彼女の推しは同級生

降矢あめ

彼のこと

 


 彼女に推しができた、らしい。

 電話越しの報告に、僕は内心動揺していた。

 推し、とは自分が推している人やキャラなどのことで、彼女にとって推しができたのは今回がはじめてではない。僕と付き合う前から彼女はあるアイドルを推していた。過去形なのはつい最近、そのアイドルが引退したからだ。 

 引退発表があった日、熱烈なファンだったにも関わらず彼女は冷静だった。様々な憶測が飛び交う中、静かに推し活を辞めた。

 正直、彼氏として、彼女の推し活についてなにも思っていなかったわけではない。頭ではわかっていても、彼女が目を輝かせて他の男を見ている姿に、多少なりとも嫉妬のような感情が湧くのは自然だと思う。しかし、推し活を辞めた彼女はどこか情熱を失い、彼女の中にある僕では埋められないもの、について考えずにはいられなかった。

 彼女にとって、推しはなくてはならない存在なのかもしれない。それに、と僕は頭の中で付け加える。先輩が嬉しそうに話す声を聞くのは、悪くない。

 そう思い直し、僕は尋ねた。

「で、次は誰ですか?」

 またアイドルか、もしくは俳優か。しかし、彼女の返答は予想外のものだった。

「倉橋くん」

「知らない。何してる人?」

「高校生。同じクラスの人」

「……」

 彼女の新しい推しは、同級生らしい。




 次の日の放課後、僕は山田に連れられ駅前のファストフード店にいた。

「わたる、なんかあった?」

 席に着くなり、渡辺が僕をじっと見る。

「別に」

「目の下にくま、できてんぞ」

「まじか」

「冗談だよ」

 ため息が出る。

 昨日の夜は、あまり眠れなかった。

「彼女?」

 渡辺は鋭い。僕が先輩を目で追っていたことに、最初に気がついたのも渡辺だった。

「先輩に新しい推しができた」

「なるほど」

 頷く渡辺とは対照的に山田は目を瞬かせる。

「え、ちょっと待て。彼女って年上なの?」

「山田知らなかったっけ」

「わたるって自分のことあんまり話さないし」

「確か北高だったよな、なみ先輩」

「進学校じゃん」

「わたるが落ちたとこ」

「まじか」

「同じクラスの人らしい、先輩の推し」

「……まじか」

 僕は先輩と違う高校に通っていて、先輩より年下で、時々しか会えない。でも、同じクラスだったら……。

「それやばくね?」

 山田がポテトフライを一口かじる。

「推しってことは、好きってことだろ。アイドルとか俳優なら可能性低いけど、同級生ならまさかってことも」

「おい山田」

「いいよ」

 自分でもわかっているつもりだ。先輩にとって推しがどんな存在か、先輩にとって僕がどんな存在か。

「それにしても理解できないわ。彼氏がいるのに推しとかって」

「いいだろ別に。俺だってそれを利用して」

「ん?利用?」

 黙っていると、渡辺が代わりに口を開いた。

「こいつ、なみ先輩の好きだったアイドルに似てるんだってさ」

「まじか」

 しなびたポテトフライを口に入れる。

 はじめは、委員会でよく目が合う先輩がいるな、くらいに思っていた。そのうち、上級生の集団の中に先輩を探すようになった。気がついたら視界にいつも先輩がいて、でもそれももうすぐ終わると思っていた頃、先輩に推しがいると知った。僕が彼に少し似ているらしいということも。

 なんのつながりもなくなってしまうことが惜しくて、砕ける覚悟で先輩に交際を申し出た。以来、先輩との関係はなんとか続いている。

「いや、でもなんだかんだ付き合って長いんだろ。嫌なら言えば?」

 たしかに、先輩から推しの存在を取り上げてしまえば、こんなふうに思わなくて済むだろう。けれど、僕にはそれができない。

「楽しそうなんだよ。推し活してる先輩は」

 そんな先輩を好きになって、そこにつけこんで、今の関係になったから。

 比べても仕方がないし、二択で選ばれる自信もない。

「行くか」

 ハンバーガーを食べ終えた渡辺が急に立ち上がり、僕の腕を掴んだ。

「どこに」

「気になるんだろ?先輩の新しい推し」

 僕達が通う高校から電車で二駅。改札を抜け、駅の東口から商店街に沿って徒歩十分ほどの場所に北高はある。

 勝手に校内には入れないため、校門付近でまちぶせしていると、北高の生徒が、チラチラとこちらを見ながら通り過ぎて行く。

「やっぱり目立つな」

「制服が違うから」

「いや、それもあるけど」

 山田は何か言いたげだったが「まぁ、いいか」と口を閉じる。

「あれ?渡辺だ」

 声の主には覚えがあった。

「おお、桜井。久しぶり」

 渡辺が応え、山田は2人の顔を交互に見る。桜井の後ろには友達らしき人がいて、僕らの様子を伺っているようだった。

「ええと、誰?」

「同じ中学の同級生」

 ついでに「なみ先輩と同じ部活の」と、小声で付け加えた。

 目が合ったので軽く右手を挙げると、桜井は腕を組み渡辺に言った。

「もしかして、なみ先輩のこと待ってる?」

「ばれた?わたるが行くって聞かなくてさ」

「ちが」

 渡辺が平然と嘘をつくので、慌てて弁明しようとしたが、すでに遅い。

「相変わらずだね。先輩ならもうすぐ来ると思うよ」

 桜井はそう言うと、少し視線を下に落とした。

「そっちは今日部活」

「今日は休み」

「剣道?」

「そうそう」

「続けてるんだ」

「桜井は」

「陸上。なみ先輩にはまだまだ追いつけないけどね。それ」

 僕の鞄にぶら下がっているキーホルダーを指す。

「中学でも付けてた」

「ああ」

 僕にとって先輩の分身みたいなものだ。お守り代わりにいつも持ち歩いている。

「じゃ」

「ああ、また」

 桜井の後ろ姿を見送っていると、渡辺が僕の肩を軽く叩いた。

「あれ、なみ先輩だよな」

「え?どこどこ?」

「あの木のそばに立ってる人」

 一目で先輩だとわかった。中学でも同じように見ていたから。

 先輩は立ち止まり、一点を見つめている。

「どうしたんだろう」

 視線の先を見て、先輩の表情を見る。

「帰ろう」

 僕は校門に背を向け、来た道を歩き出した。

「会わなくていいのか?せっかく来たのに」

「帰ろう」

 帰り道、山田と渡辺は途切れることなく喋っていた。二人が気遣ってそうしてくれることが、有難かった。

 その日の夜もあまり眠れなかった。







「あれからどうなの」

 僕はその問いが自分に向けられたものだと知りながら、黙ってハンバーガーを頬張る。

 北高に行ってから約一カ月、何回か電話はしたし連絡は取っているけれど、先輩とは会えていない。

 あの日、先輩の視線の先には男子生徒と女子生徒がいた。男子生徒はあのアイドルには似ていなかった。けれど、先輩の表情は推しを見ているときのそれと同じだった。

 もしあのアイドルに似ていれば、と考える。納得できたのだろうか、それとももっと。

「わたる」

「なに」

「あれ、なみ先輩じゃん」

 渡辺の指すほうには、あの日の男子生徒らしき人物と先輩がいた。

「なんでここにいるんだろ」

 心臓が警告するようにドクドクと鳴る。

「あれ、なんか泣きそ」

 考える前に身体が動き、気がつくと先輩の目の前にいた。

「失礼します」

「え」

 先輩の腕をつかみ、店を出る。途中、すれ違う人の視線を感じたが、どうでもよかった。

 駅前からしばらく歩き、人気の少ない公園の隅で僕はようやく先輩と向き合った。

「ごめん」

 こんなにも弱々しい先輩の声をはじめて聞いた。泣きそうな顔も。

 手を伸ばしかけて止め、代わりに拳を強く握る。

「なんで、泣きそうなんですか」

「これは倉橋くんが」

 聞きたくない。言わなくていい。これまで通りずっと、ずっと、なんだろう。僕と先輩はこの先、このままでいられるのだろうか。

「倉橋くんが、ふられて」

 ふられた。倉橋くん、が?

 突如として、湧いて出た新たな可能性に頭が混乱する。ただ、これだけは言える。僕は今、きっととても間抜けな顔をしている。

「先輩、はじめから説明してください」

 先輩の話をまとめると、先輩の推し(倉橋くん)には好きな人(倉橋くんと一緒にいた女子生徒)がいて、その好きな人も先輩の推しで、先輩はその恋に気づいて密かに応援していた。しかし倉橋くんの恋は実らず、先輩が思わず目が潤ませたところを僕たちが目撃した。と、いうことだった。

 話をすべて聞き終え、僕はその場にへなへなと座り込んだ。

「どうしたの?お腹痛い?」

 先輩が僕の顔を心配そうに覗き込む。

 勘違いをしていたらしいことはわかった。けれど、他に聞きたいことがありすぎて、まとまらない。

「なんで、あそこにいたの?なんで倉橋くんなの?わざわざ恋愛してるやつ推さなくても」

「ええと、倉橋くんの家、ここらへんみたいで。わたるくんと一緒に帰れるかもしれないし、あそこにしようって。それから倉橋くんを推そうと決めたのは、似てたから」

「誰に」

 人差し指が僕に向けられる。

「照れた顔が、わたるくんに似てたから。つい応援したくなって」

 言いながら、先輩の顔がみるみる赤く染まっていく。

 似てる?僕に?あのアイドルじゃなくて?

 つまりそれは。

「先輩」

 心臓が大きく鳴る。

「俺が片想いしてても、同じように応援するんですか?」

「片想いしてるの?」

 この人は、どうしてこんなに悲しそうな顔をするのだろう。

 少しの間考えて、呟くように先輩は言った。

「わたるくんのことは推したくない」

 片想いだと思っていた。付き合う前も、先輩の卒業式に告白して付き合ってからも。僕だけが片想いをしていると思っていた。

 立ち上がり、先輩の腕を引いて抱き寄せる。

「人が」

「今はいません。誰か通っても、先輩は俺に隠れて見えませんよ」

 小さいな、と思う。小さくて、あたたかくて、僕の影にすっぽりと収まってしまう。

「先輩ですよ」

 長い髪を耳にかける。

「俺が片想いしてるのはずっと、先輩です」

「私も」

「お互いに片想いしてたら、それはもう両想いだと思いますけど」

「確かに」

 目を合わせて、二人で笑う。

「でもたぶん、俺のほうが先輩のこと好きだと思いますよ」

「そんなことないでしょ」

 むくれた表情も愛らしい。手が自然と先輩の頬に触れ、僕は先輩の唇に吸い寄せられるように短いキスをした。

「はじめて、してくれた」

「なんて言いました?」

 本当は聞こえていたけれど、もう一度聞きたくて聞き返す。

「なんでもない」

「してほしかったんだ」

「べつに」

 「もっとする?」と尋ねると、先輩は赤い頬をいっそう赤く染め、僕の胸に顔を埋めた。


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