絶望の底で(レティシア視点・回想)

 脱走はたちまち気付かれ、カミラ教は追いかけてきた。急所は避けながらも、剣で、槍で、弓でもって襲い、レティシアを連れ戻そうとしてくる。


 これは報いだと思った。レティシアも同じように、カミラ教に指定された標的を死なない程度に痛めつけてきたからだ。


 レティシアは追っ手を撒くため、何度も天術を使った。

 しかし使いすぎたせいで、人工天使としての機能が途中で一部不全に陥ってしまう。天術を行使するために必要な天素を取り込めなくなってしまったのだ。


 天術が使えなければ、レティシアもただの子どもだ。逃げ切ることは絶望的になってしまった。 


 レティシアは諦めかけながらも、バルレラ王国の南に位置するメルヒオールという都市に逃げ込む。

 覚束ない足取りで夜道を歩く。そのとき、歩きながら酒を呷っている男とぶつかってしまった。


 仰ぐほどに身長が高く、シャツとパンツが隠しきれないほどの筋肉を持つ偉丈夫だった。レティシアは反射的に恐怖し、無言で立ち去ろうとした。しかし、男は呼び止めてくる。


「おい、お前」


 背後で足音を聞く。男は近づいてきているようだ。何をされてしまうのか──レティシアはさらに恐怖し、震えてしまう。


 だが、何かをされることはなかった。続く言葉があったが、それも威圧的、暴力的なものではない。


「ひでぇ顔してやがんな。何があった? 話してみろよ。助けてやれるかもしんねぇぞ」


 レティシアは困惑してしまった。


 助けると言ったか? 聞き間違いではなかったか。

 男とは会ったばかりだ。レティシアを助ける意味が分からない。だからこそ、裏に何かの意図があり、レティシアを騙そうとしているのではないかと疑ってしまう。


 騙されるのは御免だった。

 だが、途中からこう思えてくる。騙されたっていいかもしれない。


 ずっと独りで逃げてきた。だから、ずっと誰かに頼りたい気持ちがあった。頼れるチャンスがあるなら飛びつきたかった。最悪な結末が待っていたとしても、差し伸べられた手があるなら取りたいと思ってしまったのだ。


 レティシアはゆっくりと振り向く。そして、涙とともに言葉を溢す。


「たす、けて……たすけ、てっ……」


 しばらく、男は目を瞬かせていた。それから、意を決するように唇を引き結ぶ。かと思えば、今度は破顔した。そして、レティシアの頭を撫でてくる。


「ここまでよく頑張ったな。あとは俺に任せろ」


 これが魔女戦争の英雄、グレゴリオ・ディヘスとの出会いだった。



  †



 レティシアはすべてを話す。人工天使計画の実験台となっていたことや、天使の力でカミラ教の障害となる人間を脅す手伝いをさせられていたことを、グレゴリオに伝えた。


 すると、グレゴリオは大胆な行動に出る。レティシアを連れ、カミラ教の本部に殴り込みを掛けたのだ。


「まっ、待って……!」


 いまからでも止めようとするレティシアに、グレゴリオは余裕の表情を見せる。


「なぁに、お前が心配してるようなことにはならねぇよ」


 実際、それは言った通りになった。行く手を阻んできた神兵を、グレゴリオはちぎっては投げ、ちぎっては投げ、まるで赤ん坊と戯れているかのように圧倒していった。そして、ものの数分でオマールがいる教皇室まで辿り着く。


 教皇室に入ると、狼狽した様子のオマールがいた。グレゴリオを目で捉えるなり、オマールは眉を跳ねさせる。


「グレゴリオ・ディヘス……⁉」


「なんだ、俺のこと知ってんのか。じゃあ、話は早ぇな。ジンコーテンシケーカクとやらは聞いたぜ」


「うっ……」


 オマールが上下の歯を噛み合わせた。


「なっ、なんですか……英雄らしく、我々を断罪しに来たとでも言うのですか……⁉」


「ダンザイ? ダンザイっつーのは、何をどうすりゃそうなるんだ? あんまムヅカシー言葉使うんじゃねぇよ」


「我々を、捕らえるのかという意味ですっ……」


「んなこたしねぇよ。そもそも、捕らえる権利なんてねぇしな。俺はもう騎士辞めてんだ」


「だったら、何を……」


「そうだなぁ、いまからすんのは……指図だ」


 グレゴリオは、太い人差し指をオマールに向けた。


「いまから言う二つのことを聞け。一つ目、もうレティシアを追い回すな。二つ目、いますぐ計画は中止しろ」


「それはっ……」


 オマールが顔を背けると、グレゴリオは冷たく目を細める。


「嫌か? まぁ、そっちがそのつもりならいいぜ。こっちもやることやるだけだ」


「やること……?」


「テメェらを叩き潰す」


 その声は、一切の淀みがなかった。


「カミラ教は人を幸せにするためにあるんだろ? けど、できてねぇじゃねぇか。それどころか、不幸にしてやがる。しかも、こんなガキをな。そんなナメたこと続ける宗教なんざいらねぇ。俺がすべてを懸けて、叩き潰してやる」


 尋常ではない強さを有していたことと、オマールに認知されていたことから、レティシアもなんとなくは察していた。きっと、グレゴリオはただ者ではないのだろう。


 それでも、たった一人の男が、大陸に何万と信者がいる宗教を打倒することが簡単なはずがない。だからこそ、それは空言にしか聞こえなかった。


 だがグレゴリオは、空言などとは考えていなかったようだ。

 そう思えたのは、彼の眼差しが真っ直ぐだったから。できるという自信と、やると決めたならやりきるという意志を宿していた。その眼差しは、レティシアに安堵と勇気を与える。一方、オマールには恐怖を与えたようだ。


 オマールはぶるりと身を震わせたのち、首をかくりと折った。


「わ、分かりました……吞みましょう。レティシアはもう追わない、人工天使計画は凍結する……」


 その言葉を聞き、グレゴリオは小さく頷く。そして、ぽかんとするレティシアに笑顔を向けた。


「これで大丈夫だ。お前はもう逃げなくたっていいんだ」

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