰になった真央がそう口走ると、男の表情が変わった。すとんと感情が抜け落ち、真っ黒な両目だけが爛々と獣みたいに光る。
やばい。殺される。
真央は咄嗟に身を縮めたが、男は真央の首に手を伸ばしはしなかった。しばらく物騒な沈黙が続き、ゆっくりと男が口を開く。
「貴子のこと、そう呼んでるのか。」
それは問いではなく、ほとんど断定だったのだけれど、真央は首を横に振った。認めたら、今度こそ息の根が止まるまで首を締め上げられると思った。しかもその後、男は多分、貴子の首も締めに行くだろう。闇夜を走る獣みたいに、しなやかで俊敏に。
「あんたの姉ちゃんでしょって意味。」
声が、少し掠れた。嘘はばれているだろうと、真央だって承知だった。それでも認めるわけにはいかない。男はしばらく、真央を見ていた。じっと、光の欠片も宿らない目で。真央はその眼差しに背筋を凍らせながらも、動揺を押し隠してじっと立っていた。やがて男は、真央から視線を外し、真央の腕も離した。そのことに安堵しながらも、もっと見ていて、もっと触れていて、と、内臓の奥深くからそんな声がすることを、認めないわけにはいかなかった。
「……もう、来ないで。」
二度目のそれは、懇願だった。自分は、この男を拒めない。だから、もう来ないで。
「また来る。」
男は非情にそう言い残し、真央を置いて部屋を出て行った。真央は、ひとりでシャワーを浴びながら、自分が震えていることに気が付いた。いつから、と思う。男に、震えを悟られたくはなかった。
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