貧民街へ

 腐った生ゴミのような臭いを感じながら、舗装されておらず、泥だらけで凸凹がある細道を通る。

 ヒメナとレティシアは、貧民街に足を踏み入れていた。


 二人は辺りを見回しながら歩いている。それは、貧民街が物珍しいからではない。酒場を探していたためだ。そして、酒場を探していたのは貧民街に人がいなかったからであった。


 通行人がまるで見つからない。これでは聞き込み調査が行えなかったため、人がいる場所まで行こうとする。その場所として当たりをつけたのが、酒場だったのだ。


 五分ほど経ったころか。いまにも落ちてきそうな、木樽のイラストが描かれた看板が見つかる。酒場で間違いなさそうだ。

 ヒメナはふっと息を吐いて、扉を開く。


 店に入るとまず、カウンター内でグラスを磨いている、口を取り囲むような髭が特徴的な店主が目に入った。続いて、昼から酒で顔を真っ赤にした、不潔そうな男たちが目に入る。その男たちはみな、ヒメナとレティシアに舐めるような視線を浴びせてきた。


 ヒメナは不快さを覚えながらも、男たちはひとまず無視する。そして、店主がいるカウンターへと向かった。店主は、近づいていくヒメナを一瞥する。


「珍しい客だ。何を飲む?」


「あ、あたしオレンジジュ──」


「君は黙っていろ」


「むぐ」


 レティシアの口を篭手で塞いでから、ヒメナは言い慣れてしまったセリフを口にした。


「王下騎士団レルマ支部です。捜査にご協力いただきたい。話を伺ってもよろしいですか?」


 しばし、店主は沈黙する。


「……何を飲む?」


 すこし経って返ってきたのは、店主が開口一番に告げたのと同じ言葉だった。


 ヒメナは察する。意思疎通が取れていないことはありえない。だとすると、こういうことか──客ならば話すが、客でないなら話さない。協力を仰ぎたかったら金を払え。


 まさに貧民街らしいやり方だった。

 癪には思いつつ、ヒメナは店主に従うことにする。この店主からは話を聞いておきたい。それが飲み物を二杯注文するだけで叶うなら、安いものだと思えた。こういうときの代金は経費になるのか分からないが、最悪自腹になっても構わない。


「わたしにはミルク。オレンジジュースはなさそうだから、君も同じでいいか?」


 レティシアを横目で見ながら、ヒメナは小銭をカウンターに置いた。とりあえず、レティシアが何を頼んでも足りるぐらいの額を出す。


「いいけど……ヒメナちゃん、もしかして奢ってくれるの?」


「あぁいや、とりあえず騎士舎に戻ってから経費──」


「うれしい! ヒメナちゃん、やっぱいい子だよね! すき!」


 レティシアは喜びに溢れた表情を浮かべ、ヒメナの手を握ってくる。手は、ぶんぶんと上下に振られた。


「は、話を最後まで聞け! それでもって放せっ!」


 手を強引に振り払ってから、ヒメナは一度だけ大きく呼吸する。


「すみません、お見苦しいところを。では──」


 ヒメナは気を取り直し、店主に対して人狼事件の説明を始めた。


「──という事件です。何か目撃した、あるいは目撃したという話を聞いた、などはありますか?」


「いや、見てねぇな。見たっていう話も聞いてねぇ」


「なるほど……では、質問を変えましょう。貧民街で人狼の被害に遭った者、人狼の被害に遭ったと思われる者はいませんでしたか?」


「獣に食い荒らされたみてぇな死体が見つかりゃ、さすがに噂が出回る。そんな話も入ってきてねぇな」


「そうですか……」


 胸に重いものが溜まっていくような感覚があった。おそらく、この店主からは有益な情報が引き出せない。それでも、ヒメナはもうすこしだけ粘ってみる。


「では、なんでも構いません。最近で異変を感じたことはありませんでしたか?」


「……ねぇな。最近では」


 その言い方にはやや引っかかった。


「最近では、というと?」


「二、三年前からか。貧民街は毎日のように行方不明者が出るところではあるが、その行方不明者の数が増えてる感じがあるんだ。証拠は、街に漂っているこの物寂しさだな。昔はもうちょっと活気があったんだ。だが、人が減っちまったからその活気はなくなって……」


「それは……」


 事実だとすれば、気になる話ではある。


 しかし、さすがに昔すぎた。人狼事件はつい数ヶ月前に始まった話だ。関係はないと見るべきだろう。騎士団に報告はしてもいいが、いまのヒメナが気にかけるべきことではなさそうだった。


「……なるほど、わかりました。捜査のご協力に感謝します」


 ヒメナは頭を下げてから、ミルクを飲み干す。そして、酔っ払いの男たちがいるほうへ振り向いた。あまり気は乗らなかったのだが、彼らからも話を聞いておこうと思ったのだ。


 だが、その彼らの姿はなかった。知らぬ間に店を後にしていたようだ。残念さと嬉しさが共存する、複雑な気持ちになる。


 なんにせよ男たちがいないなら、この酒場にいる意味はもうない。

 ヒメナはレティシアを連れ、酒場を出たのだった。



   †



 それから、貧民街の酒場を聞き込みのために何軒か回る。

 だが、結果は芳しくない。二十人程度からは話を聞けたが、人狼事件の犯人に近づける手掛かりは得られなかった。


 空がオレンジ色に染まっている。もうすぐ日が暮れそうだ。

 貧民街は夜が最も危険らしい。夜は捜査の効率が悪くなることもあり、ヒメナはレティシアとともに平民街へ戻ろうとする。


 だが、このまま戻ることはできなさそうだった。


「アンヘル、気付いているか?」


「トーゼン、露骨すぎるっしょ。分かんないわけない」


 レティシアとともに、ヒメナは後方に注意を向ける。

 人の気配を感じる。二人は尾行されているようだった。その理由にはいくつか見当がつく。だが貧民街という土地柄ゆえ、どれも気持ちがいいものではなかった。


 ヒメナは気を張りながら、道を進む。そして、もうすぐで平民街へ戻れそうになったとき、ヒメナとレティシアを後ろから追い越すようにして、三人の男が前に立ち塞がってきた。


 振り向くと、後ろにも退路を断つようにして、男が三人立っていた。どうやら、挟み撃ちにされてしまったらしい。

 男たちは携えている槌や棍棒を見せびらかしながら、ニヤニヤと笑っていた。

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